レイテ沖海戦①
スペイン海軍東洋艦隊所属の潜水艦“トラモンターナ”は、艦長のアレサンドロ・グラシア・ロペス少佐が仮眠から目覚めるのを待っていたかのように複数の航走音を探知した。
“トラモンターナ”は昨夜、洋上航行をしている際に不審な電波を傍受。
その発信源を追っているところだった。
下士官の報告によって起こされたロペスは、軍服の上着を羽織ながら「艦長室」を出た。
「艦長室」といっても簡易ベッドと小さなテーブルだけが置かれたスペースをカーテンで仕切ったに過ぎないが、それでも潜水艦で個室が与えられているのは彼だけだ。
全長五七・八メートル、全幅五・八メートル、水中排水量六八四トンの、戦艦と比べれば小舟に等しい艦体に武器弾薬、機関、通信機、食料……この艦が戦闘艦たるに必要なその他諸々が詰め込まれている。
人の居住に使えるスペースはさらに小さく、兵の中には魚雷と枕を並べている者もいることを考えると、この程度のささやかさでも「艦長室」たるに相応しいことが分かるというものだろう。
発令所に入る。
戦闘指揮を執るこの艦の中枢だが、五人も入ればいっぱいの、これまた狭い空間である。
ロペスと交代して仮眠を取るはずだった先任士官が敬礼した。
ささやくような声で報告する。
何も部下に聞かせられない話をしようというのではない。
静粛性が命の潜水艦では会話の声さえも命取りになりかねないのだ。
「五分ほど前からです。北から二、三隻。水測長の話では駆逐艦ではないかと」
ロペスは当番兵の運んできた塩入コーヒーを飲みながら応えた。
塩味が苦みと混ざり合って眠気を覚ます。
「駆逐艦か――この海域に味方の艦はいないはずだな?」
「ええ、そのはずです」
「ならば答えは一つだな、『敵』――日本海軍だ」
スペイン海軍は東洋艦隊に四隻、全体で八隻の潜水艦を保有している。
いずれも前大戦末期にドイツで建造されたもので、戦後の経済危機のために軍縮を余儀なくされたドイツ海軍が売却したものだ。
そのうちの一つである“トランスモンターナ”はルソン島周辺の海域で、哨戒任務に就いていた。
元は訓練を兼ねたものだったが、昨日艦隊司令部から「ルソン島空襲さる」の一報を受け取ったことで、それは実戦になった。
以来、司令部からの命令に従い、ルソン島の東の海域に移動し、日本艦隊を発見すべく哨戒活動を継続していた。
「確かめねばならん。潜望鏡深度につけ」
メインタンクから海水が排出され、艦が浮かんでいくのがわかった。
「潜望鏡上げ」
ロペスが潜望鏡を覗くとすでに夜が明けている海上から、朝日が差し込んできた。
まぶしさに目をしかめる。
だが、この艦の艦齢とほぼ同じ、二〇年以上を潜水艦乗りとして過ごしてきた彼の眼は、海上を進む三つの影を見逃さなかった。
「いるな、確かにあれは駆逐艦だ」
そう言うとすぐに潜望鏡を下ろすように命じた。
あまり長く上げていると発見される恐れがある。
「向こうはまだ本艦に気づいていないようです。喰いますか?」
「いや、恐らくあれは前衛だ。その後ろに艦隊だか、船団がいるはずだ。その本隊を確かめねばならん。水測長、大型艦と思しき音を探知したらすぐに知らせろ」
程なくして大型艦の航走音が探知された。
再び、潜望鏡を上げる。
「いるぞ、いるぞ。あの艦橋は……フソウ級だ。その後ろにもう一隻」
潜望鏡からの限られた視界でも扶桑級戦艦の特徴的な艦橋は判別できた。
「フソウ級の後ろにさらに戦艦二隻…あれはイセ級だろう。上にいるのは第三艦隊だ」
「第三艦隊?南方資源地帯の警備を行っているはずでは?」
「今回の作戦のために引き抜いたのだろう。日本人どもめ、
「艦長、今すぐやりましょう」
まだ若い先任士官が血気にはやる。
「待ちたまえ、先任。我々の任務は何かね?『哨戒』だよ。それを忘れてはならん」
ロペスは年著者として若者を諭すと、航海長(彼は水兵からの叩き上げだ)に向き直って言った。
「航海長、電池を節約しつつ最大限迅速に当海域を離脱するのだ。一刻も早く司令部にこの情報を報せる」
「駆逐艦“磯風”より報告。敵潜、当海域より離脱していきます」
伝令の報告が帝国海軍第三艦隊旗艦“扶桑”の昼戦艦橋に響いた。
「どうやら狙い通り、敵潜は本艦隊の位置を通報してくれそうですな」
帝国海軍第三艦隊参謀長・福留繁少将は、傍らの長官席に座っている近藤信竹中将に向かって言った。
「そうでなくては、わざわざシンガポールから出張ってきた甲斐があるまい」
艦隊司令官というより、歴史あるお坊ちゃん学校の校長といったような風貌の近藤は、それに似つかわしい鷹揚な調子で応えた。
「それで、東洋艦隊は出てくるだろうか?」
「その可能性は高いと考えます。東洋艦隊の主力は旧式戦艦四隻。我が方と同等です。あちらが本艦隊を主力と判断すれば、必ず攻撃を仕掛けてきます」
作戦参謀の古内中佐が答えた。
「会敵はいつ頃となるか?」
「一一航艦からの情報によれば、台南空の二式大艇がシブヤン海を航行する東洋艦隊を確認しています。本艦隊もこのままの速度を維持しますと、およそ二十四時間後にレイテ島付近で会敵するかと」
「よろしい。このまま大水上警戒を厳となせ。各員は交代で休憩をとるように命じろ」
