ホオズキの羽根

殿塚伽織

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 覚えているか、と問われ、ただ頷けば充分な答えになる。それ以上先の科白は要らない。何を、と尋ね返す必要もなく、言葉を交わす時そこには暗黙の了解が存在している。元々問い掛けですらなく、お互いにまだ忘れてはいない事実を、いや事実が未だ存在しているかを確かめる為だ。

 忘れられよう筈などない、そんな思いを確かめ合う意図もあるかもしれない。昨日のことというよりは一時間前の、或いは十分も経っていない出来事であるかのような記憶だ。床の揺れが止み、どうやら列車が停まったらしいと認識できる。夜も更けている為に車内放送はなく、駅の名前は判らないが所詮、どうでもいい些末なことだ。

明日の朝になれば次の目的地へと否応なしに辿り着く、辿り着いた何処かの町でまた自分の姿を、衆目に見せるのみである。望んだ訳ではない、進んで為したこともない。ただ晒し者へと身をやつさなければ生き長らえはできない、それが唯一の生きる術だと思い知らされ架耶(かや)は久しい。

 目の前の炯至(けいし)や叡我(えいが)も、その隣で頬杖を付いたまま舟を漕いでいる恭比(きょうひ)も、皆が例外なく判り切っている事実だろう。釉月(ゆうづき)も今は傍らで夢の途中だ。今更言い出さねばならぬようなものではなく、孤独を知った夜を覚えているか否かなどと、繰り返し確認し合うのも本来は愚挙だ。ならば何故口に出すのか、その答えは習慣だからに過ぎない。

 町から町に移動する列車、時によってはジープやトラックの荷台となることもあるが、決まって炯至はそれぞれの昔を思い出させんとする。そうすることで訪れる明日、間違いなく射られてくる何十、何百もの白い瞳に対する恐怖を和らげさせた。

諦めてはいるがいつまで経っても慣れぬ現実に押し潰されないよう、あの時はひとりだったが今は皆がいると、半ば自分を誤魔化し、慰めるかに言い聞かせた。特に約束もなく、無言のうちに為された取り決めごとだ。

 移動は毎日のように夜のうちであるから、炯至の姿は窓からの月明かりに照らされ、時刻の割にはよく捉えられた。普通の人間とは異なった特徴を持つ顔も視界に映る、しかし同情などは微塵もない。

やけに長く停車していた列車もようやく動き出し、背凭れに寄り掛かりながら覚えているかと、彼は口にする。架耶は首を縦に振り、低く流れた汽笛を聞いた。


 到着するのはいつも朝早い。

 出番を全て済ませた後の月や星の光の下、もしくは暗闇に近い中で身の回りを整える。そこから出発すれば夜一杯は、移動のみに費やされる恰好だ。

もっとも、終幕時刻が遅く設定されている節はある。どれだけ閑古鳥が鳴いていても、殆ど観客がいない状況であっても八時より先に、撤収を始められたことはない。しかしそれも当然の話ではある。少なからず人通りのある駅に押し掛け、余計な騒ぎに発展でもしようものなら現地側と当方側の双方に、面倒が増えるだけだ。 

 困る理由はお互いに異なるのだが。とりあえず不要な注目を浴びるのは自分たちにとっても、愉快でなく本意でもない。奇異な視線の塊にはいい加減慣れもした、とは言え「仕事」以外では浴びたくもない。その為には大人しく従うふりをしているのが今はまだ最善の道だ。

必要以上、必要以外の白眼を受けたくないだけではない。冷ややかな囁き合いや好奇に溢れた叫びを聞きたくないだけでもない。

ただ、命じられるままに町から町を渡り、生きる為だけに自負も捨て去り仕事をこなし、終わればまた次の地へと向かう。場合によっては見世物櫓や小屋を自分たちで組み立てもする、ただし今日についてはどうやらその必要もないらしい。

陽が昇るか昇らないかのうちに列車が滑り込んだ無人駅、そこから更に徒歩にして三十分程の距離にあるのが今日、明日の滞在地だ。山あいというよりや山の入り際に位置する村は、一歩足を踏み入れたところから飾りが施されている。通りには赤や紫、緑の麻紐がたわみつつ張られているようだ。

 家々の玄関には花輪が置かれ、華やかな町から裏離れた農村とは些か、繋がりにくい感のある光景と言える。しかし架耶たちにとってみればさほど、珍しいものでもない。成金の悪趣味な娯楽、地方権力者の暇潰しや施政者への胡麻すりなどの目的に利用され呼ばれることも多いがそれと同じ位、イベントに合わせた依頼も多い。

 この土地を訪れる直前に留まっていた町では町長の父の誕生日が祝われており、更に遡った場所では特産の苺が例年にない豊作ぶりとのことで、その幸いを神に感謝する祭とやらに駆り出された。この村でも豊饒を祈る行事が催されるらしい。遠目に村の影が認められ始めた段階から既に恭比は飽きた面差しをしており、荷物を抱えた叡我の腕も多少、重さに負け下がっているようだ。

 炯至に及んではまたかと、舌打ち交じりに漏らしている。勘弁して欲しいよな、いつも同じような所ばかり連れ回してさ、皆を見回しながら口にできるのは、今周囲に仲間以外の人間が認められない為だが。

少しばかり奥へ入った先の広場の片隅、あり合わせの木板を組み合わせただけの小屋には風通し以上の隙間が見て取れる。バラックにも近い印象だ。これでは難なく内部を覗けてしまうというもの、しかしそれが狙いだとの可能性も否定できない。斜め後ろに付いてくる釉月の方を振り向いてみたが、気付いているのかいないのか彼女の鳶色の瞳に変化はない。

 架耶の眼差しについてはやがて悟ったようで、首を傾げながら見つめ返してきた。十五辺りらしい年頃を勘案してもあどけない、こういった拙い仕草が放っておけない気分にさせるのだが、ひとまずは二、三度かぶりを振ってやる。とある瞬間、なあと矛先を向けてくる声を聞き炯至を見遣った。

「何だよ、聞いてなかったのか?」

「ごめん、ちょっと」

「しょうがない奴だな」

 深々と溜息をこぼし、いかにも呆れた風である。誤魔化すように架耶は笑みを浮かべてから再び釉月を、しかし今度は盗み見るようにする。他人の目を意識する度合いが相当に強い少女らしいと、十年近くも共に旅をしていれば理解できている。とは言え仕事中、その傾向が濃厚に現れることはあまりないようだから、懸念すべき程のレベルではないのか。

 それに幾ら深刻に考えたところで、無意味でしかない話だ。視線を避けられないのは紛れもない事実である。顔を戻せば肩を怒らせ進んでゆく炯至がおり、その背を追えば広場の出口、杭へと腰掛けるようにしている青年の影が捉えられ始める。

脇を歩く恭比の生唾を飲み込む音が空気を伝わり、団長、と呟かれた声もあからさまに掠れた様相だ。その動揺にはやや驚くが彼の長身を目撃した刹那生まれる、心の臓を竹串で貫かれるかの痛みには架耶もまだ、慣れてはいないのだから五十歩百歩か。

 まずは炯至、それに続き叡我、架耶と釉月はその次だ。いつしかひとり遅れていたらしい恭比がようやく追い付く。五人全員が揃ったところで体を起こすと、背を向けるや否や全身を黒い服で包んだ相手は歩を進め出す。

迷う様子は微塵もなく、一方急いた感じも表さずに先頭を歩きながら「団員」を振り返ることもない。あれだけ不平を漏らしていた炯至も吐息すらつかぬまま、遅れないようにと足を動かせば数個の角石が積まれた門へは、じき着いてしまう形だ。

