前兆
南部連合の有力紙「CSAトゥデイ」江戸支局勤務の記者デニス・M・ベネットは、休日だったその日、写真の撮影に出かけるために、朝食の支度をしていた。
仕事ではない。
彼女にとって写真とは、仕事と趣味を兼ねたものだった。
大学で日本語を学んだ彼女は、その語学力を見込まれて三年前に新設された江戸支局に配属されたのだった(南部連合のメディアが日本の取材に注力し出したのは、日本との関係が重要視され始めた一九三〇年代以降のことで、南部連合最大手のCSAトゥデイが他社に先駆けて江戸に支局を開設したのだった)。
以来、日本の文化を魅力的に紹介する記事を多数送り出し、好評を博している。
保守的な色合いの強い南部連合の上流家庭に育ったデニスがまだまだ珍しい女性記者という職業を選択し、しかも遥けき極東の島国で働いている理由は、突き詰めれば彼女の人並み以上の冒険心と好奇心、それに三姉妹の末っ子であるが故に父親が彼女に特に甘かったということに尽きる。
江戸支局の立ち上げが社内で公表されたとき、娘にせがまれたデニスの父親は個人的な友人でもあったCSAトゥデイの社長に娘を売り込んだのであった(ただし、入社試験は独力で突破した。少なくともデニス自身はそう認識している)。
そういう経緯もあってデニスの陰口を叩く者も支局内にはいたが、彼女はそれらの者たちの口を、力をもって閉じさせた。
彼女の書く記事の出来は、ベテラン記者も認めざるを得ないものだったのだ。
今やデニスは「地球の裏側来た美人記者」として、地元の日本人の間でもちょっとした有名人だった。
その美人記者がたまの休日に江戸港がよく見える芝の埠頭で写真を撮っていたとしても(あるいは何かしらのメモを取っていたとしても)、だれも不思議には思わなかった。
いや、別に彼女でなくとも訝しくは思われなかったかもしれない。
何しろそこには港に停泊する船をスケッチしたり、写真に収めたりする人が大勢いるのだから。
祖国と家族(独身の彼女にとってはヴァージニアの実家)、そして雇用主である新聞社。
彼女が帰属意識、あるいはなにがしかの忠誠心を抱くべき対象はこの三つであるはずだった。
しかし、もう一つあったのだ。
ただし、それは決して口外することはできなかった。なぜならば「彼」との約束だったから。
大学一年の時にキャンパスで出会った、あの彼――。
絵に描いたような金髪碧眼。
それにまるで哲学者のような思慮と、どこか悲しみを帯びたような眼。
それは、異性から恋愛の対象にされることはあっても、自分からそうすることはなかったデニスが、初めて自ら(そう言ってよければ)愛した男だった(デニスと初めて会った彼が素っ気なかったことも多分原因だった。
彼女は異性にそのような態度をとられることに慣れていなかったし、彼女の性格から言って、それはある種の挑戦心と好奇心を駆り立てるものだった)。
二人が一般的に異性間に生じるプライベートな関係に発展するのにさほどの時間を必要としなかった。
彼はデニスにだけ(少なくとも彼女はそう信じていた)、優しいまなざしと笑顔を向けた。
彼あるいはデニスの下宿のベッドで、彼のたくましい胸と腕に抱かれながら、寝物語に繰り返し聞かされた言葉。
「いいかい、デニス。ちょっとお願いがあるんだ。いや、君にとっては難しいことじゃない。大学を出たらね、日本で働くんだ。そこで見たことや聞いたことを、時々僕に教えてくれるだけでいいんだ。何の仕事をするかって?そうだな、君には文才もあるから記者なんていいんじゃないかな。引き受けてくれるかい?ありがとう、世界でいちばん君のことを愛しているよ」
彼の頼みを受け容れることが、彼女が愛着を抱くべき他のだれか、もしくはなにかに対する裏切りであったとしても、それはデニスにとってはさほど大きな問題でなくなっていた。
自転車で埠頭まで行く。秋の朝の清明な空気がさぞ気持ちよいだろう――そんなことを考えながらトーストを焼いていたとき、デニスの部屋のドアがノックされた。
