押し込めていたもの

「思い出した」


 微睡まどろみの中、オレはぽつりと零した。思い出した。――思い出してしまった。



「止めてもらってもいいかな」



 唐突に声が響く。これは、白川の声だ。


「手に持っているそれを置いてくれないかな」


 視線を落とせば、あのときのようにカッターが握られている。そして、最大まで出した刃が今にも腕を撫でようとしている寸前で止められている。無視し、体を動かそうとするが、誰かに押さえつけられているかのように、思うように動かない。


「……白川、お前か」


「こうでもしないと、キミ、また、、死のうとするでしょ」


 低く、底冷えするような声が頭に響く。


 きっと、今いるのは白川だけじゃない。灰島や紫波しわ、桃山など、もっと他の奴らがいる気配がする。一言も話さず、オレに対して警戒し、身体を動かそうとするオレを必死に止めてくる。


「どうして止める」


「この身体は『夏井青葉』のものだ。キミの一存で命を奪われるなんて困るんだよ」


 瞬間、オレは頭の芯のどこかが焼けたような感覚がした。


「……そうか、あぁ、そうだよな。お前らはそうだ。ずっと、そうだ。きっとこれからもそうなんだろうな! お前らは正論ばかり並べて、オレのことは箱に詰込みやがった。青葉自身の感情を無視し続けていたのは事実なのに、何が違うって言うんだ」


『夏井青葉』はずっと疎外感を感じていた。自分が特別な存在ではないことなど知っているのに、どうしても周囲に馴染むことができないでいた。


 震災が起きて、日常は一瞬にして非日常へと染められた。


 同じ経験をした周囲となら馴染めるような、もしくはそれ以上に被災した人間としての自分が在れるような気がした。


 でも現実はそうはならなかった。


 自分の置かれた状況は幸福そのもので、悲観する要素は一つもなかった。


 悲惨な状況が自分の目の前にある。悲惨な状況が自分の隣にある。それなのにどこまでも、どうやっても何をどうしても、自分は――オレは、震災の当事者になることができなかった。


 目の前の状況に胸を痛めないわけがない。

 悲しんでいる人の気持ちが分からないわけがない。

 日常が非日常になってしまったことに少しも感情が動かないわけがない。


 心が軋む、悲鳴をあげる――言葉にできず、揺れ動くばかりの感情だけがあった。


「オレは……『夏井青葉』は、ずっと思っていた。感じていたし、叫んでいた。ずっと、ずっと『夏井青葉』は辛いと、悲しいと言っていた!」


 すると、カッターの刃先が僅かに震えた。


「お前は……お前らはそれを無視し続けた。殺し続けてきた。お前らはずっと――オレを殺そうとしてきた……それはつまり『夏井青葉』を殺そうとしていたことと同義だ。なら、オレ自身が死のうとして何の問題があるっていうんだ!」


 悲しいと思う度に、辛いと思う度に、そう思ってはいけないと思う度に、感情や記憶が箱の中に詰め込まれる。黒田オレという存在に押し付けられた。


 けれど、それを全て抱えきれるほど箱は丈夫にはできていなかった。全てが爆発させるように、近くにあったカッターでオレは自身の腕を切った――はずだった。


 あの時も、白川が出てきて力が入らなかった。結局、死ぬに至らなかった。死ぬことが……『夏井青葉』を殺すことができなかった。


 だから、死ねなかった。こうして、生きている。また、、生き延びてしまったんだ。


「ねぇ、どうして、そこまでして『夏井青葉』を殺したいと思うんだい。キミはそれに何を望んでいるんだい」


「望みも何も、オレに繰り返しやってきたことを、ただ返すだけだ。切り捨て、殺し続けてきたことを、今度はオレがやる。それだけだ」


「本当に、それだけ?」


「……何が言いたい」


 オレは唸るように声を低くして、白川の言葉に聞き返す。


「いや、違うな。キミの思うものは、望むものは本当に『夏井青葉』を殺すことなのかな」


 白川の言葉がやけに頭に響いた。


「キミの望むものはこんな形のものじゃないはずだ」


「何を知ったようなことを言う。お前は、白川はずっと知ってたはずだ。分かってたよな。『夏井青葉』に一番近いところで見ていたから」


 白川のことを全て分かるわけじゃない。黒田オレとして存在する以前の人格について分かることは少ない。けれど、感覚でなんとなく分かる。やつはほとんどの人生を青葉さんと過ごしてきた、一番古い人格だ。


 決して表に出ることはなく、色んな人格が生まれては消えていく中で、そいつらを『夏井青葉』としてまとめてきた。正に『夏井青葉シェアハウス』の管理人としてずっと存在してきた。だから、ここに生まれる人格については全てと言っていいほど知っているはずだ。


 当然、オレのことを知っていたはずだ。だからこそ、あの時いち早く反応して、致命傷にならずにこうして生きている。


「そうだね……。青葉や他の皆が、もちろんボクも含めて辛い感情や記憶をどこかに押しやっていることについては、ボクは少なくとも他の人よりも自覚的だった。でも、それも一つの感情処理の方法として仕方のない、強く否定されるべきものではないと思う。

 そもそも、”普通の人”は色んなものを抱えられるようにはできていない。忘れることで、思い出さないようにすることで自分という存在を保っているんだ。『夏井青葉』のように、あらゆるものを抱えようなんて……わがままというものなんだ」


「お前はオレが殺されて当然だと言いたいのか!」


「そう聞こえてしまったなら、申し訳ない。けれど、事実”普通の人”はそうやって記憶や感情をコントロールしている。青葉は……『夏井青葉』という人間はそれが苦手なんだ。だから、忘れていったことについてボクは良い傾向だとすら思った。

 けれど、実際はキミに押し付け、ひたすらにキミを殺し続けていたんだね」


 オレは喉の奥が詰まったような気がした。

 再び、カッターの刃先が震えた気がした。


「キミが表に出てきたとき――キミが『夏井青葉』を殺そうとしたとき、正直なところ、ボクはどうしたらいいのか分からなかった」


 白川はまるで懺悔するようにそう言った。

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