レイテ沖海戦②
帝国海軍第三艦隊とスペイン東洋艦隊は、昭和一六(一九四一)年一二月一一日、水平線にちょうど朝日が昇る頃、サマル島とレイテ島の中間あたる海域で遭遇した。
この時の両者の戦力は以下のとおりである。
〇第三艦隊
戦艦四(扶桑、山城、伊勢、日向)
重巡四(妙高、那智、足柄、羽黒)
軽巡四(長良、五十鈴、名取、由良)、
駆逐艦一五
〇東洋艦隊
戦艦四(フェリペ二世、カルロス一世、アルフォンソ一三世、ハイメ一世)
重巡三(マヨルカ、グラン・カナリア、アルボラン)
軽巡五(サンタ・マリア、ビクトリア、ヌマンシア、レイナ・ソフィア、ナーバラ)
駆逐艦一四
これを見れば分かるように数的には完全に互角、巡洋艦以上の主力艦も双方とも一九一〇年代から二〇年代に建造されたものが多く、質的にも大きな差はない。
戦力がまったく拮抗した艦隊が正面から決戦するという、近代海戦史上稀な戦いがここに始まろうとしていた。
その珍しい戦いで最初に敵を発見したのは日本側であった。
「見張員より報告。敵艦隊、二時方向より接近しつつあり。敵一番艦“フェリペ二世”、二番艦“カルロス一世”、三番、四番艦、エスパーニャ級。さらに巡洋艦四、後続す」
艦橋中に響き渡る声で伝令が報告した。“扶桑”のような旧式艦は艦内電話の設置も後回しにされているため、未だに人による伝令と昔ながらの伝声艦に頼るしかない。
「やはり、東洋艦隊は全力で押し出してきたようです。ここまではうまくいきましたな」
福留参謀長が目を細めて言う。
その口元には不敵なものが浮かんでいる。
近藤はそれに対しいつものように頷くと通信参謀に言った。
「通信参謀、通信はぬかりなく行うように」
「はっ、事前の打ち合わせ通り、各艦とも観測機からの情報を送信するよう準備を整えております」
「うむ、それでは参謀長、頼むぞ」
「はっ、心得ました」
近藤は軍歴の多くを海軍省、駐在武官、軍教育の場で過ごしてきたため、艦隊指揮は不得手だった。
第三艦隊は「占領した南方資源地帯の防衛」が任務とされていたが、それはどちらかと言えば建前で、実戦はあまり想定されていなかった。
第三艦隊の真の任務は、南方の占領地に対して大日本帝国の威信を示すことと、海峡植民地を支配するイギリスや、南方資源地帯を占領する協同であった。
そのためにイギリス駐在の経験があり、政治向きの仕事にも慣れている近藤が長官に据えられ、艦隊参謀や艦長経験が豊富な福留が参謀長として、実質的な艦隊運用の責任者となっていた。
その第三艦隊が予想外の実戦、それも真正面からの艦隊決戦を行うことになり、近藤と福留は打ち合わせて、艦隊戦の指揮は福留が執ることにしていたのだった。
「進路このまま。最大戦速。敵艦隊の頭を塞ぐ。“扶桑”、“山城”は敵一番艦、“伊勢”、“日向”は二番艦を目標とせよ。六戦隊(重巡部隊)は敵重巡、二水戦(軽巡及び駆逐艦部隊)、三水戦は敵の水雷部隊に対処せよ」
心なしかいつもより張りが増したような声で福留が号令した。
敵艦隊との距離はみるみる縮まっていく。
ちなみにこの時、第三艦隊は“扶桑”を先頭に“山城”、“伊勢”、“日向”と続いており、さらにその後ろに四隻の重巡が並んでいた。
その縦隊の両脇には二つの水雷戦隊。この陣形は東洋艦隊も同じである。
おそらく戦闘は、戦艦と重巡が砲撃を行い。
互いの水雷部隊が、戦艦・重巡への魚雷攻撃を行う機会を狙いながら牽制し合うという構図になると思われた。
このままでは頭を塞がれることに気づいたのだろう。
東洋艦隊は取舵(左方向への舵を切ること)を取って第三艦隊との反航戦(互いにすれ違う方向に進みながらの戦い)に持ち込もうとする。
