発足、第一航空艦隊①

 昭和一六(一九四一)年四月初頭、横須賀軍港には第一航空艦隊に編入予定の艦が続々と集結していた。

 第一航空艦隊は正規空母八、軽空母二、重巡四、軽巡六、駆逐艦二四を擁する予定である。

 これだけの空母をひとつの艦隊で集中運用する例は他になく、発足すれば紛れもなく世界初にして最強の航空艦隊になる。

 

 軍港に浮かぶ数々の軍艦の中でも目を惹くのは八隻の正規空母であるが、その中に一航艦の旗艦予定艦である空母“翔鶴しょうかく”がある。

 “翔鶴”をネームシップとする翔鶴級空母は帝国海軍最新鋭の空母であった。

 外見的には飛行甲板と艦首の空隙からの浸水を防ぐために、行甲板が艦首からわずかにせり出していることが目につく。

 さらに飛行甲板には装甲が施されており、500㎏爆弾の直撃にも耐えうる設計となっていた。

 

 外見的にわからない特徴は艦中央部に電探と通信端末を集めた戦闘指揮所が設けられている。

 これにより司令部は艦のもっとも安全な場所から外部の状況を把握しながら指揮を執ることができる。

 合衆国海軍でも同様のものが採用されているが、帝国海軍の艦艇では初めての採用となる。

 

 さらに日本空母初となる飛行カタパルトも採用されていた。

 これほどまでに様々な新機軸を盛り込んだ艦を、日本は三年の間に三隻就役させていた。

 これを可能にしたのはブロック工法と溶接工法の採用(この二つは以前から日本の造船業界で広く採用されており、それが日本の造船量を世界一にすることに大きく貢献した)による建造期間短縮と建造費抑制、さらに海軍が相次いで建設した大神おおが工廠(大分県)と室積むろづみ工廠(山口県)の存在であった。

 

 要するに翔鶴級空母とは日本の経済力と技術的発展を二親として、技術者たちが産婆役となって生み出した申し子、その一つであった。

 

 さてその申し子たちの一人、“翔鶴”の長官公室では一航艦の司令長官となるべき男、山口多門少将が執務していた。

 まだ正式な発足前ではあるが一航艦は事実上存在していた。司令部要員のほとんどもすでに着任し艦隊発足にむけ大小様々な業務を処理していた。

 

 決裁書類の判押しに一区切りつけ、山口はその大柄な体を伸ばした。

 実際のところはよく知らないが、こうして書類に埋もれている自分を見ると平時の艦隊司令官というのは役所や民間企業の管理職とさほど差はないのではないだろうか、そんなことをふと思いもする。

 

 山口は執務をしつつ、彼の艦隊の作戦参謀となるべき男を待っていた。

 作戦参謀以外の司令部幕僚はすでに全員が横須賀に赴任してきていた。

 

 作戦参謀の到着が艦隊発足ぎりぎりになっているのは、人選がいちばん最後になったせいもあるが、一つは彼の現在の配置(第一航空艦隊作戦参謀が発令されるのは艦隊発足と同時である)が「海軍欧州派遣航空隊第一陸上攻撃隊司令」であるためだった。つまり地球の裏側から赴任してくるのだった。

 

 また、第二に急な人事であるために後任の人選、引き継ぎなどに手間取っているという理由であった。

 しかし、山口の耳には別の話が入ってきている。

 新任の作戦参謀(真藤中佐といった)は、意図的に着任を遅らせているらしいという噂だった。

 

 普通に考えれば戦火の欧州から艦隊勤務とはいえ内地に帰れるのであるから、そのような辞令を受けた者は、いそいそと荷造りを始めるはずであった。

 しかし、真藤中佐はどういう分けかその例外であるらしかった。

 そもそも今回の人事にも相当ごねたらしい。

 いざ後任が到着してもなんのかんのと理由をつけて引継ぎを引き延ばし、艦隊発足に間に合うか間に合わないかタイミングを計ったかのようにイギリスからの輸送船団のうちの一隻に便乗したという話だった(その噂を裏付けるかのように同じく欧州から転任してくる対潜参謀は先月のうちに着任している)。

 

