筋肉隆々の格闘家一族の娘と駆け落ちしたら伝説の勇者が憑依しました

兵藤晴佳

第1話

「ほら、腕立て伏せ、あと10回! 筋肉つけて、筋肉!」

 僕の耳元で、鞭がひゅうと鳴って石の床を打ち叩く。

 それでよけいに力が抜けた身体は腹から落ちて、大きな屋敷の庭に敷かれた石の上を転がった。

 この氷の国は夏でもうすら寒いから、服は厚着でも、頬を打ち付けると結構、痛い。

 見上げた青空に輝くまばゆい太陽を、可愛らしい少女の顔が遮る。

 膝を革のプロテクターで覆ったしなやかな脚に、僕はしがみつく。

「もうダメだよ! 休ませて! ミニョン!」

 インゲボルグ家の令嬢ミニョンは、鞭を手に冷やかに見下ろした。

「こんなことで音を上げてどうするの、ビョルン! それでも名門イロンシッド家の嫡男? 伝説の英雄の名を持つ男?」

 それを言われると、ぐうの音も出ない。

 どこの誰だ、何度も祖国の危機を救ってきた色好みの英雄の名前なんか付けたのは。

 だから僕は、無駄な抵抗を試みた。

「うちは文官の家系でものを覚えるくらいしか取り柄が……」

 だが、そのひと言でミニョンの目は吊り上がった。

「何よ……聞きたくない、そんな言い訳!」

 思わず身体がすくんだけど、いったん口にした言葉は引っ込めるなというのが我が家の家訓だ。

「ミニョンみたいにはいかないよ」

 この寒いのに革のプロテクターが覆っているのは、肩や肘といった関節の他には胸と腰だけだ。

 インゲボルグ家は、1000年の間、拳ひとつで王家を守ってきた格闘家の家系なのだ。  

 ミニョンの声が、微かに震える。

「そういうのを……言い訳っていうのよ」

 その眼には、うっすらと涙が浮かんでいる。

 しぶしぶ、僕は立ち上がった。

「分かったよ……もうちょっと、頑張ってみる」 

 すると、ミニョンの顔は頭上の太陽のようにまぶしく輝いた。

「偉い! それでこそ私が選んだ人!」

 その言葉が妙に引っかかった。

「ちょっと待って! あれは、偶然じゃなかったってこと?」

 何事もなかったかのように、ミニョンは答えた。

「海賊に襲われてたイロンシッド家の船を見かけたのは、偶然よ」

「じゃあ、選んだっていうのは?」

 交易の取り決めのために海の向こうの隣国へ向かった両親のお供をした帰りに、僕の船だけが潮の加減で遅れた。

 そこで海賊に襲われたのを助けてくれたのが、ミニョンの乗ったインゲボルグ家の船だったのだ。

「もちろん、ビョルンじゃなかったら放っといたわ」

 初めて知った事実と、改めて思い知ったミニョンの性格の恐ろしさに、僕は呆然とした。

「何で……?」

 薄い胸で身体を押さえ込まれて、言葉が続かない。

 それをいいことに、ミニョンは僕の耳元で囁いた。

「好きになるのに、理由なんかいらないわ」


 うれしいと思う暇もなかった。

 腕立て伏せを拒んだ罰のつもりなのだろう、逃げられるはずもない関節技が次々に仕掛けられて、僕は悲鳴を上げる。

「ダメだ! やっぱり無理だよ! 武闘会で優勝するなんて!」

 あと一週間しかないことを考えれば、こう考えるのが常識だろう。

 だが、それが通る相手ではなかった。

「勝つのよ!そうすれば一族も、結婚を認めてくれる!」

 ミニョンは細い腕や足を絡めてくるのをやめない。

 身体も言葉も使えるものは使えるだけ使って、僕は抵抗する。

「誰が言いだしたか知らないけどさ……」

「あなたでしょ、ビョルン!」

 知らない! そんなの! 

 必死で外そうともがいたところで、指先が何やら柔らかいものに触れた。

「あ……」

「何するのよ!」

 それはこっちのセリフだ。

 どこをどう絞められたのか捻られたのか、目の前が真っ暗になる。

 代わりに聞こえてきた声には、微かに覚えがあった。


 ……やれやれ、私の見込み違いだったかな。


 誰? と尋ねても、声は言いたいことだけを連ねる。 

 

 ……お前に伝説の英雄の名をつけたのは。


 つまりは、僕の名付け親だ。

 でも、この声を、僕は何度となく聞いたことがあるような気がした。

 困ったときは、必ず。

 気が付くと、いつのまにか窮地を切り抜けているのだった。


 ……そろそろ、己の力で何とかせんとな。


 この声の主が、助けてくれたというのだろうか。


 ……お膳立てはしてやったのだから。


 前言撤回。

 あんたか! こんなこと武闘大会の優勝言い出したのは!

