発足、第一航空艦隊②

 時間は山口が横須賀鎮守府の自室で真藤中佐の到着を待っていた時から一日遡る。

 

 この日の昼下がり、国鉄横須賀駅前に一組の男女が立っていた。

 

 女性の方はショートカットにした髪と、春の若葉を思わせるような淡い緑色のスーツスタイルのドレスを着ていて、まるで婦人向けの服飾雑誌から抜け出してきたようだ。

 

 また容姿も彼女とすれ違った男の、少なくとも十人中九人以上が振り返らずにはいられないような美貌である。

しかし、その美しさ故に近づき難くなるという類の美女ではなく、成熟した女性の落ち着きと同時に娘のような愛らしさを併せ持っているというような、そんな女性であった。

 

 一方、男の方は恰幅のいい老人で、鳶色の羽織に黄土色の袷、それに涅色くりいろの帯といういで立ちである、見る人が見ればそれはさほど高価な着物ではないことがわかるだろうが、よく整えられた銀色の髪と、同色の口髭をたくわえた彼がそれを着ると、体型もあいまってどこかの商家の大旦那にも見える。


 女の方が大きく伸びをしてから(そのような仕草すら愛らしく見える)やわらかな関西弁の訛りで言った。


「おじ様、神戸からの長旅でお疲れになったでしょう?けどもう少しの辛抱ですからね」

 

 女に「おじ様」と呼ばれた老人は目尻を下げて言った。彼女と話すとき彼はたいていこのような態度を示す。


「ゆりちゃん、わしはまだ若い。これくらいのことなんでもあらへんわ」

 

 老人は今年中に六七歳を迎えるという自分の生物学的年齢を無視して言った。老人の名は真藤奏利、女の名は真藤百合子という。

 二人は義理の叔父と姪の関係にあたる。そしてもう一つの意味で二人は縁戚であった。


「そんならええんですけど、お疲れならすぐに言ってくださいね。もうすぐ新しい家に着きますし、そんなに急ぐこともないんですから――あら、そう言えばうちの人――」

 

 百合子はそこで初めて気づいたかのように辺りを見回した。

 そして、その声に応えるかのように早口な男の声が聞こえてきた。


「こら!旦那に三人分の荷物持たせて放っていくってどういうこっちゃ!改札通るのにも難儀したで」

 

 そう言いながら白い背広を着て、パナマ帽を被った小男がせかせかと歩いてきた。  

 ただし百合子と泰利のこれ以上ないほど自然な着こなしに比べて、どうしても「背広に着られている」感じがぬぐえない。

 普段は背広など着ないのであろう。

 両手に提げた大きなトランクと背中の重そうな背嚢が違和感に拍車をかけている。


「堪忍、堪忍。たけちゃん、ありがとう」

 

 百合子は笑いを堪えながらいつものように彼に言った。

 男は妻のそういうところを見るとと文句を言う気すら失くしてしまう。

 そう、真藤百合子は、彼――真藤威利の妻であった。

 そして同時に従姉でもあった。

 

 いつものごとく毒気を抜かれた威利の矛先は泰利、つまりは自分の父親に向いた。


「百合子はええけどお父、自分の荷物ぐらい自分で持たんかい」


「何をぬかす、年寄りを労わらんかい」


「都合のええ時だけ年寄りになんなや」

 

 そんな親子の、いつものようなやり取りを百合子は、いつものように目を細めながら見ている。

 ちなみにこの親子が今のこのような関係性になれたのは、彼女の貢献によるところが大であった。


「まあまあ、二人とも。じゃあ、おじ様の荷物は私が持ちますから」

 

 百合子が威利から荷物を受け取ろうとすると、彼は「百合子に持たせるくらいなら俺が持つ」と言って、荷物を渡さなかった。


「さあ、新しい家まであと少し、タクシーでも拾いましょう」

 

 真藤威利は新設される第一航空艦隊作戦参謀の辞令を受け、はるばるロンドンから横須賀に赴任してきたのであった。

 一航艦の発足は三日後、こうまでギリギリになったのは急な転属命令で引継ぎなどに手間取ったせいもあるが、彼がロンドンを離れてからもドーバー海峡を越えての爆撃任務を継続する部下たちを宥めるためでもあった。

 理由はどうあれ、戦いの途中で去っていく指揮官など、前線で敵弾に身をさらしている将兵からしてみれば敵前逃亡同然なのであった。

 

 妻の百合子、それに副官の柴田とともにイギリスから日本に帰る輸送船に乗った。

 戦前は民間会社で欧州周りの客船だったのを戦時徴用した船だった。

 途中で輸送船団がドイツ軍のUボートに襲われたり、時化に見舞われたり、危険な目にも遭ったが、どうにかこうにか下関の港に帰ってきた。

 そこから汽車で泰利が暮らしていた神戸へ。

 泰利と合流して横須賀にたどり着いたのが今日というわけだった。

 

 任地に妻はともかく老父をともなうというのは珍しくもあったが、一〇年ほど前に泰利が勤めていた貿易会社を退職してから威利夫婦と泰利の三人で暮らしてきた。

 前線部隊での勤務が多い威利の転属と一緒に泰利も日本各地をめぐったのである。

 たださすがに連日ドイツ軍の空襲にさらされ続けるロンドンにまで老父を伴うことはできなかったが。

 

 拾ったタクシーに荷物を積み込んでいる夫の背中を見ながら百合子は思っていた。

 はるか昔、たった三歳で母親に死なれてしまった、自分より三つ年下の小さな男の子。

 自分の家の近所のそれなりに大きな家のなかで、妻に死なれた悲しみをふりほどくかのように仕事に打ち込んでいた父親からはろくにかまってもらえず、内気な性格故に入れ替わり立ち替わる女中たちにもなじめず、孤独にいた男の子。

 

 彼女は物心ついた時から、近所に住んでいた親戚の少年のそんな姿を見て育った。  

 いつのころだったか、もう忘れてしまった。

 彼女は素朴な母性的感情とある種の義憤にかられて、その孤独な男の子を自分の手で守ると自分自身に誓った。

 

 やがて彼女の夫となったその男がやたらと前線勤務が多いのは、その性格に起因する面が大きいことは彼女にも察せられた。

 方々に転属する夫についていくのはもちろん妻として楽なわけではない。

 しかしそれは、少なくとも真藤百合子にとって幼い日の自分自身への誓約を放棄する理由にはまったくならなかった。

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