2.魅惑のナイト
仕事終わりの私は迷わず黒のセダンに揺られて東京の街を駈けていた。
白田は私の身を案じ同行を懇願したがそれを私は拒否した。これは私への招待だ。白田さんを面倒事には巻き込みたくなかった。
運転手が信頼のおける朱音のマネージャーであったことから彼女は渋々ながら引き下がったのだ。
慣れた手つきで銀座の街を自分の庭のように車を走らす朱音のマネージャーは私に優しく語りかけてきていた。
しかし朱音との対峙を前に募る疑問と緊張感から空返事が多くなり、そんな私に気を使ってか彼の口数も徐々に減っていった。
いつしか静寂に包まれた車内は、上品なエンジン音と活気ある夜の街が織りなす音色でセンチメンタルな空間に包まれていた。
乙坂朱莉。亡き母を知る死んだはずの女。
彼女は生きており女優として頭角を見せ始めた私の存在を認知している。
いったい何故?
何のために?
考えれば考えるほど疑問と憶測が混ざり合い、私は幻想的に照らし出された夜の街から酷くくすんだ発色を浮かび上がらせていた。
ガラスに張られたスモーク加工に反射して、期待と不安の入り混じる自分自身の瞳を呆然と見据えていたとき、ゆっくりと車がハザードランプを焚いて停車した。
車内で三枝木と名乗ったマネージャーは足早に車を降りると私の乗っていた後部座席のドアをこせつかずに開いた。
「到着いたしました。葵様。これから女王陛下のもとへお連れ致します。」
開かれたドアの先にはいかにも高級感漂う洗練された風体の巨大なバーであった。arme rougeと書かれた深紅のネオン管が異質な私たちの存在をぼんやりと照らし出していた。
私は煌びやかな店内を三枝木について奥へ奥へと進んでいった。
今まで数多くの場を経験してきた私ではあったが、未成年であったためこのようなバーに足を踏み入れるのは生まれて初めての事だった。
店内の内装は赤一色で統一されており、グラスを持ち談笑する気品あふれる大人の男女がこの異質な空間を彩っていた。
私や他の客には目もくれず自身の持つワイングラスに溶け出した自分たちの世界に陶酔しきっているのが目に見えた。
ここは私を気にするものは誰もいない。
しかし、今まで経験したどの舞台でも感じたことの無い激しい緊張感に押しつぶされそうになっていた。
エレベーターに乗りバーの最上階に到着し、一枚の真っ赤な両開きの扉が現れた。私はこの奥に朱音が、このバーの女王がいることを本能的に察した。
私の前に立った三枝木が私に一礼すると両開きのドアをゆっくりと開いた。
その中には下層のバーよりより一層眩い、目を刺すような真っ赤な部屋が広がっており、部屋の中心にはひと際輝く、部屋の赤が翳むような深紅を身をまとったの目を見張るような美しい風貌の女が足を組んで鎮座していた。
間違いない。
この存在感は間違いない。
乙坂朱莉、本物だ。
彼女は生きていた。
頭には大きな羽の付いた大きなワイドブリムの帽子を被り、私が着ても到底に似合いそうもない臈長けた気品のあるドレスを身に纏って、すらりと伸びた妖艶なおみ足の先には傷一つ無い光り輝く優美なハイヒールを履いていた。
しかし、ひと際目を引いたのは目元に輝く漆黒のヴェネチアンマスクだった。
深紅の中に浮かぶそのコントラストが彼女の妖艶な魅力を一層強く醸し出させていた。
目元には黒いレースが掛かっていたものの、意図せず彼女の見えざる明眸な瞳に釘付けになってしまっていた。
三枝木に一瞥され部屋に入ると彼女の吸っていた水タバコの上品な甘い香りが重度の緊張で麻痺した私の鼻腔をくすぐった。
「女王様。お申しつけの通り葵様をお連れ致しました。それでは私はこれで失礼いたします。」
三枝木は再び一礼するとガチャリと音を立てて二枚開きの扉が閉じられた。
私は暫くの間、力強く押し寄せる彼女の美貌にただ唖然として立ち尽くすことしかできなかった。
