こころにコーギー・スマイルを 後編
二階の自室のベッドに横たわりながら、早速自分のしたことを後悔していた。
少しでもアーサーの傍にいたいのに、どうして私は自分で自分をアーサーの元から締め出して部屋に籠らせるような真似をしたのだろう。
気を紛らわせるために、課題図書でも読もうかと机に向かうが、どうしても気が進まなかった。
本棚に収まっていたアルバムが目にとまった。その背表紙には「アキラちゃん」と書かれていた。生後から大学入学式までを収めている。十歳頃のアルバムを手に取ると、アーサーがこの家に来たばかりの頃の写真が残っていた。
よちよち歩きで部屋の中を歩き回っている写真、初めて家でおしっこをしたときの写真、初めての夜にベビー用ベッドで眠っているときの写真――寝顔は今と寸分も変わっていない。
アーサーは私の様々なライフステージにいた。いつも傍らでスマイルを振りまいていてくれた。そんなアーサーがひどい病気で死んでしまう。その事実に耐えられなかった。
両目からあふれてくる熱い涙を拭った。拭っても拭っても止まらなかった。いくら泣いても事態が好転しないことは分かっていたけれど、それでも止まらなかった。
我に返ったのは、部屋のドアを打つ音が聞こえてきたからだ。
「ちょっと入ってもいいかな」
義父の声だった。
「今は、ちょっと」
「そうか」沈黙があった。「じゃあ、ドア越しでいい。ちょっと話がしたい」
「ねえパパ、今はそんな気分じゃないんだってば」
「笑おうよ」義父は言った。「病院の先生も言っていたでしょ、飼い主が辛い顔してちゃアーサーに良くないよ」
私が黙っていると、義父は続けた。
「アーサーだってアキラちゃんにいつも笑いかけているでしょ」
「アーサーは楽しいから笑っているわけじゃない」
私の中でなにか反発してやりたいという気持ちが湧き上がっていた。
「コーギー・スマイルってのはね、笑顔とは違うの。たまたま人間にとって笑顔に見える顔をしているだけなの。本当は楽しいのか、そうでないのかなんて分かんないんだよ」
「そうかな」
義父は言った。事実をまくしたてたので、反論があると思っていなかった私は面食らった。
「アキラちゃんはボクから送ったアーサーの写メも見ているだろう? その時アーサーは笑っているかい?」
「分からないけど……」
「ボクは家族になってから日が浅いだろう。まだどこかぎこちないんだよね、彼とは。なぜって、犬って本質的に男の人が苦手みたい。低い声が怖いんだね。写メを撮るときはいつも真顔だ。アキラちゃんの言う通りではないと思う」
「で? 笑ったからってどうなるの? ただの顔の筋肉の運動でしかないじゃない」
「笑顔はすごいよ。アーサーのスマイルを見ていれば分かるだろう。力がもらえるんだ。本当のところアーサーだって楽しいのかは分からない。でもボクらが力をもらえるの確かだろう?
「ねえ、笑おうよ。さっきアキラちゃんが話していたことだけど、コーギー・スマイルを浮かべてから、もう一回考えてみてもいいんじゃないかな」
アルバムに目を向けた。アーサーは笑っていた。アーサーが笑っている時みんなも笑っていた。そうだ。あらゆる場面、あらゆるステージで、アーサーはいつもスマイルを浮かべてくれた。私には当たり前のことでも、誰かにとっては特別なことだったのだ。
私はドアを開けた。
「そうするよ」
義父に頭を下げ、階下に降りた。
リビングのドアを開けると、アーサーが迎えてくれた。目を見開き、口角を上げて、最高のスマイルを私にくれた。
その華奢な肩を抱いた。自然と笑顔があふれてくる。ママも義父も笑っていた。
2011年だった。
2月のことだった。
アーサーは旅立った。
それまでの3年間、私は――辛くなかったといえば嘘になるけれど――それなりに楽しく過ごした。
大学には通い続け、卒業後は地元に帰ってきて市役所に勤めた――最後の一年間は一緒に過ごせたのが幸いだった。
その日から約一月後の震災で私はさらに多くのものを失うことになった。語り尽くせないくらい多くのことをだ。
人生には想像もできないくらい悲しいことが起こる。
でもそう思ったとき私は顔の筋肉を使う。それは人生には想像もできないくらい楽しいことがあると信じることだ。アーサーがよくやっていたように。
2023年になった。
私には2人の子どもがいる。
6歳と4歳になる。
新しいコーギーを飼った。
子どもにもきっと人生の先生が必要だろうから。
私も地元でペットとその飼い主を支援するNPO法人を新たに立ち上げていた。
私にも笑顔の先生が必要だった。
この世界に小さな存在が立ち向かうにはコーギー・スマイルがどうしても必要なのだ。
――終わり――
こころにコーギー・スマイルを 馬村 ありん @arinning
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