蕎麦二杯
「久しぶりに蕎麦でも食べに行かないか?」
朝倉照良が亡き父の友人であり、彼が航空科長を務める戦艦『祥風』の艦長である松山健一朗大佐にそう誘われたのは明成三十五年(軌道暦四一二年)の7月の末。これから本格的な夏を迎えようという時期であった。
代金は私が出そう。松山大佐の言葉は給与日前で懐の寒い照良には十分に魅力的であり、是非行きましょうとすぐに応えた。
この時、照良は松山邸の庭の草むしりを手伝った駄賃代わりだろうと考えていた。
二人が向かったのは松山大佐の一人暮らしには広すぎる住まいから歩いて十分程のところにある馴染みの蕎麦屋であった。
昼飯時にはまだ早いかもしれない時間であったが、蕎麦屋はそれなりに混んでいた。それでも、蕎麦屋の店主は松山大佐の姿を見ると、わざわざ厨房から出てきて松山大佐と少しばかり話し込んだ。
他の客も馴れたもので、二人のやり取りを見て茶を啜ったり、代金を机の上に置いて店を出ていく姿がちらほらと見受けられた。
照良が何を頼もうかとぼんやり品書きを眺め、店主の娘さんが運んできた湯呑に口を着けていると、話を終えた松山大佐が伝授との話を終えて、椅子に腰をおろした。席に着くなり、松山大佐は大分微温くなっていたお茶をぐいっと飲み干した。
好きなものを注文しなさいという松山大佐の言葉に甘えて、照良は天麩羅蕎麦を注文して定員が運んでくるなり、平らげた。二杯も。
松山大佐は自分が注文したざる蕎麦を食べた後は照良の食べっぷりを鑑賞していた。
思えば、これがいけなかった。
休日であり、松山大佐が照良のことを“朝倉大尉”ではなく、昔からの“照良”呼びであったこと、二人とも灯華軍の軍服である黒の詰襟ではなく、普段着の麻のシャツであった事も災いした。要するに照良は気を抜いていたのだ。
「少し、歩こうか」
店を出た松山大佐は空に浮かぶ雲を見上げながら、ぽつりとそう呟いた。
少し歩こう。この言葉が松山大佐が何か重要な話をする際の予兆であることを、照良は長年の付き合いから知っていた。そして、その話は大抵、悪い話であることも知っていた。
自宅とは正反対の方向へと歩き出した松山大佐の後を追いながら、照良は松山大佐が何を話そうとしているのかと考えた。話の重大さと歩行距離が比例することを知っているので、一歩踏み出すたびに肩が重くなっていく様な気がしてならなかった。
萩原市の中心に近づくにつれ、人通りが多くなる。稀に知った顔に出会うことがあった。彼ら彼女らは大抵がこの市にある軍港に務めている兵士か『祥風』の乗組員であった。
軍港勤務の人はそのまま素通りしていくことがあったが、『祥風』乗組員は姿勢を正して敬礼の姿勢をとった。照良は松山大佐とに倣い、彼らに敬礼を返した。彼らの前を通り過ぎた後、ちらりと振り返ってみると、先程と打って変わって親しげな表情で手を振っていた。
長々と歩いて辿り着いた市電駅前の広場で、思わぬ事が起こった。照良は、松山大佐はこの広場をまっすぐ抜けて軍港の方向へと向かうだろうと考えていた。
ところが、松山大佐は広場は方向を変え、住宅街の方へと足を向けたではないか。
これは一大事だと、このときになって照良は思い知った。
時刻は正午を過ぎた頃。住宅街は人の気配は少なく、洗濯物を叩く音と幼い子供の笑い声が遠くから聴こえてくる。閑散とした住宅街の道を二人は黙したまま歩き続けた。歩き続けて、そのまま市の郊外へと出る。道の両側は水田や畑が広がり、遠くに農家の家が点在していた。
照良は前を行く松山大佐の背中を見つめた。そんなことをしても、何の意味もない事は十分分かっていた。目的地に着くまで、何も喋らない。それも松山健一郎大佐の習性の一つであった。
暗澹たる気持ちになり、照良は空を仰いだ。
照良の内心とは正反対の、夏の青空がそこにはあった。
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