比島攻略作戦

 京都市・北山は大日本帝国の帝都における外国公使館街の一つであり、かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の後継たるオーストリア帝国大使館(ドイツのオーストリア併合にともない現在は閉鎖中)、オランダ王国大使館、ドイツ帝国大使館、イタリア王国大使館(第二次大戦にともない現在は閉鎖中)、スペイン共和国大使館などが所在している。

 

 そのうちの一つであるスペインのサンチャゴ・メンデス・デ・ビーゴ・イ・メンデス・デ・ビーゴ大使は、すでに在任一〇年近くになり、駐日外国大使の中では古株にあたる。

 ビーゴ大使は、風光明媚で人も穏やかで親切なこの国をひどく気に入っており、休日には大津や丹後へと足を伸ばすことも珍しくない。

 大使にとってこの国は、月並みに表現すれば「第二の故郷」とでも言うべき存在になりつつあった。


 だが、それはそれとして駐日スペイン大使という仕事は、特にここ数年、ひどく難しい仕事になっていた。

 もとより日本の台湾と海南島は、スペインの植民地フィリピンと隣り合っているため、何かしらの摩擦が存在しているのが常なのだが、今次大戦の勃発後、日本が日英同盟にしたがって参戦し、スペインが「親独中立」とでもいうべき立場をとると、両国間の関係は一挙に緊張の度合いを増した。

 

 また、今年に入って日米開戦の可能性が現実味を帯びてくるに従い、日米両国はフィリピンをめぐって暗闘を繰り広げたから、ビーゴ大使もそれに巻き込まれる立場となり、その心労は強まるばかりだった。

 

 一二月九日のこの日も、大使は早朝から日本の吉田茂外相と会見するため、京都の街に公用車を走らせていた。

 日本外務省から丁重だが有無を言わせない呼び出しがあったのが前日の午後。

 その日の朝に横須賀と日本領サイパンに合衆国軍の空襲があり、ついに日米が開戦したから、大方用件は「日本側に付く」か「中立の念押し」―おそらく後者だろうと、ビーゴ大使は考えていた。

 

 公用車が外務省(堀を挟んで二条城と隣接している)の車止めに到着し、秘書官とともに通用口(早朝であるためまだ正門は空いていなかった)から入る。

 大臣応接室に通されてさほど間を置かずに、大日本帝国外務大臣・吉田茂氏が入室してきた。

 

 彼は珍しいことに席についても葉巻を取り出さなかった。

 それにいつもの笑み(決して人を和ませるようなものではなく、人を喰ったような)もなく仏頂面だ。

 お得意の英国式ジョークを披露することもなく、最低限の社交辞令を交わした後、吉田外相は傍らに控えている外相秘書官が持っていた紫色の包みを差し出した。


「中には我が国の天皇陛下から発せられた宣戦書が入っておりますs。現在時刻、一二月九日七時を以て大日本帝国政府は貴国に対して宣戦を布告します。我が軍による攻撃が間もなく開始されると思いますので、本国への通報をお勧めいたします。では、私はこれで」


 


 開戦前から水面下で日本側につくようにスペイン政府やフィリピン総督府に働きかけていたとはいえ、日本の比島(フィリピン)攻略作戦「M作戦」は一方的に宣戦布告を突き付けるという、外交的にかなり正当性に疑問符が付くやり方ではあったが、日本時間一二月九日八時に開始された。

 日本軍は本作戦に備えて事前に戦力を台湾に集結させており、それは以下のようなものであった。


〇陸軍

第一四軍(本間雅晴中将麾下。機械化歩兵師団三個基幹。約三万九〇〇〇名)。


〇海軍

第一一航空艦隊(基地航空隊、塚原二四三中将麾下。零戦一二六機、九六式陸攻九六機、一式陸攻五〇機、二式陸偵一五機、二式大艇二四機)

第一艦隊(長門級戦艦二、加賀級戦艦二、伊吹級巡戦二基幹)

第三艦隊(近藤信竹中将麾下。扶桑級戦艦二、伊勢級戦艦二基幹)