「日本海軍第三艦隊と見られる艦隊は、カタンドゥアネス島東の沖合を南下していたとのことです」
スペイン東洋艦隊作戦参謀は、指示棒で壁に掛けられた地図を指し示しつつ、そう述べた。旗艦“フェリペ二世”の作戦室である。作戦参謀はさらに続ける。
「これはおそらく上陸船団の前衛と思われます。我が方の航空戦力は完全に壊滅しており、空からの偵察が不可能な今、確認は事実上不可能ですが敵艦隊を破り上陸船団に一撃を加えることができれば、敵の上陸を阻止し、作戦を遅延させることができます。そうなれば合衆国等の介入を待つ時間を稼ぎ、フィリピンを守り切る可能性が生まれます。よって小官は、発見された敵艦隊への攻撃を提案します」
そう言い終えると作戦参謀は指示棒を置いて席に戻った。一瞬の間を置いて戦務参謀が挙手する。
「作戦参謀の言うことはもっともだ。幸い日本海軍の第三艦隊は旧式戦艦を主力とする部隊だ。それならば我が東洋艦隊でも勝ち目がある」
スペイン東洋艦隊には四隻の戦艦がいる。
その内訳は合衆国から購入したニューメキシコ級とカリホルニア級が各一隻、そしてスペインが建造したエスパーニャ級戦艦が二隻だった。
いずれも前大戦前後に建造された旧式艦で、ニューメキシコ級が四五口径三五・六センチ(一四インチ)砲三連装×四を主砲とし、カリホルニア級が五〇口径三五・六センチ砲三連装×四を主砲としていた。
また、エスパーニャ級は五〇口径三〇・五センチ砲連装×四基を有していた。
日本海軍主力で四〇センチ砲を主砲とする長門級以降の戦艦群には太刀打ちできないが、四五口径三五・五センチ砲連装×六基の扶桑級や、同じく四五口径三五・六センチ砲連装×六基の伊勢級となら互角に戦い得た。
日本軍が第一艦隊ではなく第三艦隊を投入してきたのは、東洋艦隊を侮ったか、主力を対米戦のために温存したのか定かではないが、いずれにせよ(彼らの表現を借りるならば)「神の御加護」とでも言いたくなるところだった。
日本軍の侵攻が始まったとき東洋艦隊にできたのは、日本軍機の空襲が飛行場に集中している間にマニラ港を脱出することだけだった。
今も「ルソン島への上陸が予想される日本軍上陸部隊への攻撃の機を窺う」という名目の下、レイテ湾へ「転身」すべくシブヤン海を南へ向かっている。
自分たちは何ら有意義な働きを果たせないまま、このままフィリピンが陥落する様を傍観するしかない――このような無力感に支配されていた艦隊の中に、希望が生まれつつあった。
「卑劣な日本人」に一矢報いるどころか、逆転の一撃を喰らわすことができるかもしれない。
日本人め、「無敵艦隊の末裔」を侮った罰をくれてやる――このような考えが、作戦室にいるだれもの頭を占めたとしても不思議はない。
作戦参謀の進言に次々と賛同する者が現れた。
このまま方針が決するかと思われた中で、末席に座っていた一人の参謀が発言の許可を求めた。
幕僚の中でもっとも若い情報参謀の少佐だった。
「情報参謀、何かね?」
参謀長が発言を促した。
「発見された敵艦隊についてですが、これを上陸部隊の前衛と断ずるのはいささか根拠が弱いのではないでしょうか?制空権を奪取され航空偵察が不可能になった今、致し方ないところではありますが、艦隊の後方に上陸船団が確認されたわけではありません」
「それは確かにそうだが、では上陸船団の前衛でなくて何だというのかね?上陸する気もない場所に艦隊を差し向ける意味は?」
作戦参謀が質問を返した。
「それについてですが、敵艦隊を発見したという潜水艦のことが気になります。彼らは攻撃を受けず、発見もされなかったというではありませんか。日本海軍の対戦能力は英海軍と並んで世界の一、二を争います。そのような海軍が自艦隊の艦型がはっきり分かるほどに接近した潜水艦に全く気付かないということがあり得るでしょうか?」
「第三艦隊に配備されているのは、比較的古い艦が多いそうではないか?発見されなくとも不自然ではあるまい?どうも先ほどから歯切れが悪いな。言いたいことがあればはっきり言えばどうだ?」
作戦参謀が苛立ったような声で言う。
「つまり、第三艦隊はあえて自分たちを発見させたのではないでしょうか?我々を誘い出すために」
作戦室の空気が一瞬変わった。
全員が虚を突かれたように、あるいは息を呑むように、一瞬言葉を失った。
気を取り直したように作戦参謀が反論した。
「だからどうしろというのだ。引き返せとでもいうのか?我々はすでに発見されている。今敵艦隊に背中を見せるわけにはいかん」
「しかし、無視できない不確定要素がある以上、行動は慎重になるべきです……」
情報参謀がさらに反論しかけたが、二人の間にこれ以上険悪なものが生まれつつあることは察した参謀長は、ロドリーゴ司令長官に決断を促した。
「長官、意見は出尽くしたようです。方針はいかがなさいますか?」
「ふむ……情報参謀の懸念は分からんでもない……だがしかし、我々に選択肢はないのだ。今さら他に行くところなどない。敵がレイテに来るというのなら、戦おうではないか。それが祖国が我々に期待する義務だ」
武人肌の艦隊司令長官は厳かに宣言した。
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