 だが、僕の名付け親と思しき声は、やっぱり言いたいことだけ言い残して消えていった。


 ……己を信じるがよい。明けない夜はない。


 僕の人生、夜中にしたのはあんたでしょうが!


「ビョルン! ビョルン!」

 その名前は迷惑だっていうのに。

「目を開けて……ビョルン!」

 ミニョンの声だった。

 慌てて、重い瞼を必死でもちあげる。 

 そこにあったのは、目に涙をいっぱいに浮かべたミニョンの顔……じゃなかった。

 悲鳴を上げて背中で後ずさると、黒い衣をまとった、いかつい顔の坊さんは、不愛想に吐き捨てた。

「ふん、それだけ元気があれば大丈夫じゃ」

 僧侶のラールス様だった。

 ミニョンが険しい顔で僕を叱りつける。

「お礼を言うのが先でしょう? ラールス様が介抱してくださったんだから」

 自分で絞め落としておいて何を言うか。

 だが、ラールス様は意味ありげに笑った。

「礼などいらん。代わりに……」

 僕を掴み上げると、ころりと転がす。

 何をどうしたものか、僕の服はいつの間にかラールス様の手にあった。

「持っておれ、ミニョン」

 放り出されたものが抱きとられると、ラールス様は、とんでもない行動に出た。

「ふんっ!」

 鼻息ひとつで衣を脱ぎ捨てると、胸毛も露わな筋肉隆々の身体を晒したのだ。

 ちょっと待って!

 そういう趣味があるのかこの人!

「細い身体をしておるのう……おぬしとそう変わらぬのではないか? ミニョン」

 毛深くも逞しい腕が伸びてくる。

 止めて! 止めて! お師匠様を!

 だが、その弟子は、うっとりと返事するばかりだった。

「はい……だから私……」

 僕の服に顔を埋めてないで!

 大丈夫か、この師弟!