 周囲の家がすべからく粗末なものとの訳ではないが、それとは比較するまでもなく村一番の立派な家屋だと知れる。しかし躊躇うことなく彼は敷地内へと入ってゆき、竹箒を忙しげに掃いている青年に向かい呼び掛ける。

「申し訳ない」

 恰好からするに使用人か、青年は手を止める。一瞬ひどく瞳を瞠り、それは眼球が飛び出し落下するのではとの面差しだ。声を発してきた。

「お祭りに、来てくださった皆さんですね? 話は村長から聞いてます」

「その村長殿に、お目通り願いたいのだが」

 お言付け願いたい、と続いた口調は丁寧で、しかも淡々としたものだったのだが青年は慌てた風で頷く。弾かれたように駆け出した。

庭園らしき方へと向かっていったのはそちらに縁側か、或いは勝手口でもあるのだろう。足音が消えてより間もなく十メートル程前方の玄関、扉が右へと開かれ人影が現れる。

「ようこそおいでくださいました」

 歩み寄ってきたのは半ば以上が、銀髪となった初老の男性である。

「お忙しいところ、朝早くに申し訳ありません」

「いえいえ、私たちが無理を言ってわざわざ来ていただいたのですから。できることなら何でもさせていただきますよ」

 笑みを浮かべた顔、特に目尻と頬辺りには深めの皺が染みと共に刻まれている。人の良い人相を示しながらも合間、密かに注がれる視線、帯びた嘲りに対し憤りなど生まれはしない。

架耶は愛想笑いを顔へと張り付かせ、他の四人もまた同じような表情をしているのだろう。見掛けだけは和やかな雰囲気の中で、そちらの皆さんが団員さんたちですかな、との声を耳にする。

「ええ」

 返答の前、ややの間が挟まれる。それは為された質問が、あまりに判り切った内容だった所為か。見世物の役に立つ者でなければこんな遠方まで、手数を掛け連れてなど来る必要はない。音読し説明するまでもないことであるが故に、却って取って付けたような印象は否めない。

彼はともかくとして、引き連れられた皆は一様に思っているに違いなかった。一目見るだけでもう、そんなことは始めから知れているだろうに、と。

「それはそれは、夢見た以上に楽しみなことですな。本当に御伽話そのままだ」

「恐れ入ります」

 口調は平坦であり、言葉面とは異なりかしこまっているとは聞こえない。

「この者たちに夜露を凌がせる為の場所ですが」

「ああ、勿論準備させていただきましたよ。案内させましょう」

 村長は顎をしゃくるようにして合図を示し、それを受けたのは先程と同じ青年だ。物陰から様子を窺ってでもいたのか即座に姿を見せ、こちらへ眼差しを向ける。まじまじ、といった形容句がいかにも似つかわしい風であり、特に釉月と叡我に向けてきているのは凝視に近いものだ。

叡我は慣れたもので、気を滅入らせる風などかけらもなく荷物を抱え直してなどいるのだが、注目を呼ぶ割に人見知りの少女の方はそう上手く運ばない。左肩、その辺りから柔らかく下がった白いものを隠そうとでもするかに、架耶の後方へと移動する。

 おそらくは顔だけを、しかも半分だけを覗かせているのだろう。朴訥とした青年の顔色は急速に朱へと染まる。見つめられ返された所為か、或いは「客」へと失態を働いたことを悟ったからか。

浮かんだ羞恥心を紛らわすように激しく頭を掻き、短く刈られた髪を乱している。陽によく灼けた、小麦色とのよりは焦げ茶に近い色の腕を下ろすと照れ臭げな笑顔になり、「どうぞ」と身を翻す。付いてこいとの意味だろう。

着く先々で繰り返される情景はあたかもデジャ・ヴだ。促されるままに場を離れる背後ろで、会話は変わらず続けられているらしい。何と呼べば宜しいですかな、との村長からの問いに、カラスで結構です、との抑揚のない声が返る。

目的地までの途中、浴びせられるのは興味津々とした視線の数々だ。予想通りではあっても全く平然と過ごすのは難しく、瞳を伏せながら架耶は歩く。釉月と繋いだてのひらへも知らぬうち力が籠もり、少しばかり発汗してきたようにも思える。

 低く交わされ合う微かな声も風に乗り聞こえてくるが、話の内容までは届かない。大小の砂利が敷き詰められた道を抜け、終点らしい神殿までやってきたところでねえ、と高い声色が投げられてくる。

顔を上げたが影はなく、眼差しをずらした先には幼い少年が立っている。振り仰いでいる先は炯至だ。

「お兄ちゃん、ねえ、神さまのお使いなんだよね?」

 少し舌足らずな風で言う。二歳か三歳と言った位だろうか、まだ肌の色は白い。

「だからそんな、お空に耳向けてるんでしょ? ちゃんと神さまの声が聞こえるようにって」

 心底嬉しげな顔で発されてきた科白に、休みない足音が重なる。母親だろうか、慌てて駆け寄ってきた若い女に抱え上げられると、じゃあね、神さまによろしく言っといてねと、あどけない声の余韻だけを置いて連れ去られてしまった。

残された炯至は唖然としている。神の御遣いなどと称される経験が殆ど、今までなかった所為に違いない。普段であればそのネーミングは釉月の役回りであり、興奮し騒ぐ子供の姿を端から胡乱に眺めている立場の筈だったのだ。

 案内役の青年も、じゃあこの裏でお願いしますとの言葉と共にいつしか立ち去ってしまう。神殿には自分たちだけが佇んでいる恰好だ。正面を見ると果物や野菜などが並べられた祭殿が、整然と設けられている。

その後ろへと回れば雑草の生い茂った中、禿げ山の如くに赤土の晒された部分がある。軽く掘り起こされてもいるらしい様子からして草が刈り取られ、まだ間もないようだ。

 ここを宿泊場所にしろとのことだろう。手にする荷物の奥からテントを引き出した叡我に、ようやく平常心を取り戻したらしい炯至がフックを打つ場所など、細かく指図し始める。

ややの間見飽きる程の光景を視界へと映す中で、少年に指摘された彼の尖った耳を何とはなしに見遣る。ふと自分の頭に伸ばした右の人差し指の腹に、硬く尖った先が触れた。


 祭は昼の二時から始まる。実りの神は太陽の光を纏った舟に乗り降り立つとの、この地方に言い継がれる伝承の為だ。村人たちは忙しなく辺りを走り回っており、汗が空気内に飛び散らんばかりである。

神殿の敷地内は騒々しい雰囲気に包まれているが、却って団員たちにはするべきことがない。招かれた側が準備に携わる義務はなく、また状況を理解しないままで役立つ働きができる筈もない。それ以上に、既に「仕事」は始まっていた。

 広場へと設けられた例の仮小屋に全員は集まる。仮と表すからには耐久性に乏しく、また三メートル四方程の小さなものだ。詰めるのは一人ずつの当番制であり、恭比に引き続いた叡我が今の出番である。

ややの空間と隙間ばかりの板一枚を隔てた向こうからは上機嫌な喧噪が漏れ聞こえ、時折には幼い素頓狂な声も飛んでいる。頑丈な体付きを備えた、所謂大男にも近い風体だが親愛的な性格を持ち、特に小さな子供と見ると瞳を細める叡我にはそんな喚声も、さほど苦痛ではないのかもしれない。晒し者には楽な性質、とは炯至の言だ。

 叡我だけではない。ただ留まっていればよいというのは他の四人からしても、まだ救われた状況なのだろう。控え所として準備されたあずまやで、木目の黒々と浮き出た六本のうち一本の柱に、背骨を預けつつ架耶は思う。

気のない眼差しの先には釉月がおり、何やらてのひらを動かしているようだ。毎日旅から旅の繰り返し、移動に次ぐ移動では新たな出し物を編み出し、身に付けるべき暇などない。