「やはり簡単に頭を取らせてはくれんか……」
福留は苦笑いを浮かべながら呟いた。
一般に艦隊戦では「敵の頭を抑える」つまり、敵艦隊の進路を遮る位置についた側が有利となる。
敵艦隊を射界に収める砲の数が多くなるからだ。
その形から「丁字戦法」とも呼ばれる。
このやり方の有効性は、日本海海戦において、近代海戦史上稀にみる一方的勝利を納めた連合艦隊が、理想的な丁字戦法を成功させていたことからも明らかであろう。
だが今回の場合、双方の速力にさほど差がないため、どちらも丁字を描くことは容易ではない。
「まあ、よかろう。今回の場合、無理に勝ちに行く必要はないからな……艦長、後はよろしく。丁字を書かれんように注意せよ」
「はっ」
“扶桑”艦長の古村啓藏大佐が頷いた。艦隊戦では艦隊司令官が方針を決定した後は、個々の戦隊司令官、もしくは艦長の指揮によって戦う。次に司令官が指揮するのは戦闘を終結させるタイミングの他は、あと一押しで勝てるか、もしくは負けた場合の撤退の判断を下す時くらいだ。
古村が、海軍独特のイントネーションで号令した。
「撃ちー方始め」
程なくして“扶桑”の四基の主砲塔から、艦を覆い尽くさんばかりの砲煙と轟音とともに、八発の主砲弾が放たれた。
「撃ってきた?!あの距離でか!」
参謀の一人が驚愕の声を上げる。
無理もない、日本艦隊が砲撃を開始したのは、スペイン海軍が想定している砲戦距離の一・五倍は離れている位置からだった。
一分も経たないうちに着弾。
“フェリペ二世”の右舷前方にいくつもの水柱が上がった。思った以上に近い。
あの距離から撃って、こんなに近くに着弾させられるとは、やはり噂通り日本人は的に当てるのが得意らしいな――情報参謀はそんな感想を抱いた。
艦隊による砲撃戦の場合、当てるのはそう簡単ではない。
彼我ともに動いているし、回避運動もとる。
さらに波の影響も考慮しなければならない。
ピンポイントで狙いすまして撃つのは不可能。
ならばどうするか。
大まかな見当をつけて撃ち、弾着の結果を元に射撃を修正(その弾着観測のために双方の戦艦・重巡から飛び立った観測機が今も上空で飛び交っている)。
その繰り返しで少しずつ精度を上げ、当たるまで撃ち続けるしかない。
つまり、艦砲とは狙撃銃のようなものではなく、確率論的兵器なのだった。
だが、日本人たちは初っ端から悪くない場所に撃ってきやがった。
俺たちはとんでもない相手と戦っているのかもしれんな。
少なくとも俺たちの海軍にこんな芸当はできない――。
今まさに戦闘を繰り広げている艦隊の参謀にはあるまじき傍観者的感想を情報参謀は抱いていたが、もはや戦いが始まってしまえば、砲術の専門家でもない彼は、手持無沙汰なのだった。
「こちらはまだ撃てんのか?!」
ロドリーゴ司令が焦慮を滲ませた声で言う。
「この距離ではまだ無理です。今しばらくお待ちを」
“フェリペ二世”の艦長が宥めるように言った。
そうしている間にも距離は詰まり、日本軍の砲弾が降り注ぐ。
命中弾は出ていないが確実に弾着の範囲が狭まっている。
轟音。やっとこちらも射撃を開始したのだ。
弾着。司令官以下、司令部の全員、それに艦長が双眼鏡を覗いた。
唸り声。日本艦隊の初弾より近い位置で撃ったにも関わらず、明らかに弾着は遠く、ばらけていた。
万年予算不足のスペイン海軍では(恵まれているはずの東洋艦隊でさえ)満足な実弾演習が行えていない。そのツケが今まさに出ているのだ。
「だからあれほど予算増額を具申したのに!」。
ロドリーゴは内心で叫んだが、現実は残酷だった。