 あまりのことに頭が真っ白になったところで、僕の目の中では天地がひっくり返った。

 やられた。

 背負い投げだ、と思ったときだ。

「……見事じゃ」

 石の上に転がされていたのは、ラールス様のほうだった。

 ミニョンが僕の服を投げ捨てて、しがみついてくる。

「やっぱり、私のビョルンだった! 私の選んだ人!」

 それを見上げながら、ラールス様は言った。

「ビョルン殿、ワシがここに来たのはな、おぬしをしばらく足腰立たぬようにするためだったのよ……不慮の事故ということにしてな」

 そっちのほうがよかったかもしれない。

 何があったか知らないが、分不相応な巨体を投げた僕の足腰も限界を超えていたのだ。


「いけませんな」

 そこに現れた人影を、ミニョンは厳しく叱りつけた。

「見てなかったの? さっきのを」

 ときどき様子を見に来る、インゲボルグ家の執事は、冷たく言い放った。

「何も。この目に見えるのは、ラールス様と組み合って、立つこともままならぬビョルンさまのお姿だけ」

 そこへ、ラールス様が割って入ったが、執事は聞かなかった。

「おおかた、ご自分が負けたとおっしゃりたいのでしょう。ですが、お弟子のミニョンさまをかばってのお言葉が通るのなら、武闘大会などと申す試練はいりますまい」

 ミニョンは、ちらりと僕を見やった。

 だが、自分でも何が起こったのか分からないのだから、主張できることは何ひとつとしてない。

 僕が黙っているのをどう誤解したのか、ミニョンは言った。

「ビョルンは勝つつもりよ。勝って、伝説の勇者の名にふさわしい男だってことを証明するつもりなのよ」

 話を盛らないでほしい。

 ミニョンが本人に無断で吐き散らした大言壮語に、執事は慇懃無礼に答えた。

「ビョルン殿の胸板がラールス様ほど厚くなるには、あと数年はかかりましょう」

 ミニョンも負けてはいない。

「何年も後の筋肉なんて関係ないわ。そうなってはほしいけど……武闘会は来週よ」

 そっちも勘弁してほしい。

 だが、執事は眉ひとつ動かさずに答えた。

「それなりの身体を持っていない者を闘わせて、将来を閉ざすのはインゲボルグ家の望むところではありません。武闘会の前にお帰りを願います」

 そこで、執事の後ろから、ぞろぞろやって来る者たちがいた。

 どの顔にも見覚えがある。

 そのひとりひとりを見渡して、執事は異口同音にこう言った。

「ビョルン殿も、お帰りくださいませ。覚えるのがお役目の文官としてお育ちになった、そのお身体では、ご両親がお許しにならないとのことです」

 僕は答えもしなければ、立ち上がりもしなかった。

 精一杯の抵抗だったが、イロンシッド家の使いがぞろぞろ集まってきて、身体ごと持ち上げにかかる。

 だが、それを大音声を上げて叱りつけた者がいた。

「控えよ! ならばこの身体、武闘会までの間、このラールスが預かろう! この筋肉、相手が何者であろうと見劣りせぬまでに鍛え上げてみせようぞ!」

 そういう問題ではないと思うのだが、なぜかインゲボルグ家の執事も、イロンシッド家の使いも、何も言わずに引き下がった。


「さあ、ここなら誰にも邪魔されないわ」

 屋敷から遠く離れた、山奥深くの小屋でミニョンは僕の目を見て囁いた。

 夜中に両家の目を盗んで、手に手を取って逃げてきたのだ。

 いわゆる駆け落ちというやつだ。

 もちろん、そこにラールス様の手引きがあったのは言うまでもない。

「うん……そうだね」

 僕は目を逸らしながら答えた。

 ラールス様はああ言ったけれど、6日や7日で筋肉隆々の身体になるわけがない。

 小屋の隅で手ぐすね引いて待ち構えられても困るのだ。

 だが、意外にラールス様は話の分からない坊主だった。

 いざとなれば方法はあると言って聞かない。

 その手には何やら恐ろしげな鎖やら鉄球やら。

 壁にはハンマーやら滑車やら……。

 そして、ミニョンは師匠の教えに絶対服従の弟子だったのだ。

 恐るべし、格闘界の師弟関係。

 その声と身体は、未来を信じ切った気迫に満ちていた。

「さあ、参りましょう。私とビョルンのための、特別な7日間を」

 ただし、特別とはいっても思うところは全然違う。

 次の朝から、夏とはいえ空気の凍てつく高山での走り込みが始まる。

 水は山の麓の川から、瓶いっぱいの水を両手に提げて運ばされる。

 そうじゃないときは、立ったり座ったり伏せたり、膝や肘の屈伸に時間が費やされる。

 ちょっとでも気を抜けば倒れそうになる。

 ミニョンはというと、僕の隣で同じことを嬉々としてやっているが。

 ……気力を保つことができたのは、そのおかげだった。

 だが、ものには限度というものがある。

 6日目の日の夜を迎えたとき、僕はとうとう意識を失った。


 どこからか、聞き覚えのある声がした。


 ……ビョルン。


 僕の名を呼んでいた、と思った。


 ……剛勇のビョルン。


 違う。それは伝説の英雄の名前だ。


 ……我が名を冠する者。


 いや、僕だ。僕を呼んでいる。


 …その身体、しばし借りるぞ。我が力、存分に使うがよい。


「ビョルン! ビョルン!」

 どっちの名前だろうか。

 僕か、伝説の英雄の名前か。

「目を開けて……ビョルン!」

 僕の名を呼ぶ、ミニョンの声だった。

 慌てて、重い瞼を必死でもちあげる。 

 そこにあったのは、目に涙をいっぱいに浮かべたミニョンの顔……じゃなかった。

 黒い衣をまとった、いかつい顔の坊さんは、僕の前にひれ伏した。

「ようこそお越しくださいました、剛勇のビョルン様!」

 わけが分からないまま、麓から両手の瓶いっぱいに水を汲んだが、山のてっぺんまで易々と運ぶことができた。

 ミニョンは、大喜びで僕を出迎える。

 ラールス様は、得意げに言った。

「申したではありませんか、いざとなれば方法はあると」

 何でも、選ばれた者に、英雄の魂を降ろす術らしい……まともな坊主だとは思っていなかったが、ここまでとは。

 ふたりが狙っていたのは、これだったのだ。

 恐るべし、格闘界の師弟関係。

 