 同じく指を差されるなら何もせずにいる方が、溜まる疲れも少ない。浅い芸もせず、ただ小屋の中にいるだけで許される状況は、まだ幸せな方なのかもしれなかった。

出会うのは千鳥足で胡座を掻く泥酔途中の客、彼らが何かやれと眼前で張り上げる雑言程度だ。数日前、辿ってみれば八日前だったか、投げられてきていた科白を思い起こし小さく息をつく。

視線を向けた釉月が持っているのは黄色い花で、薄い緑の茎を指の腹につまみ、もてあそぶようにしている。どうしたのと、口にしかけてやめた。

ちょうど逆を見たところで、こちらを注視している炯至に気付く。何処か退屈げとも思える顔を僅かばかり緩め、そうして傲岸な笑みを浮かべたらしい。

「早く出なきゃいけないよな」

 抑えるでもない声で言う。仕事へという意味ではない。

「聞かれるわよ」

「平気さ、聞こうとしたってこんな五月蠅い中じゃ聞こえるもんかよ」

「もし聞こえたらどうするのよ」

 架耶の方は咎める言葉を、潜めるようにして発する。意識外で更に声色が低くなった。

「ああ、あんなの別に怖かないさ」

「何ふざけてるのよ、やっと痕も消えたのに」

 眉を寄せた架耶に、しかし炯至は表情を動かさない。却って悠然さを強めてきた風すら漂わせつつ、顎を心持ち斜へともたげる。

「やられる時は何やってもやられるんだよ」

「それはそうかもしれないけど、でも」

 言い募ろうとした上を、継がれる声に遮られる。

「そこまで気にするのなら準備始めておけよ。そろそろ叡我も終わりそうな頃だしな」

 再起不能にでもされたら逃げられるものも逃げられなくなるぜ、発された軽い調子は、小馬鹿にしているとのよりは楽しげな風に近い。屋根に邪魔され視界に捉えられない太陽の代わりにあずまやの周り、濃茶の土へと架耶は眼差しを投げた。柱の影は先程より心持ち、伸びたように見える。

確かにそれ相応に時間は経っているらしい。漫然とした仕草で身を起こし、深呼吸と共に心を落ち着かせた。ふと釉月と目が合い、小さく微笑んでみせる。

 それ以上は何も口に出さず、外に出る。目と鼻の先とまでは行かないが、人目が気になる程に小屋まで遠い訳でもない。小走りになれば一、二分足らずの距離か。

ひとりだけ姿の見えずにいた恭比は神殿の陰へと座り込み、饅頭を貪っている。観客の村人からほどこしとばかりに、投げ寄越されたものだろう。視線を上げてもこない脇を無言で擦り抜ける。

道端でしゃがんだ膝を突き合わせている赤や金の髪の色をした少年たちの傍も、少し距離を置きつつ通り過ぎた。一見して掘っ建て小屋と見えた作りは勝手口も貧相で、板の一枚も剥がれ落ちずにいるのが不思議な位である。建て付けもよいとは思われないが、少なくない観客を内に引き入れておきながらも壊れずにいるのは、村で培われた技術の賜物なのか。

 或いは見た目の危うさもまた演出の一環なのか、考える間もなく到着する。興味に溢れた周囲の眼差しを見ないようにしつつ、小屋の中へと入ろうとしたが感じた鈍い電気にその動きを止める。不穏ともできる気配について探る必要もなく、振り返った先の木陰からは鈍色の瞳が自分を見据えてきている。

 低い声は、こちらの名を呼ばない。ただ無感情な視線により無言のまま、向けられた意思を架耶に悟らせる。

「お疲れ様です」

 言い慣れた挨拶も自然と口からこぼれる。とある瞬間に別の空気の流れを感じ取った。仕事を済ませ裏口から出てきた叡我の存在を悟り、知らず強張ったままの顔を向ける。

「次は架耶なんだね」

 一方で話し掛けてくる叡我の声は柔和で、棘がない。元々あまり直接的な物言いをしない傾向の彼だが、いつもにも増し控えめな風だ。

「うん、そう」

 辛うじて視線を投げる。

「じゃあ僕は先に戻ってるよ」

 叡我もまた屈託なく笑い、あずまやの方へと歩いてゆく。一歩を踏み出そうとし、架耶は半ばだけ後ろを向いた。残りは瞳の動きのみで再び銀杏の樹を見遣ったが繁る葉々の下、黒髪の人影はない。いつの間に立ち去ったのだろうか。

 足音などは特段聞こえなかった。或いは祭の賑やかしさに掻き消されてしまっただけなのか、考えるうち不意に周りの騒がしさが耳へと届き始める。仕事には急いで就かなければならない、でなければひどい罰を加えられてしまう。

入った小屋の内側は雑踏にも似た様相でざわついているようだ。しかし観客の前方を覆うようにして設置された幅広のついたての所為でそれが十人程なのか、二十人以上も押し掛けているのか明確には判断できない。

軋む舞台の上、静かに進むと中央に置かれた檻に入る。そこへと身を収めた。伸ばされてきた村人の手により両手首、及び両足首を麻縄で縛られる。

「次に現れるは鬼か悪魔かそれとも神に背いた果てか、角を生やした少女の登場だ」

 上手から流れる、立て板に水を流すかの声には記憶がある。確か村長の家で出会った、使用人たる少年のものだ。口上と同時についたては取り払われ、黒々とした頭の山が見渡す一面に出現する。

さざめきはしばしの後に騒々しさ、驚愕に満ちた姦しさへと姿を変える。それは出番の度、例外なく接するシチュエーションだ。発される子供の喚声、これ見よがしな小声の交差さえも、集えばすなわち喧噪となる。

逃れる術のない何十もの視線を、少しでも感じずにいられるようにと架耶はやや上方に向け、視線を移した。頭部の突起を多少、捉えられにくくさせる仕草でもあり、長く辛い時間をやり過ごす気休めにもなる。

 加え、不遜な様相を示してみせることは、観客を喜ばす媚びにもなると知っていた。手足をくくった縄はさほど強く結ばれていない筈だが、ささくれ立った麻は肌へと突き刺さる。やがてついたては元の位置に戻され、同時に無数と思われた瞳も視界から遮断される。

縄が解かれたところで檻を抜け、そのまま見世物小屋を後にした。未だ車座のままでいる少年たちの脇を、やや赤らんだ手首をさすりつつ通り抜ける。待合所から出てきた炯至は右手を合図のように挙げてきた。

 あずまやでは充分に腹ごしらえを済ませたのか、恭比が仰向けの無防備な恰好で眠っている。その傍に座った架耶に、お疲れ様と声を掛けてきたのは叡我だ。

「うん」

 座っているだけで構わないと言っても見世物でいる、物言わぬオブジェと化すのはそれだけで、精神的に苦しい。完全に意識から拭い切れてはいない興味津々な眼差しが脳裏に甦り、反射的に瞳を閉じ深々とした息を吐いた。にじるように寄ってきた釉月は心配げな眼差しでこちらを見つめ、てのひらを包み込んできたがそんな彼女も、炯至が帰れば件の小屋へと入らなければならない。

ようやく五人ともが出番を終えた頃には陽射しも色濃い紅に色付き、黄昏にまで足を踏み入れている。神殿を飾った提灯に火が灯され、囃子も聞こえ始めたがその賑やかさは、もはや自分たちとは関わりないものだ。あずまやからテントへと場所を移し、ようやく気の置けない時間が訪れる。

「本当にごめんなさいね、主人の我儘にこんな田舎まで付き合わせてしまって」

 後を追うかのように現れたのは、四十代程と映る女性だ。科白から考えるに村長の妻辺りなのか。吊り目気味の瞳を更に細め、人の良さそうな口調を掛けてきながらもひとりひとりの面持ちを露骨に探ってきている。大して用意もできないけどゆっくり休んでくださると嬉しいわ、気取り気味の声色を発すると抱えたひつを残し、立ち去り際にも振り向くのを忘れない。

