小さな花と約束


「全く、素直じゃないんだから」


「うるせぇよ」


 そう言いながらコーヒーを飲もうとマグカップを傾けたが、その中身は空だった。仕方ないので、もう一度コーヒーを淹れようと席を立つ。


「小説の方、進んでないようだね。そうだ。一つアイデアをあげよう」


 脇に避けていたネタを書きなぐっているノートに気づいたらしい白川は得意気な声でそんなことを言った。大きなお世話だと思ったが、本当に行き詰っているので、聞いてみることにした。


「花を見に行くなら、桜もいいけれど、ネモフィラという花をオススメするよ」


「ねも……なんだって?」


 聞き慣れない花の名前に、思わず聞き返す。


「ネモフィラだよ。……あぁ、あそこにあるのがそうだよ」


 白川が示した先にあったのは、ベランダだった。そこにあるのは、一つのプランター。中には土があるだけで、何も咲いていない。今は冬なので、当然と言えば当然だった。一瞬、それが? と疑問に思ったが、白川は別にプランターそのものを言っているわけではないのだろうと思った。プランターを更によく見れば、ネームプレートが刺さっているのが見えた。そこには確かにネモフィラと書かれており、青い何かの絵も一緒に描かれていた。あれは確か、秋に白川が種を蒔いたなどと聞いた気がする。


「どうしてそれがいいんだ?」


 テーブルに戻りながら、オレは白川に聞く。


「いくつかあるけど……一つは、春の花だから。日本で春と言えば桜というように、原産である北アメリカではネモフィラが春の花と言われている。育てる地域にもよるけど、だいたい4月から5月が開花時期。桜と同じか、少し遅いくらいかな。ネモフィラで一番有名な場所と言えば、ひたち海浜公園が挙げられる。そこにあるみはらしの丘という場所にネモフィラが一面に咲くんだ。花弁の青さと空の青さが曖昧になるその景色は幻想的で、一見の価値があるとボクは思う。それも、ネモフィラを薦める理由の一つだね」


 白川の話を聞きながら、なるほどと頷きながら、オレは密かに驚いていた。植物に興味がないと勝手に思い込んでいたが、そうでもないらしい。話している間、ずっと楽しそうであることがその証拠のように思えた。ネモフィラが咲く景色について語っているときは、まるで見たことのあるようだ。シェアハウスの管理人を自称しているし、いつでもここにいるので、ずっと前に見たときの話なのかもしれない。


「そして、ネモフィラを薦める理由はもう一つある。それは、ネモフィラにまつわる、とある悲しい恋物語だ」


 静かに白川は言った。どんな話だ、と聞くと白川はその物語を話した。


「一人の男が、ネモフィラという女性に恋をした。彼は神に『この恋が叶うのならば、死んでもいい』と祈った。神はそれを聞き、恋は無事成就した。神は約束通り、二人の結婚式の夜、男を死者の国へと連れて行った。ネモフィラは夫を取り返そうと神の後を追うと、そこには青く燃える冥府の門があった。彼女はそこには入れなかった。彼女は死者ではないから。彼女は門の前で泣きながら夫を返すよう頼んだ。しかし、どれだけ頼んでも門が開くことはなかった。ネモフィラは一歩も動かず、泣き崩れた。それを哀れんだ冥府の神が、彼女を美しい花に変えた。それがこのネモフィラという花である、と。

 今話した物語は、キミが考えている小説の男女に似ていると思うんだ。最終的に報われないと考えているようだから、どうかなと思って」


 それは白川の言う通りだった。主人公は、依頼人の女性の依頼を達成することはできない。具体的には考えていないが、行方不明の婚約者が戻ってくることはないと考えている。


 白川がそこまで知っていることについて、もはや疑問を持つことを止めるとして、物語と関連することも考えてネモフィラを提案してきたのであれば、天晴あっぱれとしか言いようがない。


 白川が思いの外しっかりした内容で薦めてきて非常に驚いている。戸惑いを抑えるようにコーヒーを一口含んだ。


 やがて、オレは考えておく、とだけ返した。


「分かった。じゃあ、最後に一つ。花には花言葉とうものが必ずと言っていいほどある。もちろん、ネモフィラにもね。いくつかある花言葉の中に先ほど話した物語が元だとされる花言葉があるんだ」


 そのことは、なんとなく知っていた。オレが元々考えていた桜についても当然調べた。


 桜全般の花言葉は『精神の美』『優美な女性』だが、一口に桜といっても、染井吉野や枝垂れ桜、八重桜に山桜など多様に存在し、それぞれにも花言葉がある。しかし、そのどれもが書こうと思っている内容に沿わないものばかりだった。小説を書く手が止まってしまった原因の一つでもあった。


 白川はそれを知った上での話ということなのだろう。ネモフィラの花言葉というものはどんなものだろうかと思いながら、白川の話の続きを待っていたのだが、一向に話し出す気配がない。


「どうした」


「んー。気が変わった。あの花が無事咲いたら、教えてあげる」


「は?」


 悪戯を含んだ言い方をする白川の言葉に、オレは思わず聞き返した。それまでの流れから考えれば順調に話してくれると思った。そうでなければ、小説に使えるかどうか判断しようがないじゃないか……。オレの不満に気づいたらしい白川が言葉を続ける。


「別にボクは意地悪をしたくて言わないんじゃない。花を育てるなんて初めてだからね、無事に育つか分からないんだ。だから、あえてキミに花言葉を教えず、咲いたときに教えると約束することで、キミへのというよりは、ボク自身の誓いになるんだ。花をきちんと咲かせる、というね」


 白川のその言い方は、あのネモフィラという花が咲くことにこだわりがあるように聞こえた。さらに言えば、オレに花言葉を教えないのは、そのついでのようだ。白川の考えは相変わらずよく分からない。けれども、なんとなく、花が咲けば自ずと分かるような気がした。オレは白川の言葉に、分かったと返す。白川はそう答えるのが意外だったのか、どこか戸惑った様子を見せた。けれどもすぐに、「うん、約束だ」と言いう。


 そうして、オレ達の間に、小さな約束が結ばれたのだった。

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