 もとより山口は不確かな風聞や噂に基づいて物事を判断する習慣を持たなかった。だが一方で事実だったらおもしろいとも思っていた。

 あるいは難物というのは本当かもしれん――山口は苦笑しながら、彼に真藤中佐を推薦した男との会話を思い出していた。


 


 山口がGF(連合艦隊)参謀長の千早貞俊ちはやさだとし少将と呉市内の料亭で会ったのは昭和一五(一九四〇)年の暮も押し迫った、一二月の頭のことであった。

 山本五十六軍令部総長から一航艦司令長官のポストを内々に(外堀を全て埋められた上で)打診されてからちょうど一か月が過ぎていた。

 

 自分の知らぬところで縁談がまとめられたような男のような気分であったが、一旦受けるとなってからは、この男らしく果断かつ迅速に行動を開始した。

 艦隊幹部の人事に関しては可能な限り便宜を取り計らうとの言質を得ていたので、この際それを最大限に利用することにした。

 自分なりの理想の司令部をつくるべく、これはと思う人材や信頼できる人々に推薦してもらった将校たちの人事考課表を、山本総長と井上成美事務次官の口利きで取り寄せて自分の司令部の幕僚たちを選んでいった。


 一カ月を費やしたその仕事のおかげで彼の司令部の人事構想はほぼ固まった。

 人事局はじめ方々の部署には恨まれるだろうが、軍令部総長とGF長官と海軍省事務次官のお墨付きがあれば、実現性についてもまあ心配はない。

 艦隊発足までには諸々片づけねばならない面倒事がまだ山ほどあるとしても、こと人事面においては山口が片づけるべき仕事は終わりつつあった。

 ただ一点、作戦参謀人事の空白を除いて。

 山口は彼の艦隊の作戦参謀にふさわしい人材を推薦してもらうべく、兵学校の同期でもある千早に会っていたのである。

 千早は第一次大戦で欧州に派遣された際に戦場で活躍する航空機の姿をつぶさに見た。

 以来、前線部隊での勤務はもとより海軍航空本部、さらに第一次大戦後に陸海軍省、通産省、逓信省が共同で設立した「中央航空研究所」にも出向した経験を持つ、まだ提督クラスの中では数少ない生粋の航空屋であった(海軍の航空屋の代表的存在である角田、山口、草鹿といった面々も元は他の専門からの転向組であった)。


「前線指揮官の経験が豊富で、柔軟な発想と果断な精神を持った人材ねえ・・・」

 

 千早はそう呟きながら、考え事をするときの癖で顎をなでた。たしかに整った顔立ちではあるが、他人に近づきがたさを覚えさせるほどではない。

 それが幸いして微笑むとひどく温かみのある顔になる。

 そのおかげもあってか若い頃は縁談に不自由しなかったという口だが、将官の令嬢との縁談を断って兵学校時代の下宿先の娘と結婚したという男だった。

 

 一途な男は猪口で酒を呷ってから言葉を続けた。


「そいつは難しいぞ山口、艦隊参謀となれば佐官級だがここ何年かの航空部隊の増勢のおかげで航空専門の佐官が不足している。貴様が欲しいような人材は、どこの部隊も手放さん」

 

 山口は苦笑しながら応じた。自分の猪口に酒を注ぐ。


「それを承知で頼んどるんじゃないか。貴様は航空畑一筋で、兵学校の生徒隊付将校も経験しとる。そのときの生徒はちょうど今少佐か中佐だろう。掘り出し物の人材を知ってるんじゃないか」

 

 「兵学校生徒隊付将校」は一次大戦後の軍縮の波にさらされた海軍が編み出した方便のような制度だった。

 いわゆる「八八艦隊計画」の廃止に象徴される海軍軍縮は、当然ながら膨大な冗員を生じさせることになった。

 大蔵省は海軍に大幅な人員削減を求めたが、大戦を通じて戦時の人員確保(とりわけ育成に手間のかかる将校と下士官のそれ)の苦労が身に染みていた海軍は可能な限りこの要求をかわそうとした。兵学校生徒隊付将校とはつまり、「将校養成教育の強化」という建前のもとに、あぶれた将校用につくられたポストなのであった。

 

