夏井青葉の過去(2)
月日が経ち、青葉は大学生となった。青葉が進学を許されたのは、地元の県内の大学だけだった。それでも進学を許してもらえただけ感謝していた。実家から大学に通うのは難しいため、アパートを借り、一人暮らしを始めた。
初めての一人暮らし、慣れない環境での生活、賑やかな大学生活。青葉はこれを充実していると呼ぶのだと思った。けれども、だんだんと体調を崩していった。
サークルなどの付き合いもあれば、大学の勉強もあり、あまり眠れていないのは確かだった。そのせいか、知らぬ間に買い物をしているようで、見覚えのないものが部屋には増えていった。
趣味の合わない服やアクセサリー、化粧品などがある一方で、大学の図書館からいつの間にか借りてきているやたら難しそうな本があることもあった。
他には受けた記憶のない授業のレポートまであったのだ。ものだけでなく、見知らぬ連絡先が携帯電話の中にあるのだった。
それらが入学から半年の内に起きた。前期の単位を取ることはできたが、この調子ではいけないと考えた青葉は、大学にあるカウンセラー室を訪れた。
悩みを聞いてくれるだけでも違うだろうと考えたからだ。そこでようやく、これまでのことが異常であると気づけるきっかけを得た。
大学に入ってから起きている困りごとや悩みをカウンセラーに話した。すると、カウンセラーは、実に悩ましいといった顔を見せたかと思うと、病院を紹介するから行きなさいと言った。紹介されたのは精神科の病院だった。
青葉はそこまで深刻に感じていなかったので、病院に行くことを渋っていた。しかし、カウンセラーの人に行きなさいと念を押されて、ようやく足を運ぶ。
カウンセラーから医師に渡すようにと言われたメモと、担当となった医師と少しの間話をした。話をしたときは、心につかえていたものが吐き出されたようで、少しだけスッキリしたのだが、医師は神妙な顔をしたままだった。そうして、医師からとあることが告げられた。
「解離性同一性人格障害です」
それが、青葉の症状の名前だった。けれど、青葉はその言葉の意味をすぐには理解できなかった。信じられなかったのではない。名前を言われても、どんなものなのか、まるで分からなかったのだ。ただただ不思議そうな顔をする青葉の顔に気づいた医師は、例えば、と具体的な症状を話した。
「例えば、家から出た後、いつの間にか一日が終わっていて、家の前に立っているとか」
「例えば、一定期間の記憶がすっぽりと抜け落ちているとか」
「例えば、普段の自分ならできないはずのテストも、気付いたら終わっていて、挙げ句点数が良いとか」
「例えば、自分の趣味とは全く違うものを買いたくなる。もしくは、気づかないうちに増えているとか」
「例えば、急に人が変わったように怒り出すとか」
例えば――――
次から次と医師の口から出てくる例え話を、青葉はどこで止めたらいいだろうかと思う一方で、それらは青葉が体験してきた話そのものではないかと思っっていた。
医師はやたら難しい名前で言っていたが、一般的な言葉に言い換えると『多重人格』というものだろう、と青葉は理解した。しかし、それすらも頭の中の人物に、理解が甘いと、そういう言葉で括ってはいけないと叱られた。
それから頭の中は騒がしいし、難しい話を聞かされて煩わしいと思っていたのだが、ふと気づいたとき、青葉は電車の中にいた。
慌てながらも平静を装って状況を確認するため、スマホで時間を確認したり、停まる駅を確認する。
やがて、それは帰りの電車に乗っていることを把握した。そう理解すると、すぐに落ち着いて、電車の背もたれに身を委ねる。
ふと見ると、強く何かを握りしめていることに気づく。手を広げ、くしゃくしゃになったそれを広げてみると、とても丁寧な文字で文章が書かれていた。
先生の話をノートにまとめておいたので、読んでください。
そう書かれていたので、バッグにあるノートを見てみると、そこには確かに分かりやすく話がまとめられていた。
そして最後には、別の一言が添えられていた。
これからもよろしく 白川
見覚えのない名前だった。けれども、書かれたその文字に見覚えがあった。時々、几帳面に色んなことがノートに書き残されていることがあった。
それはその日あったことであったり、誰と何を話したかであったり、他には友人と交わした約束など多岐にわたった。時々、板書がやたら綺麗にまとめられているときも、この文字であった。
いつも助けてもらっていた文字を書く人物は白川というのだと、青葉はこの時初めて知った。同時にそれが、自身の中にいる交代人格の一人であり、医師の言った病気なのだと突き付けられたのだった。
それから様々なこと(大学に入ってからだけでなく、それ以前の、それこそ生まれたときから人生)を振り返っては、青葉自身の記憶にないこと、記憶にはあるけれど普段の自分ではしないことをしてしまうことなどの背景には、交代人格と呼ばれる青葉とは別の人格たちによるものだったことが判明した。
そこで、皆が共有するこの体をシェアハウスと見立て、うまく運営していくことを模索し始めた。
青葉が医師から解離性同一性障害と言い渡されてから丸一年が経った頃、順調そうに思えていた運営が、再び崩れ始めた。
一人の人間として偽装するために互いに配慮していたが、個々の個性が今までよりも強く現れ始めたのだ。
人格同士の衝突に加え、サークルや大学の勉強の両立は肉体的に付いて行かなくなった。それによって、人格が不安定さが増し、現実に人間関係でのトラブルも増え始めた。
自身のことを気兼ねなく話せる人物は周りにはおらず、例え両親に話したとしても理解されなかった。青葉自身のストレスは増すばかりの中、これまで以上にない孤独感に苛まれていた。
それでも青葉はいつものように心の底の方へ沈めることを繰り返した。
人格同士は互いに主張し合う声、それを統制しようとする白川の声がひっきりなしに、頭の中で飛び交う。ひたすらにうるさい声は、頭の中で響き、止める気力すらも湧かなくなっていた。
全てがどうでもいい。ただ、このうるさい声はなんとかならないものだろうか。
気づけばそのように考えていた。
何がきっかけか、何を原因としたのか――そもそもきっかけなどそこら辺に散りばめられているほどに青葉の生活は乱れていた――当時のことを思い出そうにも、誰一人として理由が分からないが、それは唐突に起きた。
――あぁ、このまま死んでしまおうか。
誰が思ったか分からない。不意にそんな考えが青葉の中に浮かんだ。
そこからいつものように青葉の考えを正す白川の声が、その時は全く青葉には届かなかった。
いや、その場に青葉がいたかすらも怪しい。
その時、届いた荷物を解くために出したままになっていたカッターが視界に入る。
そうして、刃を限界まで伸ばすと、そのまま腕の上で滑らせた。
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