約束・下
吹き抜けた風に揺れた木立の葉がこすれ合う音が消えた。いや、元々蝉時雨でそんな音は聴こえていなかったのかもしれない。
「ええと…」
照良は松山大佐の言葉を自分なりに解釈しようと努めた。その間も松山大佐は照良の顔をこれ以上ないくらいに真剣に見つめていた。
「それはつまり、航空中に乗組員側と殿下側との間で問題が起きそうになった際に殿下側につくように、問うことでしょうか?」
もし、そうであるなら断ろう。照良はそう考えた。『祥風』に配属されて早四年。『祥風』にはもちろん、仲の良い乗組員にも愛着だってある。その彼らを裏切る様な事をするなど、松山大佐の頼みだろうと、聞くわけにはいかないのだ。
「そういう事じゃないんだ。殿下側と問題が起きそうになった時、或いは起きてしまった時には、君には冷静に殿下側・乗組員側双方の主張を聞いて客観的に判断できる立場でいてほしいんだ」
言葉が悪かったね。申し訳ない。そう付け加えると、松山大佐は微笑んた。
照良は安心した。安心したのも一瞬、難題を任せれたことに気づいて顔を顰めた。
「要するに、折衷役ですか?」
「そういう事になるね」
これは骨が折れそうだ。折れるだけなら万々歳だ。照良はげんなりとした気分になった。
九百人を超える乗組員達と一個小隊、つまり六十人前後の近衛兵達、そして雲の上の御方。問題が起きないほうが奇跡だろう。乗組員側と殿下側、双方の板挟みになることは必須。先程とは別の理由で断りたい。
「私も問題が起きないよう注視する。君だけに負担が掛からないよう尽力する。どうか頼まれてくれないか」
それに、と松山大佐は続けた。
「報酬は前払いしたからね」
報酬?何の事だか、さっぱり分からない。照良は眉根を寄せた。その様子を見ていた松山大佐は左の口角を少しだけ上げた。
「天ぷら蕎麦、二杯」
あっ。思わず声に出してしまった。
これは、報酬を前もって渡して後から面倒ごとを頼む。照良の父・時良の得意技であった。そして、これをされると照良はどうも断ることができなくなってしまう。
父の被害者である松山大佐に同じことをされるとは思いもしなかった。
気付かないお前が悪い。そんな父の声が聞こえたような気がして照良は墓石を睨んだ。
「広野中佐にも協力していただけないのですか?」
広野中佐は『祥風』の現副艦長であり、松山大佐とも灯錻戦争以前からの長い付き合いである。
「広野中佐はこの度、重巡『日雷』の艦長に就任することが決まって、今回の“浮舟の儀”には同行しないんだ」
「…そうですか。残念です」
照良は落胆した。
「私も同感だよ。広野中佐にも謝られてしまった。しかし、いない者を当てにするわけにはいかない。私もできる限りのことはするつもりだ。照良、何度もいうが、どうか頼まれてほしい」
出るは頭の中で協力してくれそうな士官、下士官、兵卒の知り合いの顔と名前を思い浮かべていく。この全員に協力を求めないと、ろくな結果にならないのは明白で、それを数日のうちに行わなくてはならない。
面倒ごとからな逃げ出したい気持ちと頼まれ事を断りにくい生来の性が照良の心中でせめぎ合う。
その結果、
「…鰻」
ん?松山大佐は訝しげな声を出した。照良自身もなんでこんな結論が出たのか、よくわからない。
「鰻でも奢ってもらわなくては、報酬と労力が釣り合いません」
暫くの沈黙。本当に何を言っているんだ。
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