 作戦の全体指揮は台湾軍司令の安藤利吉陸軍中将が執る。

 

 第一四軍の第三・一一・一六師団は戦前から編成されている師団で、古参兵の比率が高かった。

 また海軍も最新鋭機の一式陸攻五〇機と、主力の水上砲戦部隊を投入している。

 要するに帝国陸海軍は本作戦に現在投入し得る最良の兵力を投入していた。

 この一事が日本にとってとの本作戦の意味を端的に示している。




「現在、〇八〇〇(マルハチマルマル)、ミンダナオ島上空に到達しました」


「おう、了解!今のところ敵影はねえな。このまま行きゃあ存分に叩けるぜ!」


 副操縦士の報告に帝国海軍航空隊、野中五郎少佐は、トレードマークの威勢のよいべらんめえ調で応えた。

 

 眼下は一面の密林である。野中は比島空襲部隊の一隊である、二五機の一式陸攻と護衛の零戦を率いて、フィリピン南部のミンダナオ島にあるラジャ・ブアヤン飛行場を空襲する任務を帯びていた。

 

 フィリピン諸島にあるスペイン軍の飛行場は八カ所。ラジャ・ブアヤン飛行場は台湾からもっとも遠く、そのため最新鋭の一式陸攻が充てられていた。

 一式陸攻は九六式陸攻の欧州戦線での使用実績なども踏まえて開発された機体で、「攻撃機」の名を冠しながら魚雷装備を全廃し、爆装に特化。

 日本軍機としては初の四発エンジンを搭載しているなどの特徴があった。

 「空の要塞」の異名を取る合衆国陸軍のB-17にも比肩し得る性能を持っていた。

 

 野中は隊内無線のマイクを取り、告げた。


「いいか、おめえら、ぬかるんじゃねえぞ。対空・対地警戒厳となせ!俺たちの目標はあくまで飛行場だ。他には一発たりとも爆弾落とすんじゃねえぞ!」

 

 威勢のよい指示に負けないくらいの返事が返ってきたことに満足した野中はマイクを置いた。

彼は海兵出身の生粋の士官搭乗員である。

海兵出の搭乗員と叩き上げの搭乗員にはしばしばわだかまりというか、壁のようなものがあるが、少なくとも野中と部下たちの間にはそういったものは、ほとんどなかった。

 

 それは野中の性格や実際の技量といった理由もあるが、もっとも大きいのは彼が欧州帰りであり、ドイツやフランスの空で幾度も死線を潜ってきたことが大きかった。

下士官・兵にとって物をいうのは階級章の星の数ではなく、経験――特に実戦経験なのであった。

 

 比島空襲部隊には野中のような境遇の士官が他に何人もいた。

 軍令部は比島作戦の万全を期すため、欧州に回されるはずだった一式陸攻だけでなく、実戦経験を積んだ搭乗員も引き抜いていた。

 その代償として、欧州派遣軍司令部からの恨み、つらみ、あるいは雨のような罵倒を受け取ることになったが。

 

 ちなみに野中は欧州ではある陸攻隊の副隊長であった。

 隊長は彼より一足先に急な人事異動で日本に帰った。

 その時、隊内はこぞって、隊長本人以上に海軍上層部の無知・無理解に多彩な呪いの言葉並びたてたものだが、程なくして隊ごと日本に戻されることになった。

 そのような訳けで、今野中はフィリピンの空にいる。

 

 ちなみに、一足先に帰った隊長は今、一航艦の参謀をやっているが、今まさに敵地の空で愛機の操縦桿を握っている野中には、どうでもよいことであった。


 眼前に飛行場の滑走路が見えた。駐機されている軍用機、燃料タンクなどの攻撃目標を素早く確認する(特に燃料タンクは最重要目標だ)。

 今回は精密爆撃を指示されているため、比較的低い高度を取る。

 依然敵機の姿はないが、散発的ながらも対空砲撃はすでに始まっている。

 九六式陸攻に比べ防弾性能は格段に向上したとはいえ、機体の大きい一式陸攻には脅威だ。

 

 野中機の狙いは燃料タンク。

 