部屋に木霊するクラシック音楽の音色を先にかき消したのはは彼女の方であった。
「こんばんは。お逢いできて嬉しいわ。お姫様。」
彼女は朗らかな笑顔で私にほほ微笑みかけた。
緊張で立ちすくむ私を見据えた彼女は続けて紅く光る艶めかしい唇を動かした。
「立ち話も難でしょう?どうぞ、そこのお椅子にお掛けになって。」
彼女が先細な顎で指し示した先には繊細で不気味なグロテスク模様の装飾をあしらった真っ青なひじ掛けソファが私を待ち構えていた。
私は恐る恐る椅子の方に向かい歩いて行き、妖しくも魅力的なソファにそっと腰を下ろした。
椅子の前には教卓ほどの大きさがあるチェック模様をあしらった、重々しく冷たい光を放つ大理石製テーブルが置かれていた。
私はテーブルを隔てて朱音と向かい合うようにこの赤の世界に弱弱しく存在していた。
そこで初めて私は重い口を開いた。
「今夜はお招きいただきありがとうございます。初めまして、姫路葵と申します。」
彼女は再び微笑むと再び口を開いた。
「初めまして、私は朱音。急に驚かせてごめんなさいね。目覚ましい活躍っぷり、凄いわね。陰ながら昔から応援していたわ。」
「昔から私の事をご存じだったのですか?」
「親友の青璃ちゃんの娘だもの。私があなたが彼女のお腹の中にいる時から知っているわ。私こそがあなたのファン一号と言っても過言ではないんだから。」
再び私の心臓が大きな音を立てて鳴り響いた。やはり、彼女はママのことを知っている。
「彼女は美しい女だったわ……こんな可愛い娘を置いて早々に立ち去ってしまうなんて彼女も罪な女だわ。」
彼女はボコボコと音を立てて水タバコを吸い上げるとため息交じりに甘い吐息を吐き出した。
彼女にに聞きたいことはや山のようにあった。しかし、最初に私の中に渦巻く一番の疑問を率直に聞くことにした。
「なぜ私をご招待してくださったのですか?」
白煙の中から黒のヴェネチアンマスクを覗かせた彼女はゆったりと答えた。
「特に深い理由はないわ。一度あなたと、今を輝く女優の姫路葵とお話してみたかったの。」
「私も元女優としていろいろとアドバイスできることもあるかもしれないって思ったの。もし嫌じゃなかったらあなたがトップ女優になるお手伝いを私にさせて頂戴。」
彼女の言い放ったトップ女優という響きが妙に重く私の心に重く圧し掛かかった。
「それに……あなたのママ、青璃ちゃんのコト。あなたにいろいろ教えてあげたいと思って。素のママの事あまり知らないでしょう?」
言葉巧みな彼女と打ち解けるに長い時間は必要なかった。女優である私たちは談笑に花を咲かせた。
ママの女優としての偉大さ、しかし素で見せるドジな一面があった事。名女優の嘗ての悩み、これからの俳優界の展望。
話を重ねれば重ねるほど彼女は賢く、堅実な人間である事が身に染みて理解できた。私は彼女の巧みな話術に完全に魅了されていた。
しかし、何故彼女が表舞台から身を引いて亡霊として生きているのか、美しい顔を投げ見せないのかといった疑問については触れてはいけない話題なような気がして聞くことは叶わなかった。
時間も忘れ話が弾んでいたところで彼女の顔に曇りが差した。
「あら、もうこんな時間。今日はもう遅いし、良ければまたいらしてちょうだい。夜更かしはお肌の大敵なんだから。」
時計が日付を跨ごうとしていることに全く気付いていなかった。
「今日は本当にありがとうございました。」
私は椅子から立ち上がると彼女に深々と頭を下げた。
「とんでもないわ。私もこんなに楽しい話をしたのは何十年ぶりだったかしら。すぐに家までお送りするわね。」
女王の住処のバーはラムルルージュ。フランス語で〝赤の涙〟を意味していると知ったのは帰路についてからの事だった。
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