 ひつを開けるのは恭比の役目だ。というよりも食物の匂いに瞳を輝かせた彼より先に、行動できる者は存在しない。蓋を取った中にはやや冷めた野菜の煮物や鶏の唐揚げ、木の実と山菜の和え物などが詰められている。少なくない量ではあるが皆がそれぞれに口へと運べば、半時間も経たず香りだけとなってしまった。

 三分の一近くは恭比の腹の中へと収まった訳だが。外見と同様食の細い釉月はまだしも、大柄な叡我の空腹が満たされているかどうかは疑わしい。仲間内で最も摂取量を必要としている筈なのだが小鳥を見守る母鳥のごとくにさほど、今日も食べていないように思える。

一方で差し入れをすっかり堪能したらしい恭比は身を反らせつつ二、三度上腹を軽くさする。テントの外へと跳ねてゆき、その背中に向けこぼしてしまった微かな吐息の音は、不意に上がった叫びに遮られ消える。

何ら前触れのないものではあったものの団長、との声に飛び出す架耶の視界へと、映ったのは立ち竦む恭比の濃茶の髪だ。へたり込んだ体勢により高度を下げている頭を越えた先には、漆黒を纏った若い男がいる。

 架耶にはおろか、続いて姿を見せた他の三人にも構うことなく右腕を振り下ろす。風が裂かれる音の一瞬後、恭比の肩が鋭く鳴る。

時を同じくして絶叫が空気を切り裂く。釉月が顔を押し付けてきた感覚を架耶は腰の辺りへ感じた。

「こいつが何を」

 平静さを装い炯至は問い掛けるがその声が、震えているのは明白だ。カラスは腕を一旦止め、冷めた瞳を向ける。

「御客様を睨んだらしいな」

 タイミングからすると返答のようではあるが、炯至ではなく恭比に対する科白のようだ。

「身の程を知らぬ愚か者には身をもって理解させる。利用されるしか能のない立場をな」

 言い終わるや否や、カラスは再び右腕を素早く振る。手にした革の鞭は恭比の首筋で弾け、俯せに倒れ込んだ背を更に打つ。既に声の体を成さない掠れた断末魔が上がり、しかし制裁はかけらの躊躇も帯びない。

 尋常ではない悲鳴を聞き及んだ野次馬が数人、遠巻きにこちらを眺めてきている。許してくださいとの微かな呻きにも、カラスは一切耳を貸さない。相手の服が裂けるのも、その布に血が滲むのも構わず、無表情を崩さぬまま腰を、腕を休むことなく打ち据える。

遂に縋り付いてきた釉月の体を、膝を落とし強く抱き締めながらも架耶には、彼女を安心させるべき言葉を発せられない。誰にも何ひとつ口になどできないまま、渇いた破裂音は恭比が意識を手放すまで続けられた。


 キメラという言葉がある。

 神話内登場する怪獣から生まれたというこの単語は、本来異種同士を掛け合わせたことにより人工的に作られた個体を指す。学術上、特に生物学上において論議することの多い単語の筈だが、それが市井の口を通し語られる場合にはまた異なった色彩を持つ。一部分を取り上げ、特化しているとした方が近いか。

 何と何を受精させた結果か、以前の品種と比較し優れている部分は何処にあるか、逆に劣化したのはどの辺りかなど、最も重要視すべき部分は完全に外されている。残るのは自然界に存在しない生物、との点のみだ。

意図的に手を加えでもしなければ誕生し得ないもの、しかし確実に生命を備え目前にいる異形に対し興味や警戒を込め、キメラと呼ぶ。ある筈のない人間として蔑まれる、生まれながらにして定められた運命の子供が、自らの異質さを悟るのは大概が陽の当たらない路頭の陰でだ。親に捨てられる為である。叡我のように、母の腕の温もりを知る者は例外中の例外だ。

 保護してくれるような大人もなく、道を彷徨うばかりの幼い彼らが選び得る術もまたそう多くはない。飢餓に苦しみ凍死するか、犯罪者となり窃盗や強盗に手を染めるか、或いは視界の効かない暗い街角で自らを売り路銀を稼ぐか。それらの末路の中では見世物の対象へと身を置き、奇声に耐えねばならない身の上であっても衣食住の保障が辛うじてある分は、幸運と呼べるのかもしれなかった。

 炯至に言わせればそんな考えも、逃避故の産物らしいが。でなければ自己擁護か。

独立した人間として扱ってもらえることはない。檻の中の動物か、いや動物であるならまだ救われたか。珍品として舐めるような視線を受けるだけの人生の、何処が恵まれているものかと。それよりもひとり置き去りにされた日のことを覚えているのかと、度々言葉にする炯至もまた、カラスに拾われた身である。

 炯至だけではない。恭比も釉月も架耶も、人目を避け暮らしていたスラム街から、カラスの手により連れ出された。病死した母を葬った無名墓地で、声を掛けられたという叡我のみは多少種を異にしているようだが、結局のところは皆似通った境遇である。

犯してもいない罪を着せられ、或いは実験だ研究材料だなどと見知らぬ男たちに追い回され、肉体的且つ精神的に辛酸を舐めさせられてきたのは同じだろう。だから互いの抱える過去を、聞き出そうとすることはない。

今眼前で呻いている恭比が、時折スリや引ったくりなど、かつての悪事を冗談交じりに言い触らす位だ。しかしその軽口も当分耳にはできないのだろう。架耶は硬い表情のままで水を張ったたらいから、タオルを取り出す。

 強く絞ると恭比の額の上、置かれたものと交換する。発熱はしていないようだから、濡れタオルも特に温くなってはいない。

しかし脂汗を吸い取ったような、何処か嫌な感覚がある。纏わり付く悪寒を振り払おうとそれを水に浸し、半ば振り返る恰好になりながら架耶は脇の叡我を見遣った。

「もういいんだね?」

 円を描くように動かしていた右手を止め、叡我は尋ねてくる。架耶は頷いた。

「それだけ柔らかくなれば大丈夫だと思う、有難う」

 小さな鉢を受け取った。中には粘りを帯びた薬草が入っている。手伝いを申し出てきた叡我に長時間掛け磨り潰してもらったものを、人差し指の腹に取る。すくい取ったそれを剥き出しの恭比の肩へ乗せた。

痛みか冷たさか、それとも両方ともが走ったのか身を激しくよじられたが、気を配ってやれる猶予はない。紫に腫れ上がり、更に裂傷となった部分へと厚く塗り付ける。薬効を備えた湿布でも貼ってやれるならいいのだが生憎ちょうど切らしている形であり、この山村に留まっている間は買い求める術もない。

分けてもらえるよう頼むことも叶う筈はない、それこそ間違いなく恭比の二の舞となるに違いなかった。相手が男だろうと、女であろうともカラスは遠慮なく折檻を加えてくる。自分を通さず村人たちと関わろうとしたなどと知ったならば、示されてくる行動は日の目を見るより明らかだ。

 今はひとまず応急処置により凌いでもらうしかない。緑のペーストで厚く覆った傷口へとガーゼを添え、その上から包帯を巻く。迷いのない慣れた風の手付きであるのは、言うまでもなく実際に慣れた行動である所為だ。

時に八つ当たりか、もしかすると退屈を紛らわせる意図すらあるのではと思える仕打ちは、最近は恭比に向け為されることが多い。食べ方が汚い、落ち着きがない、見世物としての自覚がないなどと理由により鞭で打たれる様は、あたかも見せしめであるかだ。執拗な程の暴行を、それでも誰も制止することができないのは五人のうちひとりひとりが、自らに対し為されたかつての暴行を思い起こしている所為なのか。

