横須賀空襲

 横須賀への奇襲を担当したのはヨークタウン級空母三隻を基幹とする、チェスター・W・ニミッツ少将麾下の第三六任務部隊TF36だった。

 

 第一次攻撃隊の約一五〇機は、伊豆諸島の南の沖合に展開したTF36を発進後、房総半島の南端に接近。

 そこから、南関東の防空を担う、海軍航空隊館山飛行場、および厚木飛行場を空襲する部隊、それに横須賀軍港を攻撃する部隊の三手に分かれる計画であった。

 第一次攻撃隊が日本軍の迎撃機に遭遇したのは、まさにその散開予定空域に達しようとする直前のことだった。


「完全な奇襲じゃなかったのかよ!」

 

 SBDドーントレスを操るマンフレット・G・モンティ大尉は眼前で待ち構えている日本軍機の群れを見て、操縦桿を殴りつけん勢いで毒づいた。


「今回の作戦は日本軍の意表を衝くものであり、完全なる奇襲となる。よって本作戦は合衆国海軍史上『もっとも実戦的な演習』となるだろう」。

 出撃前にニミッツ司令官は(むろんそれは搭乗員の緊張を和らげるための冗談に過ぎなかったが)そう訓示していた。

 だが、現実はこうだ――。

 

 ちくしょうめ、これだからお偉いさんの言うことなんざ、信用できないんだ。

 モンティは自分たちをここに送り込んだ上層部を口に出さずに罵った。

 

 隊内無線からは攻撃隊長の「各機、部隊ごとに分かれて目標へと向かえ。決して梯団を崩すな」の指示が聞こえてくる。

 モンティは操縦桿を左に倒した。

 彼の機は厚木を攻撃する隊に属しており、状況が当初の想定とは異なっていたとしても任務を放棄することなどできなかった。

 それこそが、イタリア移民の三世にこの機を預けた国が、彼に果たすことを求める職業的義務であった。


 


 横須賀の街に空襲警報が鳴り響いたのは、日本時間の一二月八日月曜日の朝八時、ちょうど真藤百合子が出勤のための身支度を整えているときだった。

 紺色のツーピース(いつか威利から誕生日に贈られたものだ)を着て、鏡台の前に座り、白粉を軽く塗って、口紅をつける。

 最後に髪を整えようとブラシを手にしたとき、けたたましいサイレンの音が鳴り、発条に弾かれたように反射的に立ち上がった(勢いで椅子が倒れたほどだった)。

 間違いない、戦時下のロンドンにいたとき毎晩のように聞かされた音だ。

 

 そのサイレンが聞こえたら、何を置いても防空壕か地下鉄に逃げ込まねばならなかった。

 そんな日々からまだ一年と経っていない。

 頭で考えるより先に身体が動いていた。ブラシを文字通り放り出して、(さほど広い家ではないが)廊下を走って義父の部屋に駆け込む。


「おじさま!」

 

 いない。

 庭かしら!?

 そう思ったとき、後ろで名前を呼ばれた。

 緊張感が極限まで高まっていたため、思わず短く悲鳴を上げる。

 

 振り返ると義父の泰利がいざという時のために用意しておいた非常持ち出し用の背嚢を背負って立っていた。


 飼っている仔犬のちび・・までもが、おとなしく背嚢から顔を出していた。 

 あまりのことに呆気に取られていると、泰利が悠然と口にした。


「儂も若い頃はドンバチやっとる大陸で商売したもんや。空襲に遭うたこともあるし、兵隊に鉄砲つきつけられたこともある。これぐらい今更どうということないわい。すぐに逃げるで」

 

 それから百合子は、六八歳とは思えぬ速さで走る義父に手を引かれながら逃げた。 

 市内各所に設置された市当局の広報用の拡声器は非難を呼びかけていたが、空襲など知らない市民が大半であるため、皆呆然と立ち尽くしているようだった。

 その中を二人は、西の方へ(つまり軍港とは反対側へ)ひたすら逃げた。

 

 腕時計は付けてこなかったし、時間の感覚などとうに失っていたから、正確には分からないが、三〇分ほど逃げ続けただろうか、大きな公園に逃げ込んだ。

 まるで幼い娘を守るかのように百合子の肩を抱きながら、泰利がつぶやくように言った。


「米軍の目標は軍港やろうから、市内に爆弾が落ちてくることはないやろうけど、念のためや」

 

 そう言いながら軍港の方向の空を睨んでいる。いつもの商家の隠居のような穏やかな色はなく、まるで精気を取り戻したかのような鋭い光がそこにあった。

 

 たしかに爆音は軍港の方向からしか聞こえてこない。

 頭上にも穏やかな冬の青空が広がっているばかりだ。

 義父に肩を抱かれながら、百合子は思い出していた。

 ロンドンで空襲に遭った夜、威利はいないことが多かったが、たまにいると一緒に逃げた。

 その時も地下鉄や防空壕の中で、威利にこうして肩を抱かれていた。

 そうしていると不思議と怖くなかった。

 むしろ安心感があった。いつ間にか威利の肩で居眠りしてしまって、後で笑われたっけ――そんなことを思いながら、百合子は目を閉じた。


 