 見えた。


「投弾手。爆弾落とせ。派手にやろうぜ!」

 

 程なくして飛行場にひと際派手な爆炎が上がった。


 


 「フィリピン独立軍総司令官」ラモン・マグサイサイの一日は、幹部たちからの報告を聞いた後、山中に点在する独立軍の陣地を視察することから始まる。

 

 「フィリピン独立軍」。そういえば聞こえはいいが、実態は小火器で武装したゲリラ組織に過ぎない。

 そんな取るに足らない組織が、それでも昨年来、もう一年以上も戦い続けられているのは、ミンダナオ島の山がちな地形を生かしたゲリラ戦術、島民の二割を占めるイスラム教徒の協力、そして日本軍による軍事支援といった理由があったが、何よりも大きいのがマグサイサイの存在であった。

 

 本職は自動車整備工である彼は、医者や弁護士、植民地官僚など「植民地エリート」出身者が多い独立運動家たちの中では異色の存在であったが、それだけに前線で戦う兵士たちと心理的距離が近かった。

 と同時にゲリラ戦の指揮に関して天賦の才を持っており、独立軍はその指揮の下、植民地軍に何度も煮え湯を飲ませていた。

 

 だが、最近では終わりの見えない戦いに兵士たちも疲れの色が濃い。

 植民地軍の現地人兵に寝返りを呼びかける宣伝工作も行っているが、期待したほどの成果を挙げられていない。

 戦いの行き詰まりにだれよりも危機感を抱いているので、マグサイサイは以前にも増して、視察を行い、兵士一人ひとりを激励することに力を入れていた。

 

 いつものように少数の幹部を従え、司令部の置かれている洞窟を出ようとすると「小官も同行させていただけますかな」と戦場には似つかわしくない、暢気な響きさえあるスペイン語が飛んできた。

 

 マグサイサイ以下の幹部たちが一斉に振り返ると、小太りの男が立っていた。

 日に焼けて粗末な野良着のような服に身を包んだ様は、フィリピン人の農民としか見えない。


 「もちろんだ、ユウキ」

 

 明らかに日本風の名前で呼ばれたその男は、列の後ろについた。

 その体型に似合わず、足場の悪い山道を苦もなく歩いている。

 

 先頭を歩くマグサイサイは幹部たちと会話を交わしながら歩いていたが、唐突にユウキの名を呼んだ。

 呼ばれたユウキが今度はマグサイサイのすぐ後ろを歩く。

 同じように会話を交わしていたが、それはスペイン語ではなかった。


「結城、貴官も承知していると思うが、我が軍の現状は苦しい。このままだと来年一年は持たないだろう」

 

 マグサイサイは片言の日本語で話した。それに対して結城が完璧な日本語(スペイン語も同じくらい完璧であったが)、返した。


「承知しております。閣下」


「貴官が言っていた“Dデイ”はまさに今日だが、本当に来るのだろうね」


「間違いはありません。我が軍(・・・)は一度決定したことは必ずや実行します。だれよりも正確に」


「何事も正確に、誠実にか。それが日本人というものなのだな――」

 

 マグサイサイがそう言いかけた途中、一行の頭上で爆音が響いた。

 植民地軍の爆撃かと、その場にいた全員が散開して逃げようとしたが、幹部の一人が双眼鏡を覗きながら叫んだ。


「違う!翼に赤い丸が描いてある!あれは日本軍機だ!」

 

 フィリピン植民地軍が装備する合衆国製のBー17爆撃機にも負けないくらい巨大な機影。

 だがそれは、植民地軍のものとは明らかに違う、青みがかった灰色に塗られている。

 それと鮮やかな対比をなす赤い丸。

 

 マグサイサイは何機も通り過ぎるその機影を、しばし呆然と眺めた。

 ふと結城に目をやると、彼はいつものようにいかにも人の好さそうな微笑みを浮かべているだけだった。


 


