かつての“話”

 とうとう田畑も見えなくなり、照良と松山大佐の二人は山林の中を通る緩やかな登道を無言のまま歩いていた。


 高く伸び、枝葉を四方に延ばした木々が茂り、蝉の鳴く声が幾重にも響き渡る。

 

 この山道が行き着く先は、萩原市が開かれて以来、人々の暮らしを見守ってきた生徳寺という凡教の寺院がある。“大円の維新”以降に軍港が置かれ、新たな入植者が入ってきた今日でも人々の心の拠り所であり、弔いの場であった。


 照良の両親の眠る墓も生徳寺の墓地にあるのだが、士官学校を卒業して以来、墓参りに行けていなかったことを照良は今更になって思い出した。

 

 折角ここまで来たのだから、松山大佐の話を聞いた後にでも拝みに行こうか。汗ばんだシャツの襟を摘んで蒸れた空気を外に逃しつつそんな事を考えていると、照良達の前に生徳寺の石段が姿を現した。


 これまで数え切れないほどの人々が亡き人の安らかな眠りを願い、生徳寺へ参拝するために登ったであろう、苔生した灯籠を両側に並べた石段の先に、質素でありながら厳格な趣のある立派な正門が現れた。


 正門を視界に入れたとき、照良は無意識のうちに眉根を寄せていた。この正門には照良自身がどう判断するべきか分かりかねている思い出があった。


 今から五年前、照良が士官学校の第二学年の夏の頃であった。その時も、今回のように照良は松山大佐に散歩に誘われ、この正門にの前で松山大佐に頭を下げられた。


 何事かと驚いた照良であったが、松山大佐が語った話の内容を聞いて、照良は頭を金槌で殴打された様な衝撃を味わうこととなった。


 松山大佐には妻・美幸との間に二人の子供がいた。長男・勇一朗と長女・美鈴である。


 照良の父・時良が存命していた頃、松山宅の庭で照良はよく勇一朗に遊んでもらっていた。松山大佐の友人が家族を連れて松山宅を訪れたとき、子供達の世話をするのが、勇一朗と美鈴の役割であった。


 勇一朗は一回り年下の照良を弟のように可愛がってくれた。照良も勇一朗のことを実の兄のように慕っていた。


 軌道暦四〇一年、トドセバ人民国の内戦において、政府側に灯華皇国が、叛乱軍側にヴァスコニアが援軍を派遣したことから両国の対立が激化し、同年十二月に両国は戦争状態に突入した。


 灯華軍の佐官であった時良と松山大佐、そして尉官であった勇一朗は出兵。そして、松山大佐だけが帰ってきたのであった。


 灯華軍は軌道暦四○ニ年のアンナマリ会戦にてヴァスコニア軍に大敗。百隻近い艦船を失うこととなった。その中に照良の父・朝倉時良が艦長を務め、松山勇一朗が第二砲塔付士官として搭乗していた重巡空艦『雷鼓』も含まれていた。


 遺族の元に戦没者のご遺体が帰ってくることはまずあり得ない。白木の箱の代わりとして贈られてくる灯華軍“命輝等星勲章”と基地に残されていた遺品を詰めた厚紙の箱を前にしても、当時十二歳の照良は泣くことができなかった。


 そんな照良を不憫に思った松山大佐が照良を松山家で預り、照良は松山家の養子のような生活を送ることとなった。


 松山家の人々は照良にとても良くしてくれた。美幸は照良の事を我が子当然に可愛がってくれた。美鈴も弟のように照良を甘やかした。照良にとって、松山家の人々は第二の家族のような存在であった。


 照良が十四歳となったある日のこと、松山大佐にこう尋ねられた。美鈴との結婚を考えてみてはくれないか、と。


 当の美鈴はどう考えているのか。後日、照良は美鈴に尋ねてみた。


 「お父さんに照ちゃんとの結婚について聞かれたけれど、照ちゃんならいいかなって」


 そう答えた美鈴の表情に少し影が差したことに照良は気が付いた。その理由も何となく分かった。


 美鈴には、初恋の人がいた。


 松山家にを訪れていた松山大佐の友人の子供で、美鈴と同い年―照良より四つ年上の少年であった。


 彼も勇一朗と共に良く遊んでくれていた事を覚えている。そして、彼を縁側から見ていた美鈴の視線が熱を帯びていたことにも気づいていた。


 その彼はある日突然松山家に来なくなった。どうしたのかと、照良は父・時良に尋ねてみるた。時良は困った顔をして、外国に引っ越したと教えてくれた。なんとなくではあったが、この話題はこれ以上聞かないほうがいいと思った。


 松山家でも同じように、彼の家族のことを口にする事はなくなった。それでも美鈴がいなくなった少年の事を思い続けている事は明らかであった。


 「…本当に?」


 「…うん」


 美鈴の言葉を聞いて、照良は婚約の話を承けることを決めたのであった。


 生徳寺の正門の前で頭を下げた松山大佐が口にした‘話’。それは照良にとって一大決心であった美鈴との婚約話を白紙にしてもらいたいという話であった。


 松山家は‘維新’による体制変換期に頭角を現した豪商の一族で、松山大佐はその分家筋の出であった。


 近頃、事業拡大のために取引先の企業とより親密な関係を築きたい松本本家の頭首が相手企業の子息との政略結婚を思いついた。そして、一族の内で年頃の近い女性が美鈴であったということだ。


 美鈴には照良という婚約者が既にいる。松本大佐は難色を示した。しかし、彼には本家に逆らえない理由があった。妻・美幸の治療費であった。


 美幸が呼吸器系の疾患に罹り、外国製の高価な薬剤を毎日投与しなくてはならなくなった。灯華国内では高給取りとされる、軍の佐官の給与でも払いきれるものではなかった。その代金の不足分を本家から借りていたのだ。そして、これからも借り続けなくてはならなかったのだ。最初から、松山大佐に選択権などなかった。


 本当に済まない。土下座で謝る松山大佐の姿を見て、頭を上げてくださいと口にしながら、心の内に嫌悪の感情が生まれてきているのを感じた。


 松山大佐に対してではない。松本本家にでもない。

 

 未だに初恋を大切にしている美鈴の心を踏みにじる様な事をしなくて済む事に安堵している照良自身に、だ。


 生徳寺の正門を前にして追憶に浸っていた照良は、頭を振って意識を微睡みに似た感覚から呼び覚ました。


 さて、今回はどんな話をされるのか。腹をくくり、身構えてた照良であったが、予想外のことが起こった。


 松山大佐は正門を通り抜けて、境内に入ってしまったのだ。


 照良はこれまで以上に嫌な予感を感じ、足が重くなった。胃が痛いのは、天麩羅の油のせいだけではあるまい。そうであれば、どれ程良かったか。


 暗澹たる気持ちのまま、照良は門をくぐり抜けた。

 


 


 


 

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