 攻撃隊が横須賀、館山、厚木への空襲を継続していた頃、空母“ヨークタウン”に置かれたTF36の司令部ではある疑念が生じていた。


「すると、貴官は日本軍が我々の奇襲を察知していたと言うのかね?」

 

 ニミッツ司令官は彼の作戦参謀である、キンブル・P・ホイットニー少佐に訊ねた。


「はい、攻撃隊からの電文によれば日本軍は早期に迎撃機を上げ、また横須賀軍港には大型艦の姿はなかったといいます。これは我が方の奇襲を事前に察知していたとしか思えません」


「それはあり得んだろう?無電封鎖は完璧だったし、擬装電文も流している。奇襲を事前に察知することは不可能なはずだ」

 

情報参謀がそれに異論を唱えた。


「それはその通りだが、早い迎撃や港に艦隊がいなかったことの説明は、そうとでも考えなければつかんのだ」


「日本海軍も何らかの作戦行動をしているのではないか?」

  

航空参謀が異論を差しはさむ。


「いや、この時期に日本軍が自慢の航空艦隊を総動員するほどの艦隊行動をする理由が思いつかない。我が国と日本との間に緊張が生じていたことは事実だが、すでに欧州で戦争を遂行中の日本の方から戦端を開くとは考え難い」

 

作戦参謀は航空参謀に対しても反論した。


「――いずれにせよ」

 

ホイットニーはニミッツの方に改めて向き直った。


「敵、航空艦隊の所在が分からない以上、当海域に長く留まることは危険です。二次攻撃は中止し、第一次攻撃隊が帰還し次第、速やかに離脱することを進言します」




「米攻撃隊の撃退には成功しましたが、軍港施設および館山、厚木両飛行場に被害が出ています」


「事前に警告を与えられていたおかげで、早期迎撃には成功したが、やはり損害皆無といかぬか」

 

 横須賀鎮守府長官・平田昇中将は渋面をつくって呟くように言った。

 

 今朝早く房総半島に設けられた電探基地が大編隊の機影を捉えた。

 事前に軍令部から警戒態勢を引き上げるよう命令があったため、館山飛行場から直ちに迎撃機が発進。

 同時に関東一円の海防・防空の責任者でもある、横須賀鎮守府に情報が伝えられた。

 そんな分けで、平田長官以下、横須賀鎮守府の幹部たちは朝食もそこそこに朝からこの地下壕に詰めているのであった。

 空襲を受けた際は司令部要員全員がここに詰めることを想定しているため、室内はそれなりの広さがあった。

 しかし、集まった人間の人いきれのために、室内は一二月とは思えぬほど蒸し暑かった。

 おまけに緊張のためか、多くの人間が煙草を吸っているため、焚火でもしているかのように煙たくなっていた。


「損害について具体的な報告は上がっていないか?」

 

 平田は気を取り直すように居並ぶ幹部たちに訊ねた。

 すかさず軍港部長が挙手する。


「未確認ではありますが、軍港のドック(船舶の整備・点検を行う施設)のいくつかが破壊された模様です。また、擬態の燃料タンクも破壊されましたが、地下タンクは無事の模様です」

 

その報告に平田が唸る。


「ドックがやられたとなると、一航艦の受け容れに問題が生ずるかもしれんな。あと数日で帰ってくるだろう」


「長官、軍令部を通じて舞鶴や佐世保で引き受けてもらえるよう、打診してはいかがです?」

 

 参謀長が進言する。


「うむ、そうしよう。早速手配してくれ」

 

 参謀長は頷き、連絡役の少尉に指示を与える。

 

「それにしても」と補給部長が言う。


「燃料タンクがやられなかったのは幸いでしたな。あれをやられると、国中から燃料をかき集めねばならなくなるところでした」


「ああ、全くだ。どうやら合衆国の連中、我々が地下に燃料を貯蔵していて、地上のタンクは擬態だということを知らなかったと見える」

 

 差し当り第一波を凌いだことと、今のところ致命的な損害はなさそうだということで、朝からの緊張も若干緩んでいるように思われた。

 悪いことだとは思わない。

 四六時中緊張していては、神経がもたなくなるだろう。

 

 そう――何しろこれはほんの始まりに過ぎない。

 先は長いんだからな。

 平田は、吸っていた煙草を灰皿に押し付け、腕を組みながら、目を閉じて思った。

 今さら気づいたが、朝からろくに食べていない。

 これから何が起こるにせよ、差し当りやるべきことは一つだ。

 そう決心するが早いか、手近にいた中尉を手招きして、握り飯を言いつけた。

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