マリアナ沖海戦②

 米編隊のサイパン島への空襲が開始された頃、“翔鶴”の戦闘指揮所は色めき立っていた。

 米艦隊から発信されたと思われる電波を傍受。

 大まかな位置を特定したのである。ただちにその位置に向けて偵察機を発進。

 追って第五・第六航空戦隊から攻撃隊を発進させた。

 先行した偵察機が米艦隊の正確な位置を発見次第、攻撃隊に知らせる手はずである。

 

なお、この間に呉のGF司令部から合衆国政府が日本政府に正式に宣戦布告を発したという情報がもたらされたので、遠慮なく攻撃することができた。


「作戦参謀、敵艦隊が位置暴露の危険を冒してまで電波を発信した理由は何であると考えるか?」

 

 山口長官が尋ねた。


「電波の発信元は前衛の空母部隊と思われます。後続の上陸船団と支援艦隊に奇襲失敗を知らせたのでしょう。上陸船団はおそらく当海域からの離脱を図るでしょう」

 

 真藤が海図を睨みながら答える。

 司令長官に対しては不躾な態度ではあるが、山口は気にした様子もない。

 むしろ面白そうに真藤を眺めている。

 居並ぶ幕僚たちも、苦笑したり、眉をひそめる者はいても、真藤に注意したり、窘める者はいない。

 ともに仕事をして八カ月、彼らも自分たちの司令長官と、この風変わりな作戦参謀のことを理解するようになっていた。

 

 山口はさらに質問を重ねる。


「なぜそう思う?」


「敵攻撃隊は自分たちが発見されたことを原隊に伝えるはずで、この通信はそれを受けてのものでしょう。敵の空母艦隊が通信を発するする理由は二つ考えられます。第一に攻撃隊を呼び戻すこと。しかし、これは戦術的な効果が、自身が発見されるという危険と釣り合いません。むしろ攻撃隊は予定通りに行動させて、自身は息を潜めてこちらを発見することに全力を注ぐべきです。第二の可能性は、後方にいる上陸船団に奇襲の失敗を報せ、退避を促す。こちらの方が、よほど戦略的に意味があります」


「しかし、それでは」と角田情報参謀が口を挟んだ。


「自分の艦隊が犠牲になりかねない」

 

 真藤はそこで海図から目を離し、角田の方を見た。

 顔には「天真爛漫」とすら形容したくなるような笑みを浮かべている。


「そうです。そんなことをできる指揮官はそうはいません。指揮官とは本能的に自身の部隊を守ろうとするものです。たとえ、戦略的に必要であると分かっていても、そのために自身の部隊を犠牲にできる指揮官なんてね――だからこそ、せめてその指揮官だけでもこの海で葬るべきなのですよ」


 


 第五・第六航空戦隊から発進した、零戦と九七式艦攻、九九式艦爆、合わせて約一二〇機の編隊がTF34へ攻撃を開始したのは午前九時頃だった。

 

 TF34の戦力はレキシントン級空母“レキシントン”・“サラトガ”、ブルックリン級軽巡“ブルックリン”コンコード“、ポーター級駆逐艦四、ファラガット級駆逐艦四の計一二隻で、二隻の空母を中心にその左右を二隻の軽巡が守り、さらにその外周を駆逐艦が取り囲むという「輪形陣」を形成して待ち構えていた。

 

 合衆国海軍のジョンソン上等水兵は、艦隊陣形の外周の一角を担うファラガット級駆逐艦“デューイ”で機銃手の配置に就いていた。

 日本軍の編隊は艦隊の左方から集中して突撃してきた。艦隊の直掩機が迎撃する。

 

 幸か不幸か、“デューイが展開していたのは艦隊の左側で、ジョンソンは左舷側の銃座に就いていたから、突入してくる日本軍ジャ〇プの編隊がよく見えた。

 ハイスクールを去年卒業したばかりの彼は、ニキビ面に心配そうな表情を浮かべて、日本軍機と見方機の空中戦を見ていた。

 

 それはちょうど、子どもの頃レスリングの試合を見ていたときの表情に似ていた。ジョンソン少年のお気に入りのレスラーは、(少なくとも少年の目には)彼よりよほど強そうなレスラーと戦わねばならなかったのだ。

 

 そして今――、正確な数は分からないが、ジャ〇プの編隊は味方の倍くらいいるようだった。

 「ちくしょう、一機でも多くジャ〇プの爆撃機と雷撃機(攻撃機)を墜としてくれ。俺が生き残るために」。

 ジョンソンの声に出さない祈りを無視するかのように、何十機もの日本軍機が突入してきた。

 駆逐艦に装備されている五基五門の三八口径五インチ(≒一二・七センチ)砲が発砲を開始した。

 