 ラールス様は、僕たちを残して先に帰った。

 駆け落ちのせいで、インゲボルグ家もイロンシッド家も大騒ぎになっていることだろう。

 両家をなだめて、武闘会には帰ってくると伝えに行ったのだ。

 僕たちは、その夜、ふたりきりで焚火を前に夜を明かすことになった。

 ミニョンは、炎の向こうで僕に尋ねた。

「勝つよね……ビョルン」

 はっきり言えば、まだ自信はなかった。

「それは、どっちに聞いてるの? 僕? 伝説の英雄?」

 からかい半分にごまかす。

 意地悪、とつぶやいたミニョンは、聞き返した。

「じゃあ、そこにいるのはどっちのビョルン? 意気地なしのほう? それとも……」

 立ち上がったミニョンは、そこで服の襟に手をかけた。

 慌てふためく僕の前で、炎の向こうのミニョンは生まれたままの姿を晒した。

「……色好みの英雄のほう?」

 胸こそ大きくはないが、まるで女神の彫刻のような美しさに、思わず息を呑む。

 そこへ、ミニョンはしなやかな脚で高々と炎を跳び越えてきた。

 僕はその身体を抱きしめて囁いた。

「負けやしない」

 ミニョンは答えた。

「そんなの、どっちだっていい。私はもう、ビョルンのものだから」

 僕は自分の服を脱いで、ミニョンの肌を隠しながら囁いた。

 負けやしない、と。


 次の日、僕はミニョンを伴って、武闘会ぎりぎりにインゲボルグ家へ駆け込んだ。

 武闘場の門となっているガーゴイル像の下で出迎えた執事は、僕をじろじろと眺めた。

「そのお身体では……」

「これでも?」

 拳を叩きつけられたガーゴイル像は、粉々になる。

 執事は目を見張ったが、咳払い一つして答えた。

「結構でございます。修理の費用は、イロンシッド家に回すということでよろしいでしょうか?」

 それでいい、と言い残して、僕は筋肉隆々の男たちが力と技を競う武闘場へと駆け込んだ。

 勝者に挑戦した僕の貧弱な身体を見て、会場は失笑に包まれた。

 対戦相手を倒して勢いに乗った勝者は、バカ丁寧に挨拶する。

「イロンシッド家のビョルン様、お相手はいたしますが、少しでも痛いとお思いになったら、どうか降参なさって……」

 みなまで言わないうちに、手のひと振りで吹っ飛ばしてやる。

 静まり返った会場に、僕の声が響き渡った。

「さあ、次は誰だ? イロンシッド家のビョルンが相手になってやる!」

 我に返った男たちが、次々に挑戦してくる。

 だが、伝説の英雄、「剛勇のビョルン」の相手ではない。

 国中から集まった豪傑たちは、片端から投げ飛ばされ、絞め落とされていった。

 勝利を確信した僕は、興奮して叫んだ。

「さあ、次は誰だ!」

 しばしの間、会場は沈黙した。

 名乗り出る者は、もういない。

 やった……と思ったときだった。


 ……この身体、そういつまでも借りてはおれんでな。


 伝説の英雄の声が聞こえた。

 全身にみなぎっていた力が、どっと抜ける。

 あれ、と戸惑う間もなく、静かな声が上がった。

「では、私が」

 執事だった。

 意外な相手にぽかんとしていると、瞬く間に目の前へと迫っていた。

「そう簡単に、お嬢様を奪い取れると思いなさるな」

 ふわりと、身体が宙に舞う。

 やっぱりダメだった、と諦めかかったときだった。


 ……後は、己を信じるがよい。


 足は自然に地面を踏んでいた。

 伝説の英雄「剛勇のビョルン」の戦い方を、身体が覚えていたのだ。 

「なめるな、文官の記憶力を!」

 そこへ、旋風のような蹴りが襲いかかる。

 思わず身体をすくめると、頭の上をかすめていった。

 とっさに軸足へしがみつくと、執事は難なく倒れた。

 立ち上がろうとするところへ、足を絡める。

「筋肉なんかなくてもな……」

 散々、ミニョンに掛けられた技だ。

 どこを固めればいいかは、痛い思いをしたから、ちゃんと分かっている」

「頭を使えばいいんだよ!」

 込める力は僅かでいい。

 かつての僕のように、執事は呻いた。

「……参った!」


 こうして、インゲボルグ家とイロンシッド家の許しのもとに、僕とミニョンは婚礼の式を挙げることができた。

 誓いの儀式を執り行ったのは、もちろん、ラールス様だ。

 初めてミニョンと唇を重ねたとき、インゲボルグ家の男たちからも歓声が上がった。

 やっぱり暑苦しい、と思ったときだった。


 ……そう言うな、我が名を与えし者よ。


 そのときはまさかと思ったが、後に家督を継いだ後、家の記録を調べてみて驚いた。

 

 《剛勇のビョルン、嫡男誕生の祝いに現れ、その名を与えたり》


 この世を去ったあとも、つかず離れず僕を見守り、こんなお節介まで焼いていたというのだろうか。

 首を傾げる僕を、妻となったミニョンは、傍らで見つめている。

 その眼差しは今でも、あの炎の向こうから見えたのと変わらない。

「逞しくなったね、ビョルン」

 耳元で囁く声に、そうかな、とだけ答えておく。

 身体の中に感じる筋肉とは別のものが何なのか、僕はまだ言葉にできないでいた。

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