 架耶もまた、背を強く打ち据えられた時の激痛をまだ明瞭に覚えている。何よりあの冷えた黒い瞳に見据えられると否応なしに全身が竦む。

いや竦むとの話どころではない、透明な縄に縛り上げられたかのように身じろぎすらできなくなる。知らず詰めていた息を吐き出し、半分程にまで減った包帯を薬箱へ戻した。

テント内に渇いた空気が流れ込んできたのは、ほぼ同時のことである。散歩から戻った炯至が、足音をそのままに歩み寄ってくるとしゃがみ込み、恭比を覗き込んだ。

「どんな様子なんだ?」

 判り切ったことを訊いてくる。架耶は薬箱の蓋を閉めた。

「ひどいわよ、治りかけだった傷の上なんだから。塞がるだけでも一体何日掛かるか」

「明日の夜発つんだったよな、動けるのか?」

「風が当たっただけでも痛がる位だから。薬も足りないし」

「少なくとも明日の営業は難しいって奴か」

 炯至は尻を落とす。苦楽を共にしている仲間に対してとは思えない、突き放した科白に架耶は眉を顰めたが非難したりはしない。

いつも通り、合わせない視線で内省を促してみる。ただし無駄な努力だ。

「今日が山ね」

「って、こいつ死にそうなのか?」

 やはり期待するだけ無意味だったようである。悪気がないらしいところが、尚のこと問題だ。溜息交じりに目を遣った先の叡我は、心持ち困惑した表情をしている。架耶の眼差しに気付くと苦笑を浮かべる、想像するに似たような思いを抱いているのだろう。

「とりあえず意識ははっきりしてるみたいね」

 炯至は軽く鼻を鳴らす。

「早いところ行かなきゃいけないよな」

 そう発された声色は僅かに、高らかさを帯びている。腕を組みつつ瞳を細める、芝居掛かった態度は科白と同様、普段通りのものだ。

「そうじゃないといつまで経っても同じことの繰り返しだ」

 半ば弁論ででもあるかのような明快さで炯至は言い放った。それに対し、誰かが言葉を挟むことはない。

演説の邪魔をすれば炯至の機嫌を、ただ損ねるのみである。それに意見や同意を求められている訳ではないのだ、証拠にややもすれば全く違う毛色の科白が発されてくる。

「釉月はもうおねんねか?」

 口にされた声は何処か、揶揄を帯びている。

「疲れたのよ」

 架耶は咎めるでもなく言う。見世物としての任務で、とだけ言っているのではない。カラスが立ち去った後も昏倒したまま、目を開かない恭比の傍らで座り込み釉月は長い間泣きじゃくっていた。

架耶が看病を始めた後でも離れようとはしなかった。炯至もそれについては覚えているようで、

「例によって、だな」

 しかし発された軽さは、先程恭比に向け示されたものと変わらない。架耶は口を閉ざしてやや斜め後ろを向き、そこで体を丸め眠る釉月のシルエットを見る。十五の少女に涙を封印しろと強いたところで果たせはしないだろうし、炯至の方も傲慢な物言いを仕舞いはしないだろう。足手纏いにならなきゃいいけどな、投げられた言葉は聞き流して顔を元へ戻す。

恭比はやや落ち着いた寝息を立て始めており、しかし決して傷が癒えた訳ではない。事実眼下の瘡物はうずたかく盛り上がっており、割れた傷は紅い肉の鮮やかさを見せてくる。明日は到底人前になど、身を晒せないに違いない。これ程にもグロテスクな、何よりも惨憺たる光景と付き合わねばならない日々は死ぬまで永遠に、続いてゆくのだろうか。

 キメラと呼ばれる者の逃れられない、また避けられない運命なのだろうか。声を伴わない呟きは、自問ではなく決まり切った決定事項への諦観だ。とある瞬間両腕を強く抱き締めたのは、カラスの暗い瞳が脳裏へと甦った所為である。

キメラへの憎悪でもそこには秘められているのだろうか、だからこそ自分たちを配下に集め、苦痛を絶えず味わわせてくるのか。恐怖をもたらすばかりの想像だったが、迫害に具体的な根拠を当て嵌められる方がましなのだと、願っていることを本当は自覚している。

 夜は静かに更けてゆく中、架耶は眠ることができずにいた。何か事情があって欲しい、別にさほど深刻なものではなくて構わない。異形の子供に近所で騒がれ安眠を妨害されたとか、その程度の取るに足らないものでいい。

何らかの理由があってキメラに恨みを抱き、痛め付けてきているのならばまだ助かる気がする。仕事に向かう途中、自分へと注がれていた感情のない視線に意識を乗っ取られたまま朝を迎えても予想通り、恭比の腫れは収まらない。それどころかその紫斑は、色濃さを増しているようにすら見えている。

 化膿しかけた傷の手当てには専属の者が一人必要になり、その種の任に就くよう命じられるのは大抵の場合架耶だ。押し付けてきたのは炯至であり、またカラスでもある。

「何てったって慣れてるしな、どう考えたって架耶が適任だよな」

 炯至は言い、

「お前なら好きにするといい」

 カラスからはそんな声を聞かされた。他の者が看病するより、損害が抑えられるとの意味だろう。興行を通して見た場合架耶が最も集客能力に劣るとの事実を、表明しているだけの話だ。

瞳を凝らさねば見えないこともあるだろう、小さく生えた茶色の角より、釉月の左背の白い片翼や炯至の尖った耳、恭比の朱の瞳やこぼれた牙の方がよほど目立つ。叡我の持つ緑と青と灰、ある種ヘテロクロミアとするべき三つの瞳についても、同じことが言えよう。落胆も安堵も、喜悦も悲哀もない、ただの否定できない事実だ。

ひとまずあの視線の渦、好奇の海に今日は侵されることもないらしい、それもまた真実のひとつなのだった。三人を送り出し、恭比を目の前に少し息をついたところでひとり炯至が帰ってくる。

テントの中に顔だけを突き入れ、覚えてるだろうなと投げ付けてきた。お前だけ暇になったんだから少しは考えるつもりがあるんだろうな、架耶の反応を待たず一気に言い退けると立ち去り、周囲はまた沈黙へと戻った。

 恭比はまだ眠っている。


 村の出立は延期になった。

 決定が下されたのは昼を少々回った辺りである。まだ閉じる気配のない恭比の傷が原因だ。度を超した食欲旺盛さを持つ彼が、運ばれてきた昼餉にも手を付けないのだから事態は重篤とするより他ない。

あり合わせの薬草での処置など所詮たかが知れており、本来であれば町へ移動した上で薬を入手すべきなのだろう。しかし今の状態で下手に彼を動かせば、想定外の事態に陥らないとも限らない。傷口から雑菌が侵入する可能性も低くはなく、加えいつもに輪を掛けた好色げな眼差しが飛ばされてもこようとは明々白々だ。

流石に得策ではないと踏んだらしいカラスはしかし怒りをこらえるでも、苦虫を噛み潰すでもないいつもの無味とした表情で、立場を見誤らないことだと言い置いていった。村長宅の裏に設置されたらしい、自分専用のテントへ戻ったのだろう。

 滞在が延びたからと言ってそれだけ、仕事のステージが増やされる訳ではない。幸か不幸か手に入れた恰好となったかりそめの休息にも、しかし気など抜けよう筈はなかった。尋常ではない状態の続く恭比だけが理由ではない。

静かに呼吸を潜めているしかない、わざわざ釘を差されずとも判っていた。騒ぎの種を蒔こうものなら村人たちの注目を受けてしまう、それはすなわちカラスの苛立ちを買う。少なくとも陽の昇っている間は、大人しくしているに越したことはない。