 戦艦の主砲に比べれば豆鉄砲のような両用砲であるが、間近にいる者には頼もしい大きさと重さを持った発砲音がポンポンと連続して響く。

 一機ずつ狙うのではなく、とにかく打ちまくって「弾幕」を張り、確率論的に撃墜を狙う方法だ。

 

 懸命の発砲の結果、数機が撃墜されるが、大半の機は対空砲撃を存在しないかのように突入してくる。

 敵機が近づくにつれ、両用砲では対応できなくなってくる。

 機銃が射撃を開始する。こちらも弾幕を張るやり方だ。ジョンソンも自身が任されたブローニング二・五口径一二・七ミリ機銃を打つ。

 狙いは上昇して爆撃を狙う敵爆撃機だ。


 「クソ、墜ちろ!墜ちろ!」。

 ジョンソンは心の中でそのように叫びつつ、興奮と緊張、あるいは恐怖に支配された人間が往々にしてそうであるように、口に出しては言葉にならない叫び声を上げ、目には薄っすらと涙さえ浮かべていた。

 そして、その両方とも当人は自覚していなかった。

 

 ジョンソンの必死の銃撃を嘲笑うかのように敵機は爆弾を投下し、悠々と去っていった。

 だが、依然として銃撃を続けていた彼にそのようなことは関係なかった。

 「敵機が爆弾や魚雷を投下したら、あきらめずにその魚雷や爆弾を撃つこと」。

 これはジョンソンが訓練で教わったことであるが、何も彼はその教えを実践しているのではなかった。

 ただ本能的に打ち続けているに過ぎなかった。

 それ以外にいかなる思考も彼の頭にはなかった。

 いや、もはや思考といえるものですらなかったかもしれない。

 

 ジョンソンの銃撃は爆弾がほぼ正円形を見せつつ、次第に大きくなっていっても止むことはなかった。




「いったい何だって日本軍機は片側の、それも駆逐艦ばかり狙ってくるのだ?」

 

 “レキシントン”艦橋でTF34司令・ミッチャー少将は唸るように言った。


「おそらくですが・・・」作戦参謀のイマーヌエル・フィッシャー中佐が遠慮がちに発言しようとした。


「構わん、フィッシャー、意見があるなら言ってみろ」

 

 ミッチャーが先を促す。


「まず、第一段階として我が艦隊の対空防御力の弱体化を狙い、その後本命の空母を狙う手筈なのではないでしょうか?片側だけに攻撃を集中しているのは、密度を上げるためでしょう。現に数十機の攻撃を一手に引き受けることになった四隻の駆逐艦は戦闘力を失いつつあります」


「では、この攻撃の後に空母を狙う攻撃がくるというのか?」


「ええ、おそらく間髪入れずに来るでしょう」

 

「何と狡猾な!」。参謀のだれかが言ったが、今の彼らには憤ったり、感心したりしている暇はなかった。

 

 ミッチャーは軽く頷くと、迷わずに命じた。


「“ブルックリン”と右側の駆逐艦二隻を回して、左側を支えろ」


 


 日本軍の第一波は、TF34に駆逐艦“ファラガット”、“デューイ”沈没、“ハル”中破で戦闘不能、“マクドノー”小破の損害を与えた。

 途中から戦闘に加入した軽巡“ブルックリン”と二隻の駆逐艦に戦闘力に影響を及ぼすほどの損害はなかった。

 後まで戦闘に加わらなかった軽巡“コンコード”と二隻の駆逐艦、それに二隻の空母だけが、全くの無傷であった。

 

 また、上空直掩には第二次攻撃隊の護衛機に回されるはずだった約三〇機の戦闘機が当たっていたが、数を倍する敵戦闘機との戦闘で、一〇機も残っておらず、残存機もすべて傷つき、操縦員も疲れ、負傷している者もいた。

 敵はどうやら、敢えて戦闘機の数を多くしているようで、これも防空力を削ぐ狙いがあると思われた。

 

 日本軍の第二波は、第一波が去ってから一〇分にも満たないうちに到来した。




「右舷より敵雷撃機、魚雷投下!」

 

 艦内スピーカーから見張員の報告が響いた。


「面舵一杯!」


 “レキシントン”艦長・アレックス・D・バッケル大佐は、それに対して吠えるように命令した。

 戦況はTF34にとって絶望的といってもよかった。

 日本軍の第二波攻撃は、ものの数分で弱体化した防空網を突き破り、空母や重巡に損害を与えていた。

 旗艦“レキシントン”にも爆弾一発が命中し、飛行甲板に大穴を空けている。

 

