長須院竜胆
灯華において”髪を切る”という行為には特別な意味がある。
武家や貴族において、男性は元服する際に伸ばしていた髪を切り整え髷を結う。歳を重ね、家督を子供に譲る際には髷を切って頭髪を刈上げていた。
女性はというと、男性の元服する歳と同じ年齢なると、伸ばした髪を切るという習わしがあった。そして、夫が頭を丸めると同時に髪を切り、布を頭に巻く風習があった。
男性であろうと女性であろうと、公の前で髪を切るという事には”これまでの世界からの離別”という意味合いを有していた。
維新後においては、諸外国の習慣に則って、そして幕府体制からの刷新を世に示すために、新政府が武家の象徴であった髷を結うことを法律で禁じられたことで髷は姿を消し、頭を丸めるという行為のみが”これまでの自分と縁を切る”という意味合いに変わったものの現在まで残っている。
一方、女性はというと、海外からの文化の流入により、上流階級において髪型がファッションとして見なされるようになった。それが時代が進むにつれて中間層にも広がり、様々な髪型を楽しむ女性が街に溢れた。
それでも長い伝統と格式を持った家では、女性が成人を迎える際に髪を切るという文化が残っていた。
当然のことながら、灯華皇家もその伝統を重んじる湯所ある家柄であった。
*
鋏の音がする度に、頭が軽くなっていく。髪の毛がこんなにも重かったという事に長須院竜胆は大いに驚いた。
鋏をいれるその度に断ち切られた髪をまるで金糸を扱っているかのように仰々しく運んで天幕の内と外を行交う女官達の姿をつい目線で追ってしまう。
神職ような出で立ちの宮中専属の理髪師に注意代わりの咳払いを耳にして、直ぐ様姿勢を正す。姿勢を正すと、正面の姿見に映る自分と目が合った。
背中まで伸びていた髪が首辺りで切られ、鏡に映る自分の姿は散髪を始める前とは大きく印象が変わっていて別人みたい。
理髪師がこれまでと異なり、櫛を使いながら鋏を細やか入れていく。心地の良い音と共に、切られた髪が白い刈布の上に降っていく。形を整えているらしい。その軽快な音が眠気を誘い、瞼が重くなってくるのが分かった。
「殿下、この様な仕上がりで宜しいでしょうか?」
完全に気の緩んでいた時に話しかけられて、竜胆は心臓を握られたかのように驚いた。軽く目を見開いただけで、表情にほとんどに出なかった事が奇跡みたいだ。
竜胆は気を沈めながら理髪師の言葉に従い、竜胆は鏡に映る自分を見つめ直した。
背中まで流れていた髪の殆どが首元より少し上で切られ、その中で右耳の前の一房だけが他より少し長かった。
”断髪”の前に依頼しておいた通りの仕上がりだ。
竜胆が仕上がりに満足していることを伝えると、理髪師は一礼を返し天幕の外に出ていった。すぐさま理髪師と入れ替わるように女官達が天幕の内側に入ってくる。竜胆が身に着けていた刈布を外し、鋏や剃刀といった道具が乗せられている台座や姿見を片付けていく。最後に周囲を囲っていた天幕が外される。
部屋の中央に座る竜胆を灯華神道の神々が睨みつける。八角形の部屋で七柱の神々の巨像が部屋を取り囲むように並んでいるのだ。
”浮舟の儀”の行程の一つである”断髪”は王宮内の神殿で行われる。百本近い蝋燭の明かりに照らされた巨像は今にも動き出しそうに感じられた。
実は、竜胆はこの神殿が苦手だった。幼い頃、光熱を出した時に、伝統ということでこの神殿の中に熱が下がるまで寝かされた事があった。
朦朧とする意識の中、巨像達が蠢くさまを幻視し、夢の中で神々が竜胆のどの部位がうまそうかと話し合っている夢を見て、目覚めると神々にぐるりと囲まれていたという経験があったからだ。
竜胆が萎縮している内心を悟られないように表情と姿勢をと取り繕っていると、神殿の神主が現れて、祝の言葉を朗詠していく。竜胆は神像と目を合わさないようにしながら、儀式が早く終わってほしいと、罰当たりなことを考えていた。
皇宮の自室に戻ると、竜胆は学習机の椅子に腰を下ろした。途端にからだが疲労を感じ、全身が鉛のように重く感じる。
この広い皇宮の中で竜胆が心から安らげる場所があるとすれば、この部屋だけと言っても過言ではない。この部屋を出たら、夜にこの部屋に帰ってくるまで、多くの人々の視線にさらされる。
勿論、この部屋でも”学び舎”の課題や家庭教師の先生から読むようにと渡された書籍を期日までに読み終わらなくてはならなかったりと、やらなくてはならないことは多い。それでも、竜胆にとって、この部屋は自分だけの王国なのだ。
竜胆は大きな溜息をついた。所作の先生に見つけられたら、大目玉をくらってしまうだろう。
扉を叩く音がする。物思いに耽りかけていた竜胆が目を向けると、お付の女官の声が聞こえた。右手が、すっと右耳前の神から手が離れていく。
「殿下、お茶をお持ち致しました」
「ありがとうございます。入ってください」
失礼致します。声の主である女官はそう口にすると、ティーセット一式が乗ったカートを押しながら竜胆の部屋に入ってきた。