 もっとも一同の中で一番落ち着きのない恭比が自由に行動できない今、心配もさほどはないのだが。元々目に留まった草花を摘む以外はテントからあまり出ない釉月や、誰かの世話を焼くのが好きな叡我は普段からテントに籠もりがちである。

炯至もまた定例の夜の散歩を除けば、皆に活弁を垂れたがる傾向が強いのだ。ちょうど覚えているかどうかはっきりさせられるチャンスということだな、下される科白の脇で架耶は恭比の湿布を取り替える。傷口は幾らか閉じているようだが、腕を動かされでもすれば再び開いてしまうだろう。

 それ以上に裂け目を柔らかく歪める膨らみが痛々しい。多少値が張るのであっても、化膿止めの薬を買っておけば良かったのだ。何週間か前に留まっていた町の薬屋の店頭で見掛けた、瓶詰めの青い錠剤を恨めしく思い出す。

とはいえ完全には膿んでいないようだから、処置を間違えさえしなければ時間は要しても治りはしよう。額には乗せなくなった濡れタオルを傷口へと添え、様子を窺いながら冷やすといった行動を繰り返しているうち、意外と早く日没は訪れる。

村長の遣いという男が届けた夕餉を平らげるまでの速度も、最も大食らいのひとりが加わらない分やけに遅い。それでも大方の皿が片付いたところで、架耶はテントの中の人数がひとり足りないことに気付いた。米粥を恭比の口へと運んでいたさじを止め周りを見回す仕草に、叡我が言う。

「釉月ならさっき、出ていったよ」

「出て行った? 何か言ってた?」

「小屋の近くで、綺麗な花が咲いてたとか」

 眉を顰めた架耶の正面で、炯至が露骨に顔を歪める。何でこう考えなしなんだあいつは、漏らされた口調に対し、今回は反感も抱けない。無断でテントを抜け出し、つまりは「商品」として相応しくない行動を取ったとカラスに伝わればどうなるかなど、想像したくもない。

華奢というよりは虚弱と表した方が近い、そんな釉月ではあの鞭を耐え切ることなど到底できはしないだろう。思えば思う程ただ座ってなどいられず、その場に立ち上がった動きを制してきたのは叡我だ。

「僕が行ってくる」

 いつもの穏やかさで、しかし言い切る。

「架耶が見つかる訳には行かないから」

 架耶は反論しかけた言葉を飲み込み口籠もった。自分もまたカラスからの懲罰をやり過ごせる自信はない。知らず震えるまなじりを抑え込みつつ、力を入れかぶりを振る。

「待って、私も行く」

 出口に向かった背中へと呼び掛ける。叡我に近付き、とある瞬間斜め後ろから本当過保護な奴だよな架耶は、との声を聞く。

「過保護っていうよりはただのお節介か」

 物臭げに立ち上がった炯至もまた歩み寄ってくる。

「俺と叡我で行ってくるから、お前はここに残ってろ」

 架耶を見遣り、命令を口にする。

「お前と叡我じゃ、上手い言い逃れもできないしな」

 こちらの不器用さを指摘したいのか、いやどちらかと言えば自分の口八丁、機転の巧みさを主張したいのか。大体お前が出ちまったら恭比はどうするんだ、問われれば反論できない。振り返り、何処となく未だ苦しげなその寝顔を確かめる。

「心配しなくても、釉月はちゃんと連れ帰ってきてやるよ」

 言い放つや否や踵を向け、天幕をくぐり外へと出ていってしまう。気を付けて、などと言葉を掛ける暇もない。代わりに見上げた先の叡我は穏和に微笑むと炯至の後を追うように立ち去ってゆき、テントの中に架耶は取り残された。

正確なところは勿論恭比と二人なのだが、眠ったままの相手では喋り相手にもならない。緩慢な動作で元の位置に座り、溜息を漏らす。薬草を手に取ると細かく千切り、すり鉢に重ね入れた。

 もし起きていたところで、一方的にまくし立てがちな恭比では元々話し相手にならないかもしれない。思いを巡らせてみるのは気分を紛らわせる為でしかなかった。眼前の痛ましい傷を見るだけ懸念は増す。

これ程ひどい仕打ちはたとえカラスといえどもか弱い少女に与えないだろう、自らへ言い聞かせようとしても素直には納得できない自分がいる。いずれにしろ今は二人を、また三人が戻ってくるのを待つしかないと知っていた。

叡我に比べ非力な分念入りに薬草を練り上げ、不要な刺激を加え恭比を起こさないよう留意しながら湿布を交換する。どれ程の時間が過ぎたろうか、とある瞬間急速に近付いてきた騒がしい足音の向こう、入口の幕は唐突に押し広げられた。現れた炯至の姿に思わず綻ばせた顔を、しかし架耶は瞬後に固める。

「何かあったの?」

 普段からリーダー然で振る舞う炯至である、こちらの愛想を取ろうとしたり、親愛げな様相を見せてくることは皆無に等しい。仲間として共同生活を送るようになって後、目にしてきたのは居丈高な風ばかりだ。しかしそんな科白を覚えず投げ掛けずにはいられない程に今、眼前の面差しは剣呑さに満ちている。

「何かなんてレベルじゃないぜ」

 唾棄するかの勢いで吐き捨てられてきた。後から入ってきた叡我は銀髪に一枚翼の見慣れた少女を引き連れており、ひとまず架耶は安堵する。再び炯至に向かい問い掛けようとして、ふらつきながら近付いてくる小さな姿を視界の隅に認める。

傍らに座り込んだ彼女の髪を軽く撫でてやれば、しゃくり上げる微かな声が届いた。無意識のうちに瞳を瞠り、再度叡我へと視線を遣ることにより無言で説明を求める。

 しばし叡我は炯至の様子を窺っていたようだったが、じき自分に求められている役目を悟ったらしい。釉月を発見した時の状況について語り始めた。とはいえ探し出す自体はさほど難題でもなかったという。出掛け際に残されていた、テント付近に自生した花を探しに行くとの言葉の為だ。

 果たして釉月はそこにいた。見世物小屋の陰、軒から落ちている影の内に佇んでいたのだが、ただしひとりではなかった。派手な髪の色をした若者たちに身を囲まれていた。いやその表現すら正しくはない。

ちょうど脚と胴とを抱えられ、運ばれようとしているところだった。腹を殴られたか薬を嗅がされでもしたか、彼女は抵抗もせずされるがままになっていたらしい。この種の被害に遭うのは初めてではなく、また必ずしも釉月に限った話でもない。

キメラが人間として扱われない以上、拉致も所詮は窃盗でしかなかった。架耶も例には漏れないが炯至や恭比に至っては、今の生活に入る前一度か二度程緊縛され、倉庫に放り込まれたこともあるらしい。売り飛ばされる直前逃げ出し事なきを得た経験があるからこそ、酷似した場面に遭遇した際の対処も心得ている。

身の丈約二メートル、体重百キログラム近くの、体格のみであれば迫力に溢れた恰好の叡我を前面へと押し出し威嚇する。効果がなければ呪い話の作戦を用いる。

キメラと必要以上に関わった人間は得た幸福を取り崩す、関わった時間に比例し寿命を喰われる、などと今度は脅しを掛ける。自分たちへ向けられた濡れ衣を利用するこの技で、大抵の者は退散するのだった。

それでもこたえない連中には、災厄の具体例を挙げてもやる。二代前の大統領が暗殺されたのはキメラを極秘で買い集めていた所為だ、未だ原因の特定できない二十年前の東部での大火は、用済みのキメラを処分する施設からの失火だなどと、まことしやかに語り追い払うのだった。

 常識では考えられない風貌、この場合は童話の挿絵に描かれた悪魔にも似た鋭利な輪郭の耳だが、それを持った青年から発されているだけ根拠のない与太話の信憑性も高まるらしい。これまでのところ失敗もないようだ。