 だが、そんなことを意に介さないかのように、オランダ人の船乗りを先祖に持つというこの艦長の指揮は、一切のブレを感じさせない。

 傍らにいるミッチャー司令も司令官席で腕を組みながらじっと目を閉じている(この局面では艦隊司令官にできることなどない)。

 そうした艦隊と旗艦のトップ二人の態度が、「自分たちの作戦が完全に打ち砕かれ、一方的に攻撃されている」という状況下でも幕僚たちが浮足立つのを辛うじて防いでいるといえた。


「魚雷回避!」

 

 再び見張員からの報告に艦橋に安堵の空気が流れる。さらに続けて


「一〇時の方向より航空機接近!友軍機です、第一次攻撃隊が帰ってきました!」

 

 艦橋内にどよめきが起こる。防空戦闘への加入が期待できる。この戦闘が始まってから初めての朗報である。だが・・・。


「左舷より魚雷二接近!衝突コース、回避間に合いません!」

 

 再びスピーカーから悲鳴のような声が聞こえてきた。


「総員衝撃に備え!」

 

 バッケル艦長の命令が飛ぶ。

 命中。

 轟音と地震のような揺れが艦橋を揺らした。

 戦艦のそれとは比べるべくもないが、空母の艦橋も他より高い位置にあるため、衝撃は大きい。


「二本命中!浸水発生!」


「排水作業急げ!」

 

 大丈夫、命中箇所は致命的な部分ではない。

 合衆国海軍のダメージコントロール能力を以てすれば沈むことはない。

 命中がこれで終われば・・・。

 

 艦橋にいるだれもがこのようなことを考えた。

 だが、幸運の女神はこの時彼らに微笑まなかった。

 その後、数分でさらに三本の魚雷が命中。

 そのうちの一本は機関部へのものだったため、“レキシントン”の沈没は避け得ぬものとなった。




「空母二撃沈、未確認なれど重巡ないし軽巡一撃沈」

 

 通信員が攻撃隊から送られてきた電文を読み上げた。

 

 “翔鶴”の戦闘指揮所に歓声が上がった。

 参謀たちも喜色を露わにし、握手を交わしている者もいる。


「長官、やりましたね!」

 

 参謀たちの中でいちばん若い山崎航空乙参謀が山口に声をかけた。山口はそれに対して微笑みながら、鷹揚に頷いた。そして、表情を引き締めて言う。


「諸君、よくやってくれた。だが、戦闘はまだ終わってはいない。引き続き気を引き締めて職務に当たってくれ」

 

 参謀たちは真顔に戻り、一斉に気を付けをする。

 その中ですかさず挙手をする男がいた。真藤である。


「作戦参謀、何か?」

 

 草鹿参謀長が発言を促した。


「爾後の措置について二点意見を具申したいのですが?」


「言ってみろ」


「まず第一に、敵空母部隊には念のため、もう一度攻撃隊を出すべきと考えます」


「しかし、二隻の空母はすでに沈んだのではないか?」


 内海航海参謀が疑問の声を出す。


「米海軍の修理能力は世界随一と聞きます。ここで詰めを甘くして、空母の一隻でも取り逃がすというのは誠に惜しい。幸い、四航戦・五航戦にはあと一度攻撃隊を出す余力があります。ぜひやるべきと愚行いたします」


「いいだろう。航空甲参謀、至急手配してくれ」


 山口が指示を出すと河野航空甲参謀が頷いて、艦橋で指揮を執る艦長に伝達した。


「もう一つは?」


「引き続き、敵上陸船団の発見に全力を尽くすべきです。我々の本命はむしろこちらと言うべきなのですから」

 

 真藤の執心空しく、一航艦はついに敵上陸船団を補足することができなかった。 

 おそらく、空母部隊との間に十分な距離を取っていたことと、すぐに退避を開始したことが要因であると思われた。

 そのことは真藤を歯噛みさせたが、かくして後に日本側では「マリアナ沖海戦」と公称されることになる戦いは終わり、真藤にとっての戦争が幕を開けた。

 

 長い一日が終わり、自分の寝床に潜るとき、真藤はようやく横須賀のことを思い出したが、甘い眠りへの誘惑が彼にそれ以上の思考を赦さなかった。

 たとえ明日、いかなる地獄が待ち受けていようと、眠りは一切を放擲させるのである。

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