 従来海軍兵学校では生徒の自治が重んじられ上級生が下級生を指導することになっていた。

 それが制度の導入により、各学年は四、五人ずつの班に分けられそれぞれに将校と下士官が一人ずつ付けられることになった(これは陸軍士官学校のやり方をモデルにしていた)。

 

 方便として設けられた制度ではあったが、海軍当局者すら思いもよらない効果があった。

 それまで「生徒の自治」の名の下に横行していた、上級生から下級生への「指導」、つまり私的制裁(リンチ)が激減したのである(もっともこれには、同時期に現首相でもある鈴木貫太郎が兵学校校長に就任したことも大きかった。海軍きってのリベラル派として知られていた鈴木は、その在任中に兵学校の風土改革・意識改革に取り組んだ)。

 もちろんそれですべての不条理が消え去ったわけではなかったが(隊付将校による私的制裁の例もあった)、海軍の中にあったある種の悪しきものが幾分か緩和されたこともまた事実であった。


「俺が隊付将校だったのはたった二年のことだ。その間の教え子は一〇人しかおらん」


「貴様は受け持ちの生徒以外からも人気だったと聞いているぞ」

 

 山口がいたずらっぽく微笑んだ。少なくとも上官と部下の前では、あるいは家族にも決して見せない顔だ。山口は言葉を続けた。


「なあ千早、俺も無理は承知だ。しかし空母を中心とした航空艦隊の編成は世界でも初めての試みだ。世界のだれも運用したこともない艦隊の力を最大限に引き出すためには、常識にとらわれない柔軟な発想、それに前例のないことでも果敢にやってのける戦意が必要なんだ。俺は軍人として祖国の負託に応えたい」


 千早はまた考える顔になって、右斜めを見上げた。しばらくそうしていたが、途端に天の啓示を受けたかのように言った。


「なあ、多少性格にクセがあっても構わんか?」


「どんな奴なんだ?」

 

 山口は即座に訊き返した。


「去年、天津で邦人救出作戦があっただろう、その時に上空援護をしていた艦攻隊が中共(中国共産党)軍を空襲したのを覚えていないか?」

 

 山口は少し考えてから、「ああ、あの事件か」と言った。


「命令違反だと問題になりかけたが、結局は『拡大解釈』ということで落ち着いたんじゃなかったか?」


「そうだ」


 千早は猪口の酒をぐいっと飲んだ。


「だが、海軍部内の一部、具体的には井上次官あたりに嫌われて、ほとぼりを冷ます意味もあって欧州に送られた。今じゃ向こうで陸攻隊を指揮している。水が合ったのか噂じゃ派手にやっているらしい」

 

 山口は当時の記憶を思い出していた。

 

 一九三〇年代後半になってソ連の援助を得て急速に勢力を拡大した中国共産党軍は、昭和一四(一九三九)年一〇月には北京を占領した。

 

 近郊の港湾都市・天津の陥落も時間の問題と思われたが、そこには国外へ脱出すべく大量の外国人が集まっている状況だった。

 

 日本政府も在外邦人を救出すべく行動を開始したが、何分当面は安全と思われていた天津に急速に危機が迫ったことと、当時の憲政党・安達謙蔵内閣が軍需企業をめぐる疑獄事件で総辞職間近と言われるような状況だった。

 混乱の中取り急ぎ常設陸戦隊一個旅団と第一艦隊から分遣した戦艦“土佐”と空母“飛龍”を中心とする救出部隊を差し向けたのだった。

 

 “飛龍”から発進した九七式艦攻の部隊が独断で中共軍を空襲したのはその作戦の中での出来事だった。

 当時山口は第二艦隊参謀長だったので詳しいことは知らないが、欧州で大戦が勃発したばかりの頃でソ連とも事を構えることになりかねない危うい状況だったとも聞く。


「確か、その艦攻隊の指揮官は中佐だったような・・・名前はたしか・・・」

 

 山口が思い出そうとしていたのを千早が先回りした。

 

 「真藤威利しんどうたけとし中佐。海兵五二期。海兵を出て以来、軍歴のほとんどを航空隊の部隊勤務で過ごしている。俺が隊付将校だった頃の受け持ちの隊にいた奴だ。お世辞にも従順とも秀才とも言い難い奴だが、戦意だけは間違いない。俺が保証する。それに変わり者だ」

 

 GF参謀長はニヤリと笑った。

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