今日の相手は即物主義者と見える若者たちだったが、キメラを掴まえ人体実験を行っていた研究所が一夜にして、跡形なく消え失せたのだとの騙りを受けて去ったらしい。そんなもの怖くねえぞなどとの強弁も捨て科白よろしく残していったようだが。立派な面構えの神殿を備えた村の住民に相応しく畏れる心を捨てられずにいるとのことなのか、架耶は納得したのだが話した側、叡我の顔は晴れない。

「何があったの?」

 炯至ならばこちらの反応を引き出そうとしてだと判るのだが、眼前にいるのが叡我である分状況は複雑だ。先程と似通った、しかし助詞をひとつ選び替えることにより違うニュアンスを込めて尋ねる。更なる説明を催促する言葉にもしばし叡我は黙っていたのだが、ややあって覚悟を決めたらしい。

「気が付いたのは炯至だった」

 少しばかり歯に物が挟まった言い方をする。

「団長が見てたんだ」

「え?」

 思い掛けない名前に、意識外で反芻する。

「団長って」

「俺たちが団長なんてふざけた呼び方する奴は、ひとりしかいないだろう」

 割り込んできた炯至の声は、激しさを感じる程に棘々しい。怒り未だ冷めやらぬといった風で、架耶を睨め付けてきた。

「信じられるか? 見物してたんだぜ、最初から最後まで、あの男は」

「まさか、そんなの」

 もしかしたら救助に乗り出そうとしたところで炯至たちが現れたのかもしれない、そんな密かな期待もすぐに打ち消される。

「そんな訳あるんだよ、奴は木なんかにゆったり寄り掛かって、余裕かましてたんだからな!」

「落ち着いてよ、炯至らしくない。釉月が怯えてるじゃない。それに恭比だって起きちゃうでしょう」

「落ち着けって? 落ち着けってのかこんな状況で?」

 普段の泰然としたものでない様子は、簡単に収まりそうもない。多少の言葉を掛け宥めてみたところで逆効果だろう、戸惑いつつ釉月へと瞳を遣れば、恥ずかしげに俯かれてしまった。こちらの反応はいつも通りだ。

「これじゃ本当に、苛々して眠れやしないぜ」

 とある瞬間宣言し、立ち上がるとテントを炯至は粗雑に出てゆく。制止する間もなかった。走り去る足音を耳にする一方で目の合った叡我から、結局はやはり詳細な報告を引き出すしかない。聞けば釉月が拉致されようとしている場面に、居合わせたカラスは何をするでもなくただ、様子を眺めていたようだ。

 しかもこちらが到着するより以前かららしい。叡我が気を失ったままの釉月を介抱していた際に、炯至がカラスの姿を見付けた。一言も投げ掛けはせず帰ってきたというのだが、状況を思い出すうち憤怒が押しとどめられなくなったのか。カラスに抗議する為、炯至が出ていったのだろうとは想像に難くない。

短絡思考のみからではなさそうな行動を、一概に批判するつもりにはなれない。しかしあの非道そのものの男に正面から直接逆らい、何事もなく無事に帰還できるのか。生まれた懸念に眉を寄せていれば唐突に、釉月の影が動いた。仔猫のように丸まっていた上半身が伸び、眼差しは入口の方へと向いている。

 襲われた嫌な予感を押し殺しつつ、見ればあるのはカラスの黒髪だ。反射的に数日前同じ場所、将にここで繰り広げられた凄惨な情景が脳裏に甦り、恭比へと視線を落としたがそれ以上には動けない。沈黙に空気が支配される中、架耶は炯至のことを考える。

彼は一体どうしたのか、カラスとは擦れ違いにでもなったのだろうか。或いは最初からただ単に散歩の為外出しただけだったのか、楽観的な方向へと辛うじて意識を紛らわせているうち、ふと目の前の怜悧な表情が動いたのを見る。

「ひとり表にいる」

 薄い唇を開き、言う。

「邪魔にならぬよう片付けておけ」

 声色はひどく冷淡で、投げられてきている面差しの無為さに相乗し誰からも反応を奪う。その一言のみで踵を返し、カラスは歩み去っていった。深い呪縛から解き放たれたかのように、いや実際解けるや否や早足で外へと出ていった叡我は架耶と、同じことを考えたに違いない。

二、三分で戻ってきた体には炯至が背負われている。あって欲しくないとの願いを裏切られ、予測した通りだった現実については驚きも、憤りすらない。意識を失ってはいないようであり、見る限りはいつもの鞭で打たれてはいないらしいと冷静な分析まで、できてしまう位だ。

 恭比の脇に下ろされた炯至は眉間に皺を刻みつつ、ろれつの回らない舌で恨み言を呻いている。そろそろ思い知らせてやろうぜ、荒い息と共に吐かれるものを聞くうち、釉月が架耶に身を寄せてきた。

掴まれたシャツの端を引っ張られ、架耶はその幼顔を見る。叡我は新しい怪我人の手当てを始めている。


 負傷者は一人から二人に増えた。とはいうものの架耶と叡我が看護に就く、その状況は変わっていない。もしも蹴り飛ばされていたのが炯至ではなく叡我だったなら負担は倍増していたかと、考えているなどと知れば炯至は、説教を食らわせてもくるのだろう。

 お前みたいな間抜けな奴がいるからあいつも図に乗るんだよ、だから乱行も尽きないんだと、三段論法で責めてくるに違いない。カラスのテントへ押し掛けたものの間髪入れずに文字通り一蹴を食らってしまい、欲求不満気味でもあるのだろう。木のうろに背を打ち付け、動けなくなったところへと数度腹を蹴り上げられた所為で、何ひとつ申し立てられず苦悶だけを貰う羽目になったらしい。

奥襟を鷲掴みにされ、引きずられてくる間も全く抵抗できなかったというから、心理面でのダメージも相当だろうとは想像が付く。架耶が手当てをしている間も、途切れなく文句を言い続けていた。その様子も、また口にされる内容も聞き慣れたものだからただ聞き流すだけで終わる。

寧ろ別の事態に意識を奪われていた所為で、炯至の言い分について考えている暇はなかった。先程寝付かせた釉月のことではない。

 小さく息をつき、見遣るのは脇の薬箱だ。村に入る前から満足ではなかった中身は、二人分の手当てを経て相当分が消えてしまっている。残っているのは風邪薬や胃腸薬の類ばかりで、今の状況下において役立つものはなかった。化膿止めと湿布は全て使い果たし、痛み止めも後二、三回分程しか残ってはいない。

 辛うじての頼みの綱だった掻き集めの薬草も、二握りがあるだけでこれが切れれば万事休すだ。使われている側の恭比を見ればひとまず小康状態のようで、また炯至の方もこれだけ騒げるならさほどの心配もないだろう。しかしまた緊急の事態が生じないとも限らない。心持ち止めた呼吸を強めに吐き出すと、架耶は片膝を起こし立ち上がる。気付き視線を上げてきた叡我に対し、

「向こうのテントまで、ちょっと行ってくる」

 と告げた科白に、いち早く反応したのは炯至だ。瞳を見開くや否や体を跳ね起こし、しかし蹴られた患部に痛みが走ったのだろう。

肋骨の辺りを押さえた。背中を折り肩で息をしているらしい間に、脇から叡我が尋ねてくる。

「まさか団長の?」

 冒頭へと附された副詞からして、確認の為に発されたものなのだろう。いや、どちらかと言えば牽制の意が込められているのかもしれない。架耶は頷く。

「薬がもうないから」

「お前馬鹿か?」

 即座に炯至から雑言を浴びる。

「行くだけ無駄骨だ、鞭で何発かやられて逃げ帰ってくるのがおちだろうよ」

「でも薬がないと、まともな看病もできないし。もう今日一日だって保つかどうか」

「団長が薬を用意しているとは考えにくいけど」

 叡我もまた、否定的な言葉を向けてくる。納得できる意見ではあり架耶は突っ立った恰好で悩むが、やはり二人へと背を向け歩き出す。

もしかすると自分用の常備薬をカラスは携帯しているかもしれない。無論そうだとしてこちらへ分けてくれる可能性は低いだろう。しかしいずれにしろ、窮状を話してはおいた方が後々のことを考えてもベターだ。

