こころにコーギー・スマイルを

馬村 ありん

こころにコーギー・スマイルを 前編


 最初の異変が現れたとき、それがアーサーにとっての死の予告になるとは想像すらしていなかった。


 2008年、夏の昼下がりのことだった。


 大学生だった私は実家に帰省していた。


 人文学を専攻していたので、ドストエフスキーの「罪と罰」と遠藤周作の「沈黙」を読んでレポートを書く必要があった。それなのに、本を読む気にはならず、冷房の効いた部屋で絨毯の上に横になっていた。


 私の気持ちは焦っていた。


 いろんなことが起きた年だった。誰もが急いでいて、誰もが追い立ててきた。君はそのままではいられない。君は変わらなくてはいけない。成長しなくてはいけない。我々は大海を泳ぐ回遊魚だ、止まると死ぬぞ――そういう脅し文句がテレビからもラジオからも新聞からもインターネットからも聞こえてきた。


 あらゆる人とコミュニケーションをとらなくてはいけない。全国紙すべてに目を通さなくてはいけない。外国語を習得しなくてはいけない。エクササイズ、携帯電話、音楽、映画、ヘアサロン、TOEIC――他にもたくさん。


 その過酷さに私は絶望し、世間の要求に白旗を上げるのだが、焦る気持ちだけは居残り続け、エンジンの空転しているような精神状態に常に置かれていた。


 だから、私が絨毯に横になっていたのはただ怠けているのではなく、急がせる社会に対して手も足も出なくなっていたからだ。


 そうしていた時、私の顔に突然飛び込んでくるものがあった。飼い犬のアーサーが鼻先を突っ込んできたのだ。長い舌が私の口元を舐めてきた。


「ちょっと、アーサーやめてよっ」


 アーサーはすごい力で向かってくる。その力は強く、両手では抑え切れないほどだ。私は観念して、アーサーのするがままにさせる。口元を舐めまわされていると自然と気の抜けた笑い声があふれ出てきた。


「ありがとう、アーサー」


 アーサーに礼を言った。自分でも何に感謝しているのか分からなかったけど。




 舐めるのに飽きると、アーサーは私に背を向け、ぷりぷり尻を振りながら寝床のクレートへと踵を返した。その中に入ってからも、さんかくの耳をそばだて、突き出した前足に頭をのせ、黒目がちな両目をじっと私に据えてくる。


 アーサーはオスのウェルシュ・コーギー・ペンブロークで、その時十歳だった。もう犬としては老境に達しており、まぶたの上辺りには白いものが目立ち始めていた。当時二十歳だった私とは十年の付き合いになっていた。


 帰省の目的の半分はこの相棒と会うことにあった。ママと義父ちちには申し訳ないけれど――アーサーは私に一番懐いていた。ここから遠く離れた東京の大学にいるときには、ママと義父から送られてくるアーサーのを見るのが一番の楽しみだった。


 アーサーはピンと耳を立てると、突如立ち上がった。バウバウと吠え立てながら、リビングを横切って、玄関につながるドアの前で腰を下ろした。私は買い物からママが帰ってきたのだと察した。実際にそうだった。


 ママが部屋に入ってくると、アーサーは目を見開いて、フレアスカートの脚に飛びついた。この歓迎にママは笑顔で答えた。


「アキラちゃん、買ったものしまうの手伝って」


「いいよ。わかった」


「きょうは鮭のシチュー。アキラちゃん、スキでしょ?」


「うーん。キライじゃないけど……ってところかな~」


 私もママもリビングと隣接するキッチンに行き、冷蔵庫やパントリーに食材や日用品を収納した。


 ひとりぼっちでいるのが心細いのか、アーサーは私達のいる台所に向かって歩いてきた。絨毯敷きの床に左足を引きずりながら――よちよちと近づいてきた。


「ちょっとなにしているの、アーサー」

 

