約束・上
「多喜ヶ原も最初は難色を示していたらしいけれど、なんでもあの滝口中将が竜胆殿下に賛同したらしくてね。多喜ヶ原は大慌てさ」
「あの滝口中将ですか?」
「我が軍の中将で、滝口という苗字の中将は彼だけだよ」
滝口靖彦中将。灯華軍きっての保守派であり、軍内部の最大派閥“滝口派”の盟主である人物である。規則と伝統が服を着ているような印象の人物であると言われ、政界、財界、そして法曹界からも支持を集める人物だ。
その滝口中将が“浮舟の儀”のしきたりを破ろうとしている。松山大佐はなんてことはないといった風だが、照良は大いに驚いた。
「そもそも、“実戦に使われていない艦船”というのも、多喜ヶ原の忖度が通例化したものだから、根拠となる記述は神話にも歴史書にも書かれていないんだ」
皇家の血筋の方が乗られる船が血潮に塗れたものであってはならない。
維新後の新体制となった際に当時の軍務大臣がこう言った。長きに渡る執権家による幕府政治の影に追いやられていた皇家の神聖さを国民に知らしめるため、ということであった。
この発言の裏には、艦船の新造費を軍事費以外から歳出したいという身も蓋もない理由もあったのだそうだが、宮中側は大いに喜び、以降それが続いているのだそうだ。
「そうなのですか」
照良は納得とも不服とも言えない心持ちのまま、そう答えた。
松山大佐はそんな照良の様子を見て苦笑いをし、天を仰いだ。照良もそれにつられて空を見上げた。駆逐艦の姿は既になく、雲と萩原よりも高く浮く島々の影が青空に浮いているだけであった。
「一週間後に『祥風』を栄島の軍港に移す。そこで、竜胆殿下に艦長として『祥風』に着任していただく」
照良は驚き、墓前に佇む松山大佐の背中を凝視した。松山大佐はじいっ、と空を見つめたままであった。
「私は副艦長になって、竜胆殿下の航空を支える大役を承ることになったよ。陸上勤務に移る前に華を持たせてもらえるというわけだ」
そう口にした松山大佐ではあったが、照良は照良は長年の経験から松山大佐の言葉には出していないやるせなさが理解できた。
「大佐は、納得しているのですか?」
「納得も何も、上からの命令だからね。そもそも、『祥風』は私の持ち物ではないし、艦長職も私の経歴であって、私の人生の全てではないからね」
ただ、艦上任務は満期まで務めあげたかったけれどね。そう言うと、松山大佐は肩を落とした。
灯華軍では艦上での任務に年齢制限が設けられている。下士官以下が四十歳、尉官四十六歳、佐官五十二歳、将官六十五歳であり、それを過ぎると、陸上での勤務に移る。
松山大佐は二ヶ月後の九月で艦上任務を終えるはずであったが、今回の の後に艦長に復職させるよりも、任期を早めてこのまま陸上任務に移行させるのが良いと多喜ヶ原は判断したのだろうか。
「陸上任務ではどのような役職に就くのか、決まっているのですか?」
「軍大学の学長だそうだ」
「閑職ではありませんか!?」
軍大学とは世界中の軍事論文を収集し、戦略・戦術を研究することで得られた軍事的知識を士官以上の軍人に供与するための施設である。
聞こえこそ良いが、有力な派閥は独自の研究会を開催しているので、実際の所は主流になれない弱小派閥や派閥に属していない軍人が利用する施設である、ここに配属されるということは、その後の立身出世は見込むことはできないと言われたも当然であった。
未だに内戦の際の新政府側についた州出身者の優遇が見られる灯華軍ではあるが、一時は護国の英雄ともてはやしておきながら、この扱い。理不尽ではないか。照良は沸々と腹がたってきた。
「頼みがあるんだ」
照良の怒りの感情が具体的なものになる前に松山大佐はふり返ってそう言った。
何を頼まれるのか。照良は内心の怒りを多少は放散しながら松山大佐の次の言葉を待った。
「今回の“浮舟の儀”では、『祥風』に長須院竜胆殿下をはじめ、お付の女官や警護の近衛兵一個小隊が『祥風』に乗艦される。ここで問題が起きれば、君達の将来に大きく関わってくる。何としても避けたい。」
松山大佐は照良の両肩をしっかりと掴んだ。一見、文系大学の教授のような風貌である松山大佐ではあるが、照良の肩に架かる力は並のものではなかった。
もしや、今回の“話”の主題はこっちであったのではないか。照良は生唾を飲み込んだ。
「竜胆殿下や近衛兵達と『祥風』の乗組員達との間で問題が起きそうになったその時は照良――」
風が吹き抜ける。それでも、松山大佐の声は照良頭蓋の中にはっきりと響いた。
どんなことが起ころうとも、君は竜胆殿下の味方でいてあげてほしい。
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