“フェリペ二世”の両舷に水柱が上がった。「挟叉弾」と呼ばれるもので、狙いが正確であることを示す。それでも当たらないのは、地球の自転等による誤差によるものに過ぎず、いずれ艦体に命中するのは時間の問題だった。
堪りかねたように参謀長が言った。
「長官、変針しましょう!このままでは当たります」
だが、それに対しロドリーゴは参謀長の方を見向きもせず、前だけを凝視しながら冷徹な判断を告げた。
「いや、進路このままだ。今は守りに入っている時ではない。我々には後がないということを忘れるな」
戦闘は最高潮に達していた。
二隻の敵戦艦から袋叩きに遭った三番艦“アルフォンソ一三世”は大炎上し、その戦闘力を喪失していた。
“アルフォンソ一世”が属するエスパーニャ級は、全長一三九・九メートル、基準排水量一五七〇〇トンと、列国の超弩級戦艦の中では最小な上に、主砲も三〇・五センチ砲連装四基と砲力でも劣る。
近代改装で速力だけは増したとはいえ、格上の伊勢級二隻に叩かれてはどうにもならなかった。
今は四番艦で同級の“ハイメ一世”が敵四番艦と戦っていた(敵三番艦は二隻がかりで当たることもないと判断したのか、“カルロス一世”に当たっている)。
だが、こちらも一方的負けているわけではなかった。
敵一番艦と二番艦は装甲で覆われた重要区画(ヴァイタルパート)こそ無事なものの、何発かの命中弾を受け、艦のあちこちで火災が発生している(その代償に“フェリペ二世”はB砲塔を失ったが)。
もっと距離を、もっと距離を詰めれば、敵の旗艦に致命傷を与えられる。
“フェリペ二世”の艦長はそのように考え、敵艦との距離を詰めようとしていた。
しかし、奇妙なことに敵艦隊はこちらが距離を詰めようとすれば、その分距離を開け、必ず一定以上の距離を取ろうとしているように見えた。
それはまるで、勝負を決するより致命傷を受けないことを優先しているようであった。
「やはり妙だな……」
戦闘による興奮と緊張が最高点に達していた艦橋内で、呟くような通信参謀のその言葉に注意を向けたのは情報参謀だけだった。
「どうした?」
「いや、日本艦隊の複数の艦から射撃データらしきものが通信で送られているんだ」
「どういうことだ?」
「わからん。射撃が始まってからずっとだ」
情報参謀が数秒考えた後、ある可能性に思い当たり、警告を発しようとしたその時、“フェリペ二世”の前方に水柱が立った。三五・六センチ砲では考えられない太さだった。
「初弾、敵艦隊前方に着弾」
第一艦隊旗艦“伊吹”の艦橋で司令長官、南雲忠一中将は、古の水軍の将のように仁王立ちになりながら伝令の報告を聞いていた。
眼光鋭く敵艦隊を見据えつつ、命ずる。
「面舵を取れ。敵の頭を抑える」
軍歴の大半を洋上で過ごしてきた軍人に相応しい、少し枯れたような声あった。
比島攻略にあたり、GF司令部がもっとも恐れたのは、スペイン東洋艦隊が南部に逃亡し、ドイツ海軍の洋上通商破壊のように補給線をゲリラ的に攻撃する作戦に出ることだった。
それを避けるため。何としても東洋艦隊を洋上での決戦に誘い出す必要があった。
第三艦隊はそのための囮だった。
敢えて電波を発信させ、敵に発見させるよう仕向けた。
第一艦隊では強すぎ、東洋艦隊が逃亡する可能性が高かった。
第三艦隊が東洋艦隊を釘付けにし、第一艦隊が駆け付け、止めを刺す。
これが比島作戦のためにGF司令部が立てた作戦だった。
第一艦隊は“伊吹”以下、六隻の戦艦が所属しているが、長門級、加賀級の各二隻はここにいなかった。
足の遅いそれらは輸送船団の護衛に回し、最大速力三〇ノットを誇る“伊吹”、“鞍馬”、それに巡洋艦と駆逐艦だけを率いて、南雲はこの海に来ていた。