 フィリピン総督府の首脳部がマラカニアン宮殿に参集したのは、日本軍の攻撃が開始されてから、二時間以上経過してからだった。

 混乱の中、各部署が眼前の事態への対応に追われていたのだが、総督府全体で情報を共有し、一元的に対処する必要性にようやく気づいたのだった。


「マニラ市内では現地人による暴動と掠奪が起こっており、もはや警察力による対処は限界です。至急総督府軍の出動を願います」

 

 治安局長が悲痛な声で懇願した。

 櫛すら当てられていない髪と、皺だらけの警察服が、彼が早朝来過ごしてきた時間を物語っている。


「総督府軍は上陸してくる日本軍への対処に全力を尽くさねばならん。すでに憲兵隊を治安局指揮下に置くのでそちらで対処されたい」

 

 総督府軍参謀長が官僚的な響きを感じさせる声で言った。

 総督府軍と治安局の関係は、どう贔屓目に見ても良好とは言い難い。


「それが不可能であるから、今こうして申し上げているのです」

 

 治安局長が何かを押し殺したような声で言った。


「こちらとしては憲兵隊を差し出すだけでも感謝して欲しいくらいだ。普段、軍に対して文句を言うくせにいざとなると軍に泣きつこうなどというのは、虫が良すぎるのではないか?」

 

 参謀長の鼻で笑うような物言いに、堪えていたものが決壊し、立ち上がろうとした治安局長をオルミガ内政監兼民政局長が住んでのところで制した。

 

 そして、マリスカル総督兼総督府軍司令官に言った。


「総督、日本軍を迎え撃つためにも足下が安定していないことには満足に戦えますまい。フィリピン防衛のためにもどうか、治安維持のための軍の出動をご再考願います」

 

 マリスカル総督は、オルミガ内政監の目を見ずに応えた。いつものいかにも貴族然とした態度からは、信じられぬ様子だ。


「うむ……そのことなのだがな、内政監。我が軍は速やかに主力をバターン半島に移動し、そこで抗戦することに決した。私も軍を率いてバターン要塞へと移動する。以後、総督府の権限は貴職に委任する。日本軍が来たらマニラ市は開城して構わん」

 

 オルミガの目は驚愕によって見開かれた。


「それでは軍はマニラ市、いやルソン島の防衛を放棄するというのですか?!」


「バターン要塞に籠り、合衆国の介入を待つのが軍事的に最良の選択なのだ。分かってくれたまえ」


「合衆国の介入ですと?!」


「総督も昨日の日本政府の発表はご存知でしょう?合衆国軍の奇襲攻撃は日本軍によって撃退されました。合衆国にフィリピンに構っている余裕などありませんよ。我々に残されているのは、自力で戦うか、日本軍に降伏するかの、二つに一つです!」


「あれはあくまで日本政府の一方的な発表だろう。現に合衆国政府からはまだ正式発表がなされておらん。仮に合衆国軍が戦術的に敗北したととしてもだ、このフィリピンを取れば、日本に対して一気に戦略的勝利を納めることができるではないか。我々がバターンで抗戦する限り、合衆国がフィリピンに介入する口実となるのだ」


「希望的観測に過ぎます!」


「君は文官だ!軍事指揮に口を挟むなど、越権行為だ!とにかくこれは、もう決定したことなのだよ」

 

 気色ばむ総督にこれ以上の抗弁の無力を覚ったオルミガは、東洋艦隊司令長官を兼務するロドリーゴ副総督へ向き直った。


「海軍はどうなのです?マニラ市の防衛にあたってくれるのでしょうな?」

 

 ロドリーゴ中将は「副総督」とは名ばかりで、普段は総督府の会議にすら滅多に姿を見せない。

 それだけにいかにも貴族的なマリスカル総督とは、対照的に根っからの武人といった印象だ。

 

 そのロドリーゴ中将は、古の無敵艦隊の提督が配下の艦長たちに宣言するように言った。


「我が東洋艦隊は、出港準備が整い次第、速やかにレイテ湾に移動。日本艦隊および上陸船団を撃滅する機会を窺う。以上だ」

 

 フィリピン総督府は、その最大の危機に際し、陸軍・海軍・文民部門が三者三様に臨もうとしていた。

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