こんな朝早くにだれかしら。訝しさの中に緊張が紛れ込んでいるのは、彼女の中にある「もうひとりの自分」の存在があるからだった。
深呼吸をひとつして、ゆっくりとドアを開ける。
コートを着た二人の男が立っていた。
そのうちの年かさの方の男が言った。見かけは下町の立ち飲み屋にでもいそうな、人の好い勤め人といった風情だ。
「朝早くに申し訳ありません、江戸警察です。ミス・ベネットですな。CSAトゥデイの記者さんの。ちょっとあなたのお仕事のことでお伺いしたいことがありましてね。もちろん、記者じゃない仕事のほうで。ああ、ここに判事の令状もありますから拒否はできませんよ」
デニスは心の中でため息をつきながら、表面上はとり澄ました顔で言った。まるでデパートにでも出かけるような。
「あら、仕方ありませんわね。では、支度をしますから、ちょっとお待ちくださいな」
「ええ、もちろん」。
年かさの刑事はあくまでなごやかに言った。
対照的にもうひとりの若い方の刑事は部屋の中の塵の一つさえ見逃すまいとするような、鋭い視線を注いでいる。
いったんドアを閉めたデニスは、ドアを背にして今度は本当にため息をついた。
逃亡を図っても無駄だろう。
ここは二階だし、ベランダから飛び降りたとしても少なくとも一人くらいは待ち受けているはずだ。
身体能力が特別高いわけでも、その面で何かの訓練を受けたわけではない自分が逃げ切れるとはとても思えなかった。
かと言って自決も無理だろう。
デニスの「もう一つの雇い主」は彼女にそのようなものを持たせていなかったし(彼女の本来の祖国も、もう一つの国もその種のことを忌避していた)、少しでも長引けば表の二人がドアを蹴破ってでも入ってくるはずだ。
彼女に残された道はひとつ、あの二人の刑事たちに同行することしかない――そこまで考えたとき、デニスは急に自分がこの世界に残された最後のひとりであるかのような感覚に見舞われた。
そして「彼」ではなく、故郷の家族の顔が浮かんだ。
今度会えるのはいつになるかしら。
いや、また会える日がくるのかしら―。
江戸警察局警備公安部外事課管理官である、里中警視はここ数日不機嫌だった。それはなにも、右上の奥歯からの鈍い痛みのせいだけではない。
先週、上から(彼にそれを直接伝えたのは直属の上司である外事課長だが、この場合課長もただの伝達役に過ぎないことは察しがついた。
むろん真の指示者がだれなのかは知らない)「外事課で把握している合衆国のスパイを一斉検挙せよ」という指示が飛んできた。
その指示を実現すべく、里中は自分が所掌している係の人員の編成、具体的な段取りなどの事務にここ数日忙殺されていたのだった(ご丁寧に日時の指定までされていたことも面倒だった)。
おかげで先週からろくに自宅に帰られてもいない。
ただそれは、彼だけではなく同僚の管理官たちも同様だったが。
里中はちらりと腕時計に目を落とした。
すでに対象者の身柄の確保は終わって、そろそろこの本局に連行されてくる頃だ(機密保持のために最寄りの警察署ではなく、直接本局に連れてくることになっている)。今のところ何の連絡もないということは、不測の事態は発生していないのだろう。当然といえば当然だが、彼は自分の部下たちも捨てたものではないと、少しばかり機嫌を直す気になっていた。
それにしても――と里中は機嫌を直したついでに、職務に直接関係のないことを考え始めた。
わざわざスパイを一斉に捕まえる意味は何だ。
もちろん、自分たちの仕事がスパイの発見と検挙、摘発であることは承知している。
だが、スパイを発見したとして、必ずしも検挙、摘発するとは限らない。
泳がせておいてその国の諜報網の全貌をあぶりだすこともあるし、偽情報を流すために利用することもある。
検挙に踏み切るのは、泳がせておくことの弊害が大きい。
より具体的には、彼(もしくは彼女)の流す情報が重大に過ぎると判断されたときだ。だから、個別ならともかく、大物も小物もひっくるめて全員一斉に捕まえることはまずないと言っていい、