迅速性を優先したとはいえ、四〇センチ砲艦四隻の火力を捨て去るのは大胆な決断のように思われたが、さほどの心配はなかった。
伊吹級は帝国海軍が軍縮条約の失効後に初めて建造した戦艦(より正確には巡洋戦艦)であり、おそらく世界で初めての四六センチ砲搭載艦だった(これは最重要の軍機である)。
その世界初の四六センチ砲がスペイン艦隊に牙を剥いていた。
「台湾軍司令部発、第一四軍司令部。本日早朝、第一艦隊及び第三艦隊はレイテ沖にてスペイン東洋艦隊を撃滅せり。貴軍の進路は安全なり。以上」
伝令が台湾軍司令部からの電文を読み上げると、第一四軍司令部が置かれている揚陸艦“神州丸”の会議室にどよめきが広がった。
ちょうど上陸作戦開始前の最期の打ち合わせをしながら、食事として配られた握り飯を食べている時だった。
居並ぶ幕僚たちは口々に安堵の言葉を交わし合う。一四軍司令、本間雅治中将は伝令兵に向かって言った。
「『海軍の奮闘に感謝す。後は任されたし』そう本間が言っていたと台湾軍司令部に伝えてくれ」
伝令兵が敬礼して去ると本間は幕僚たちに向き直って言った。
「さて、海軍側は任務を見事に果たしてくれた。この上は我々もそれに恥じぬ働きをせねばなるまい。ついては今一度手筈を確認しておきたい」
「
「はっ」揚陸作戦担当の大佐が立ち上がった。
「作戦開始は二時間後の一三〇〇.まず戦艦“長門”以下四隻による艦砲射撃にて上陸予定地点に展開している敵軍を殲滅。第三師団から上陸を開始。橋頭保を確保した後、順次重装備と弾薬・物資を揚陸。この時点で第三師団は内陸への進撃を開始。第一一・一六師団も上陸を開始します。日没までにここまでの手順を終える予定です」
「よろしい。今一度、将兵に装備の点検、手順の確認を徹底させるよう各部隊長、各部署に伝えてくれ」
「承知しました」と応えたのは参謀長である。
「それから―」と本間は会議用の長テーブルの中ほどに着席している男たちに目を止めた。
顔立ちは東洋系だが、どことなく日本人とは違っている。
またそろって背広を着ているのも、軍服の男たちばかりがいるこの場では異質である。
「ミスター・ロハス、作戦にあたっては植民地軍にいる貴方方の同胞を少なからず殺傷することになるだろうが、どうかお赦しいただきたい」
合衆国駐在武官時代に仕込んだ見事な英語でそう言った本間に対し、ロハスと呼ばれた男は、多少訛りはあるが流暢な日本語で返した。
「本間将軍、どうかお気になさないでください。我々も独立を無血で勝ち取れるなどとは思っていません。それに我々も皆さんとともに上陸し、植民地軍の中にいる同胞たちに投降を呼びかけましょう。無益に流される同胞の血を一滴でも減らすために」
この男の名はマニュエル・ロハス。フィリピンの独立運動家である。
一〇年ほど前から亡命先の日本で活動していた。
日本国内には、ロハスのように欧米諸国の植民地となっているアジア諸国の独立運動家が多数亡命していた。
日本政府は南方資源地帯攻略の際にこれらの活動家に協力を要請。
現地での軍政などで協力を得ていた。
今回、比島攻略軍にもロハス以下、フィリピン独立運動家が何人か同行している。
ロハスの言葉を聞いた本間は大きく頷く。
「そう仰っていただけると我々も救われる気持ちです。さて――」
本間は目の前にある食べかけの握り飯に目を落として言った。
「後は作戦発動を待つばかり。その前にできる最後の仕事を済ましておこうか」
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