長谷川千鶴。
灯華の名門・長谷川家の次女で、竜胆より二つ年下の少女だ。
竜胆は少しだけ、体に入っていた力を抜いた。
千鶴は竜胆にとってこの皇宮で気をはらなくても良い数少ない人物だ。
千鶴は慣れた手付きでポットからカップにお茶を注ぐ。舶来品のお茶の香りが立ち上っていく。
「お砂糖とクリームはどうなさいますか?」
「どちらもお願いします」
千鶴が竜胆のお付の女官になってから、およそ一年。その間に竜胆の好みを把握した様で、砂糖もクリームもやや多めに入れてから、千鶴はティーカップを机の上に置いた。共に運ばれてきたビスケットが乗った小皿も乗せられる。
「ありがとうございます」
千鶴に礼を言って、竜胆はティーカップに口を付ける。
甘いお茶を一口飲んで、漸く肩の荷が下りた。
長い溜息が漏れる。顔が緩みきっているのが自分でも分かる。こんな姿は千鶴にしか見せられない。
作法の先生や護衛の小夜子に見つかったらなんと言われるか。
「お疲れのご様子ですね」
「分かってしまいますか?」
竜胆はふり返って千鶴に尋ねた。
「残念ながら」
千鶴は労る様な声色で微笑んだ。年下である筈なのに千鶴は時折、我が子を見るような表情を浮かべることがあった。
「殿下、ご学友の皆様からのお便りがとどいていますよ」
今思い出しましたと言わんばかりに、千鶴がパチンと手を合わせ、カートの中に手を入れた。
千鶴がカートの中から取り出した漆塗りの盆の上には多くの手紙と電報が並べられている。差出人の名前を見ると、竜胆がこの春に卒業した、華族の令嬢が通う”学び舎”で竜胆と同じ教室で共に学んだ学友達からでだった。
共に卒業の日を迎えた人や、中には卒業前に婚姻が決まり、退学した人の名前もあった。
再び千鶴にお礼を述べて、竜胆は差出人の名前に目を通していく。ふと、竜胆の心に淋しさが吹き込んだ。
”浮舟の儀”を終えると、竜胆は成人皇族となる。そうなると、”学び舎”の友人達とも滅多に合うことはできず、中にはこれでお別れになってしまう人もいるに違いない。
その事はとても残念ではあるけれども、皇族という特殊な家に生まれてきてしまった故の仕方のないことだと理解している。
「後で、お返事を書かなければいけませんね」
そう口にしたけれども、それは叶わないことだと竜胆は心のどこかで感じていた。
成人皇族となれば、口にする言葉、記す文字、立ち振る舞いに至る全てが灯華皇国全体の品位に関わってくる。
品位を守るため、皇宮の役人達が言動を徹底的に管理し、万人が想像する”高貴で気品のある一族”を作り上げていく。
先の戦争以降、それまでと異なり”開かれた皇族”を目指している灯華皇族ではあるが、それが却って役人達の管理をより徹底されたものとして、何事においても事前に用意された台本通りの受け答えが求められ、そこに皇族本人の意思は全くと言っていい程反映はされない。
いうなれば”浮舟の儀”によって、竜胆という個人は消えてしまい、長須院竜胆という皇族が生まれる。
そうなると、友人達に手紙を書くことすら役人達の許可が必要となる。書いたとしても検閲され、修正され、竜胆の書いた内容とは大きく異なる文面の手紙が友人達のもとへと届けられる事になる。
もしかすると、既に返事の内容が書き上げられているかもしれない。千鶴の運んできてくれた手紙の封は既に開けられていることからその可能性は高い。
成人皇族になれば、”灯華皇国の皇女”を没するまで演じ無くてはならない。
この”浮舟の儀”が竜胆にとって、最後の自由時間とも言える。だから、叶うはずはないと思いながらも、ものの試しに我儘を口にしてみた。その我儘が実現してしまい、一番驚いたのは竜胆自身であった。
もしかすると、これが竜胆の最後の我儘だということに気がついた誰かが骨を折ってくださったのだろうか。そう思うと、竜胆は大変申し訳なくなった。
椅子から立ち上がると、竜胆は部屋の窓を開けた。昼間の熱気の残滓を伴った風が吹き込んでくる。短くなった髪が風に靡いていく。
竜胆の視線は窓の向こうの夜空に浮かぶ島に向けられていた。皇都・弥生を守護する守備艦隊の本拠地である栄島だ。皇都に暮らしている多くの人々が夢の中にいるであろう時間になっても、煌々と光を放っている。
ここからは見えないけれど、『祥風』は既に栄島に停泊しているはずだ。
その船が竜胆を乗せて出向して、再びこの地へ戻ってくる時、竜胆の子供時代は終わりを迎える。
果たして、”浮舟の儀”が終われば、果たして自分は灯華皇族にふさわしい人間になれるのだろうか。
そんな事を竜胆は右側の不自然に長い一房をいじりながら考えた。
再び風が吹いた。庭園の立木の葉がそよぎ、音を立てる。竜胆の悩みや不安など素知らぬ”夏の月”が天に輝いていた。
”浮舟の儀”の五日前のことであった。
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