上の方はよほど流したくないような情報でもあるのだろうか。
まるで、隙間からわずかな水でも漏れるのを恐れるかのように。
だとすればその情報は――とそこまで考えて、里中は我に返った。
いかん、いかん。
この世界で長生きしたけりゃ余計なことは知らず、考えずに限るのだ。
くわばら、くわばら。何しろ俺には、女房と子ども(三人もいる)に最近やっと千葉の方に買った建売住宅の月賦があるんだからな。
それに故郷の群馬には歳食った親父と御袋もいる。
彼は知らなかった。
この日、この時刻、海軍の重要施設が立地する地方の警察局で、彼の同業者たちが、彼と同じ仕事を遂行していたことを。
「日本国内の『協力者』たちと連絡が取れないだって?」
合衆国海軍情報部(ONI)第三課主任のトーマス・T・レイトン中佐は報告を上げてきた中尉にそう聞き返した。
「ええ、キョウトにいる駐在武官によれば、協力者のほぼ全員ともう何日も連絡が取れないとのことです」
「ふむう」
レイトンは自分の椅子(大して高くない)に座りなして考え込む仕草をした。
海軍兵学校(アナポリス)に入学するための身体検査を体重不足で撥ねられそうにそうになり、急遽バナナを一二本食べて乗りきった、というエピソードがすんなりと納得でできるような体型で眼鏡をかけた彼が、そのような仕草をすると、軍人というより銀行員にでもしか見えないが、答えはすぐに導き出された。
「『全員』、『一斉に』、ということであれば考えられることはただひとつだな。日本の情報機関、おそらくコーアンが一斉に検挙したのだ」
「まさか、何のために」
「よく分からんが、何らかの軍事行動を計画しているかもしれん。しかも、その片鱗さえ知られたくないような」
「作戦部に知らせますか?」
「ああ、
「それにしても、これでは海軍が日本に築いた情報網は壊滅ですね。まさか連中がそこまで我々の情報網のことを把握していたとは。にわかには信じられません」
中尉がうんざりしたような口調で言った。
それを聞いたレイトンがたしなめるように言う。
「日本人を侮ってはいけない。かれらはすでに一〇〇年以上も前から極東から欧州まで商売を広げていたのだ。そして商売にもっとも必要なのは情報だ」
レイトンは合衆国の軍人たち、あるいは合衆国国民全体に日本人を侮るような向きがあることを、内心で苦々しく思っていた。
それは、その種の偏見からもっとも自由であるべき情報部員においてさえ、例外ではなかった。
いや、むしろある意味ではさらに深刻かもしれなかった。
レイトンの同僚たちの中には、情報戦とは知的なゲームであり、それは有色人種などがプレーできるものではないと信じているものが少なからずいるのだった。
レイトンは、その前段には同意するが、後段にはまったく反対だった。
対日諜報を主に担当する情報部第三課に異動になってから、レイトンは日本の歴史や文化を、彼なりに研究してきた。
それで分かったのは、日本人という民族、日本という国が洗練された文化持ちながら、見かけよりはるかに強かで、狡猾でさえあるということだった。
彼らは一九世紀の半ばにカリマンタンの沖で、列強諸国の海軍に大敗を喫した。
だが、アヘン戦争に負けた清国のようにはならず、その後の講和交渉を最小限の損害と譲歩で乗り切った。
そこから一〇余年での世界史上に類を見ないような鮮明な体制変革。
ロシア人との戦争で大陸進出の目を潰されたかと思えば、海上貿易国家として立ち直る強靭さ(まちがいなく日本は、カルタゴ、ヴェネチア以来の海上貿易国家の成功例だ)。
そうしたことができる人々が、合衆国海軍が何年にもわたって苦労して構築してきた諜報網を一夜で壊滅させたとしても、レイトンから見ればさして驚くこととは思えなかった。
そして、その国の同業者(あるいは競争相手)が不可解としか見えない動きをしている。
なにかの
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