 私はその時笑ったと思う。


 アーサーはいつもユーモラスな仕草と突拍子もない行動で私を楽しませてくれていた。笑っているような顔(俗に言うコーギー・スマイル)はもとより、短い四肢で頑張って歩行する姿は思わず笑顔を誘った。


 だからその時も大事には思えなかったのだ。


 一方、ママの反応は違った。


「アーサー!」


 顔面を蒼白にして、アーサーのもとに駆け寄ってひしと抱きしめた。それから、すぐに義父に電話をかけた。義父は勤務先の大学から『すぐに戻る』と連絡を寄越した。


 とつぜん物々しくなった家族に、私は『オーバーじゃない?』といった思いを禁じ得なかった。事態が深刻だと分かったのは義父が到着してからだ。



「ディーエム?」


 私は聞き返した。


「そう。変性性へんせいせい脊髄症せきずいしょう。通称DM。犬の遺伝病だ。アーサーはこの病気にかかっている」


 動物病院に向かう車のハンドルを取りながら、義父は言った。私は後部座席に座ってアーサーの胴回りを抱きしめていた。


「どういう病気なの?」


 恐る恐る尋ねた。


「はっきりとした原因は解明されていないようなんだが――」


 義父はいつもおちゃらけているのに、きょうは真剣なまなざしでフロントガラスを見つめていた。


「最初に後ろ足が麻痺し始める。それから筋肉が衰えて、前足が麻痺する。最後は呼吸困難で――」


「そんな」私の声は震えていた。「死ぬってこと?」


 義父は首肯した。


「私、知らなかった」


「ごめんなさい」助手席のママはうつむいたまま言った。「遺伝子検査で前もって分かってはいたんだけど、あなたに心配を掛けたくなかったの。勉強に集中してほしかったし、それに具体的な症状が出るまでは――」


「知りたかったよ。知らせてほしかったよ。そんなの心の準備ができないよ。そんなひどい病気にかかっちゃうなんて……」


「ごめんなさい」


 ママは言った。


 茶色の被毛に覆われた背中を撫でた。アーサーはハッハッと息を切らせながら、私を見上げた。顔にはスマイル。自分の運命も知らないで、健気に私に笑顔を向けてくる。神様はどうしてこんなに小さな存在に、こんなに辛い仕打ちをしてくるのだろう?




「加齢により症状が出始めたようです」


 獣医師は言った。二十代半ば頃という感じだったが、声は老人のように落ち着いていた。


「理学療法は有効ですから、運動をよくさせてあげてください。筋力を鍛えればそれだけ病気の進行を遅らせることができます。いずれ歩行補助の車椅子が必要になります」


「あの」私は獣医師を見つめた。「アーサー――私達の犬はあと何年持つんでしょうか」


 獣医師は考え込んだ。清潔な診療室に沈黙が広がった。


「はっきりとした回答は申し上げられません。リハビリをどれだけこなせるかにも関わってきます」


「知りたいの。明確な時期を」


「アキラ……」


 ママがうなだれた私の背をひと撫でした。


「辛いのはわかりますが、こればかりは。飼い主さんもお辛いとは思いますが、気持ちをしっかりとなさってください。あまり落ち込むのは飼い犬の元気も奪ってしまいますから」


 元気になんてなってられるか、そう思いながらも私は形だけ「分かりました」と返した。




 あまり食の進まない夕食の席のことだった。


「大学を辞めたい。地元で就職する。アーサーの側にいたい」


「もう、やめてよ。そういうこと言うの」


 私が決心を語ると、案の定ママは疲れたような顔を浮かべた。義父の肩に寄り掛かった。


「もういいの。人文なんて就職にもつながらないしさ。ちょうど四年になったら公務員学校に通おうと思っていたし」


「でも、大学くらいは出ておかないと」


「いいから、私のスキにさせてよ」


 私は立ち上がった。勢いよく引かれた椅子にアーサーは驚き、その身を震わせた。





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