これからも共に

「そんなことを許すわけがないだろう」



 白川の声が一層強く、頭の中で響いた。どうしてだ。どうして、そんなことを言う。


「オレは……オレという存在は、お前にとっても、きっと青葉さんにとっても望まない人格だ。死を望む人格はいるべきじゃない。なら、せめてオレを消してくれよ。それに、オレを消せば辛い記憶も一緒に消すことができるかもしれない。この記憶を、誰かに押し付けるくらいなら、消えた方がいい」


「忘れたのかい。キミは希望だと」


「……どこが希望だというんだ」


 以前、震災の記憶について話しているとき、パンドラの箱の話が出てきた。嫌な記憶を箱に詰め込んでいるのだろうと。まさにその通りだった。黒田オレという存在に、記憶を詰め込んでいた。けれど、今オレが記憶を思い出した。オレの存在は厄災をまき散らす箱そのものだ。いや、箱に詰められた厄災だ。


「キミは今も青葉さんのことを好きかい」


 白川の質問にどう答えていいものか分からなかった。辛くて、苦しい記憶を思い出した。押し付けてきたのが彼女であるということも分かっている。どうしてそんな役目をオレに押し付けたんだという怒りがある。けれど、不思議と死にたい理由は彼女ではなかった。


 どちらかと言えば、彼女には生きていて欲しいとすら思っている。可能であるなら黒田オレという人格だけを消してほしいと思っている。オレの中であの交換ノートをしていた記憶が色あせることはなく残っていた。


「……好きかどうかは断言できない。けれど、少なからず、好ましく思う部分はある」


 すると、白川がふっと笑った気がした。そうして「それだけで充分なんだよ」と言った。


「さっきも言ったけれど、ボクらは『夏井青葉』分身のようなものだ。その中の一人であるキミが、彼女を好ましく思えているということは、自分自身を好きになれる小さな可能性だとボクは思っている。……ボクは彼女に、自分自身を嫌ってほしくないと思っている。だからこそ、キミは、希望なんだ」


 希望という言葉を何度も反芻する。けれど、どう受け止めていいのかまるで分からない。一方で納得した気分が沸き上がった。意味深に言っていた意味をようやく知ることができ、まるで、ずっと喉につっかえていた小骨が取れたような気分だった。


「……なぁ、お前はオレにどうしろっていうんだ?」


 死を考え抜いた先に、望むものがないと分かった今、せめてオレの存在を消したいと願っても、それすらこいつは拒絶する。オレには、もうどうしたらいいか分からなかった。


「そうだね……」


 そう呟いた後、しばし沈黙する。やがて、白川が告げる。


「キミが『夏井青葉』という人間の一部であることを受け入れた上で、それでもキミはキミのまま、彼女を好きでいてくること、かな。それが、ボクにとって、大変都合のいい展開だよ」


「いつ死にたいと、今日みたいなことをしてもおかしくないのにか?」


 それは随分とお人好しの選択ではないだろうかと思った。


「その時今みたいに全力でボクが止める。なんせ、ボクの役割は目的は『夏井青葉』という人間の願いを叶えて、支え続けることだからね。それに、その目的には青葉という主人格だけでなく、キミも含めた皆を支えることも含まれているんだよ」


「欲張りさんか、お前は」


 呆れた言葉しか出てこない。


「そうだね、欲張りなんだ、ボクは」


 オレはもう何かを言うことができなかった。死ぬことは許されない。消えることも許されない。ただ息を吸って、惨めに、堕落的に、生きていくことしか許されない。そんなもの、死んだ方がマシだと思う。それでも、こいつは絶対に死ぬことを許さないという、正に悪循環だ。


「……もう、疲れた」


 やっとのように、オレは呟いた。けれども、体の緊張が解ける気配はしない。


「白川、もういい。オレは『夏井青葉』を殺すことはしない」


 しばし待っていると、体の力が抜けたのが感じた。試しに手を動かしてみると、思ったように動いた。手を握ったり、開いたりして、体を動かせている感覚が戻ってくる。緊張感がほどけ、深く、長い息を吐く。そうして、手に持っていたカッターの刃を仕舞い、机の上に置くと、その場に倒れ込んだ。


「オレはもう疲れた。考えるのも疲れた。殺すことも、死ぬことも許されない今、何もできない。何もしない」


「随分と素直だね」


「素直なんじゃない、絶望しているだけだ」


 そう言い、目を閉じる。真っ暗な闇がそこにある。深く、深く、体が沈み込んでいくのを想像する。暗く冷たい海の底に沈んでしまおう。もう二度と、浮き上がってこないように。もう二度と、目が覚めないように。


「勝手に消えようとするのは許さないよ」


「消えない。どうやったって、お前が許してくれそうにないからな。とはいえ、ここからいなくなったやつは多いだろ」


 入れ替りの多いシェアハウスだと思っていたように、いつの間にかいなくなっている交代人格がこれまで多くいたはずだが。


「いなくなってはないよ。どこまでいったって、『夏井青葉』の一部だからね」


 形を変えて、姿を変えて『夏井青葉ここ』のどこかにはあると言いたいのだろうか。


「そう言う意味では、正にキミがそうだね」


「どういうことだ」


「前も言ったでしょ。小説は彼女も書いていたって」


 そういえば、そんなことを言っていたな。


「ここ数年小説を書くことをしてなかったから、どうしたんだろうと思っていたんだ。でも、時々書くようになった。それは、丁度キミが現れるようになった頃からでもあった。キミに押し付けたというべきか、与えたのは震災などの辛い記憶だけじゃなかったってことだよ」


 青葉さんにとっての小説を書くことが、どんなものだったのかオレには分からない。オレの中にあるということは、辛かった側面があったんじゃないだろうか。


「それに、約束があるからね」


 白川の言う約束という言葉に少しだけ意識を浮上させる。そういえば、花のことで約束事をしていた気がする。


「キミとの約束であり、ボク自身のための約束なんだ、破るのは許さないよ」


「……あぁ、分かった」


 オレはなんとかそれだけ答えると、真っ暗な闇の底に意識を沈めていった。

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