第7話 事同じくして心違え

  監査官からの報告を聞いた国王ハジムは、パシフィカ侯爵をまた呼び出していた。


「……以上が監査官からの報告だ。三ヶ月かかると思われた工事を、二ヶ月足らず、半分に近い工期で終わらせてしまったぞ、プランテッド伯爵は」

「は、そ、そう、ですか……」


 二人がテーブルを挟んで向き合うのは、以前の大会議室ではなくこじんまりとした部屋。

 非公式の謁見、相談などを少人数で行うその部屋で、一人がけのソファで小さくなっていたパシフィカ侯爵は、さらに肩を縮こまらせる。


「な、何かの間違いでは……ない、のですね……」

「それはそうだろう。この報告があった以上、こちらはこれ以上の予算は出さなくなるのだから、間違った報告をさせる意味などありはしない。

 ジョウゼフは真面目な男だが、国庫を心配するあまり自腹を切るような自己犠牲精神の持ち主でもないからな」


 パシフィカ侯爵の失言を咎めるでもなく、淡々とハジムは言う。

 顔を俯かせていたパシフィカ侯爵は、やはりそうだったのか、と全く筋違いなことを考えていた。

 プランテッド伯爵家当主であるジョウゼフを、国王ハジムはファーストネームで呼んだ。

 貴族社会においてそれは、特に男性の間では友人と言って良いくらい親しい相手に対してしか行わないことがほとんど。

 ということは、今回の失態でパシフィカ侯爵から奪われた利権は、ハジムの友人であるジョウゼフへと委譲された……ように見えた。

 これがあくまでも緊急避難的工事だったことなど頭の中から消され、パシフィカ侯爵の中では、そうに違いないという思い込みが固まっていく。


 だが、流石に顔には出さず、だから神ならぬ身のハジムも、その思い込みには気がつけない。


「なあパシフィカ侯、真面目にやれと言ったじゃないか。いや、それは何度も言ってたはずだ。

 だというのに、なんでこんなことになったんだ?」


 ハジムの問いかけに、パシフィカ侯は顔を伏せ、答えることができない。

 どうしてこんなことになったのか、など、彼が聞きたいくらいだからだ。

 ただし、ハジムが聞きたいこととは全く別方向で。


 どうして今まで上手くいっていたことが頓挫したのか、挙げ句に自身の危機をすら招く羽目になったのか。

 それであれば、彼こそが聞きたいことだった。


「……まあ、いい。ことこうなっては、最早侯をかばうことも出来ん。降爵は免れんものと覚悟しておけ」

「……かしこまりました、それまでには心を固めておきます」

「頼むぞ、本当に真面目にやってくれ。パシフィカ侯の力量であれば、盛り返すことは可能なはずなのだから」

「ありがたきお言葉、痛み入ります……」


 慰めの言葉に、しかし返されたのはどこか虚ろな言葉。

 

 出来るわけがない。

 その一言がパシフィカ侯爵の脳裏にいくつも浮かび、やがて大部分を占領していった。

 それが顔に出ないのは、やはり彼も貴族ではあるということなのだろう。

 例え、どれだけ歪んでいようとも。


「これが最後の勤めとなるかも知れぬと覚悟し、励ませていただきます」


 覚悟の籠もった言葉に、ハジムも重々しく頷いて返す。

 ただ、それは彼が想像する覚悟とはきっと違うのだが。

 そんなことを勿論口にすることなく、パシフィカ侯爵は深々と頭を下げたのだった。





 そんなやり取りが王城で行われてから、数ヶ月後。

 冬も終わり、雪の多いヌーガットゥ地方でも本格的に雪が解け出した頃。


「うっはぁ……話に聞いちゃいたが、ほっんとすっげぇなこりゃ」


 ダイクンから休みをもらったカシムは、一人ヌーガットゥ地方に戻ってきていた。

 数ヶ月前の仕事場である堤防の上から見れば、大量の雪解け水が山々から集まり、工事の時には見たこともなかったおびただしい程の濁流となって彼の眼下を流れていく。

 ゴウゴウと不気味な低い音を立てるそれは、飲まれれば浮かび上がることなどとてもできないだろうと思えるだけの圧倒的な暴威を振りまいていた。

 それは、かつて彼が村を追われたあの洪水を思わせて。

 ぶるり、カシムは背筋を震わせる。


 だがそれでも。

 彼は、しっかりと足を踏ん張り、そこに立っていた。

 

 なぜならば。

 彼が今立っている堤防は。

 彼と、仲間達が心血注いで作った堤防は。

 全く揺るぎなく、そこにあるのだから。


 じっと、足下を見つめて。

 そこから視線を動かして、改めて濁流を見て。

 それから、さらに視線を下流へと向けていく。

 

 その先には、工事の最中世話になった村や町があった。

 仕事終わりに繰り出せば、いつしか心地よい笑顔で迎えてくれるようになった、そこに住む人々。

 その顔は、今でもすぐに、鮮明に思い出すことができる。

 そして、時折ぽつぽつと零していた、雪解け水への不安も。

 

 本来ならば豊富な水資源として活用できるはずの雪解け水は、過ぎれば単なる暴力と化す。

 だというのに。

 彼は、立っていた。

 視線は、しっかりと下流を見据えていた。

 

 つまり。

 やり遂げたのだ。

 間違いなく仕上げられ、この恐ろしいまでの濁流を、押さえ込めたのだ。


 ……そして。

 

 守れたのだ。


 この川沿いで生活を営む人々を。


「うおぉぉぉぉぉ!!!!!」


 気がつけば、カシムは天に向かって叫び声を上げていた。


 やったのだ。

 守れたのだ。

 縁も何もなかったはずが、工事を通じて縁が結ばれた人々を。

 あの時逃げるしかなかった自分が、自分達が。

 多くの仲間を手に入れて。

 

 心が、胸が熱い。

 体中に熱が、力が沸き起こってどうしようもない。

 気がつけば、泣いていた。

 この濁流にも負けぬ勢いで、カシムは涙を流していた。

 だが、心はむしろこれ以上なく澄み渡っていた。


 これだ。

 これが、俺が生き延びた意味だったのだ。


 そう、カシムは心に刻み込む。


 為す術も無く濁流から命からがら逃げ出した男が、今こうして、濁流を抑え込む工事に携われた。

 これが天命と言わずに何と言おう。


 今ここに、一人の男の人生が定まった。

 濁流から逃げるしかなかった男が、濁流に立ち向かう術を手にしたのだから。


 カシムは、彼自身は知る由もない。

 この日この時が、後に治水王と呼ばれる男が生まれた瞬間だったのだということを。

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