 民間治療を主としているらしいこの村に、西洋式の薬剤を売る家はなかった。だから今の時点で薬を手に入れる方策はない。それ以上にカラスが自分たちの相談に乗ってくれるとは到底思えない。しかし一旦伝えさえしておけば、他の町に渡り薬の補充が可能となった際の交渉も、比較的切り出しやすくなる気がする。

 少なくとも店先で暴行される確率は低下するだろう。今からテントへ向かえば憩いの邪魔をするなとばかりに、一発殴られるかもしれないがそれは耐えるより他ない。何処となく自虐的な流れでありながらも心を決めると、架耶は振り向き、告げる。

「やっぱり行ってくる」

「じゃあ僕も、一緒に行く」

「遠くもないしひとりで大丈夫。叡我は恭比と釉月に付いててあげて」

「おい、やめとけよ架耶、痛いもの見るだけだぜ」

「平気だって」

「お前の為に言ってやってるのに」

 叡我の、また炯至からも続けざまに向けられてきた言葉を流し、外に足を踏み出す。翻意させようとしてか、自分の名を呼ぶ叡我の声は上ずり気味の早口となった。切迫感の含まれたような口調が気にならないと言えば嘘になるが、世話好きの彼が故の懸念と考えれば片も付く。

村の中央を貫く通りは舗装もなく、しかし邪魔になる類の石もないようだから街灯の少ない中でも、足の運びに困ることはない。周囲を包む暗闇には見慣れているが、先日釉月の身に降りかかった災難のこともあり不安は胸をよぎる。しかし浮かれ騒いだ祭りが幕を下ろし、疲れ寝静まったのか辺りに人影は見当たらない。

辺りに歩く両脇へと多少の注意を払いながら進めば、村のほぼ中心に位置する村長宅にはさほども要せず辿り着く。敷地へと入り、屋敷の裏に至ったところで足は無意識のうち止まった。

架耶は二度深呼吸する。唇を結び、一歩前進しかけた刹那に視線の先、テントの入口の幕が掻き分けられるのを見る。

脇に立つ木の幹の陰へと、反射的に架耶は身を潜めた。有難うと、口にされる声には聞き覚えがある。若くはない女の声だが咄嗟には誰のものか判然としない。

「楽しかったわ」

 そんな言葉を継ぎながら、彼女はテントを出てくる。襟許を掻き寄せるように肩を縮め、しかし歩いてゆくのはこちらから見て逆側の方へだ。

その声が自分たちに料理を差し入れてきた村長の妻であることを、不意に思い出す。髪を手で撫で付けるようにしながら遠ざかってゆく足音は、やがて掻き消えた。同時に胸へと浮かび上がる悪寒を否定できない中で、顔を陰から出す。

テントに向かい歩を進め、しかし残り五メートルとのところで再び立ち止まった。どう切り出せば逆鱗に触れずにいられるかと、思いを巡らせるうち何か用かとの声が耳へと届く。身は一瞬にして硬直した。

「用なく徘徊するつもりか」

「いえ、あの」

 辛うじて絞り出した声は上ずる。

「入れ」

 告げられた一言に、架耶は瞠目する。しかし命令に従うより他、選択肢などないことは明らかだった。

そもそも自分はカラスに直談判する為、この場を訪れているのだ。恐る恐るながら歩みを再開し、テントの前まで至る。右手で幕を押し開け、そうして再度瞳は大きく見開かれた。

視界の中央、敷かれた布団へ身を横たえたカラスの姿から視線を外すことができない。上半身のシャツは前が大きく開き、普段から首に下げた銀色の鎖が見えている形だ。

やや乱れた布団の回りには紙幣が何枚、いや何十枚も散乱している状況は奇怪と言うより他ない。認識の全てをそこに奪われ、立ち尽くす架耶へと追い討ちの声が放られる。

「早く言え」

 ここまで訪ねてきた用件を、との意味に違いなかった。架耶は背を正す。

「あの、恭比のことで」

「あの男がどうした」

「いえ、その、恭比のことだけではなくて」

 結論へ辿り着かない科白に、カラスは苛立った顔を露わにする。

「だから何だ」

「あの、薬が、足りなくて」

 立ち込めた不穏さに狼狽し、しかし辛うじてそれだけを言った。明らかに単語不足の科白ではあったものの、カラスは主旨を理解したらしい。傍にあった紙幣を粗雑な様子で鷲掴みにすると、前に腕を振る。宙を数秒程舞った紙幣は落ち、呆然とする架耶へと言葉は荒く継がれた。

「何をしている」

 架耶は瞳をしばたかせる。

「薬代をやると言っている」

 高圧的な口調に、しかし架耶は我に返る。膝を落とすと紙幣を拾い集めた。枚数にして十枚程だろうか、手の中のそれを包み込むようにしたところで再びカラスの様子に目を奪われる。

「用はそれだけか」

「はい」

「ならばそれを持って消えろ、目障りだ」

 言い放つ口調に遠慮などはない。慌てて一礼し、踵を返す架耶の背へと、命令が続いて投げられてくる。

「あの女を太らせておけ」

 皮と骨じゃ見世物にも足りんと、表された対象は自分ではないだろう。消去法で行けば釉月しか残らない。判りましたとだけ答えて架耶はテントを飛び出す。

駆けるままに門を通過すると七十メートル程を行き、とある瞬間に足を止めて乱れた息を吐く。呼吸を殺していたと気付いたのはその時だ。膝に手を当て、見上げた空に星は無秩序に散らばっている。

殴られず無事に帰還できそうだと思ったが、深層に安堵感は生まれない。首を二、三度振るとゆっくりと歩き出し、架耶は神殿裏へと戻った。テントに入ると、心配げな表情の叡我へと紙幣を差し出す。

「これは?」

「貰ってきた。薬を買う資金にしろって」

「団長から?」

 叡我はよれた紙幣を受け取ると軽く端を揃え、荷物袋の隅へ収めた。その隣へと腰を下ろす架耶に対し、話し掛けてくるのは炯至である。

「呆けてんなよ」

「そんなこと」

「全く、だからわざわざ忠告してやったんだよ、やめとけってな」

 勝ち誇ったかの声色に、架耶は顔を顰める。別に殴られてなどいないと言いかけ、しかし反論が実際に発せられることはない。聞かされたばかりの科白の中に、違和感を覚えた所為だ。

それは具体的に指摘されている訳ではない。だが今夜自分が目にしたカラスの様子が前提にあるようだと見当は付く。更に言うなれば架耶が出掛ける時点から、結果は明白になっていたとのことか。

「二人とも、判ってたの?」

 炯至は肩を竦める。

「知らなかったのはお前と釉月だけだろうよ」

 間を置かず返されてきた言葉は重ねて、架耶の顔を硬くさせた。思い起こされるのはしどけなくも映ったカラスの姿である。

眼差しをあの場で、動かすことが叶わなくなったのは今までの彼が見せたことのない、淫靡さが原因だったのだろう。はだけた胸とその空気を吟味するまでもなく架耶が訪れる直前、為されていただろう男女の情交に関しては察せた。

 架耶がテントを訪れようとする直前、立ち去っていった村長の妻もまた着衣を整えるような仕草を見せていた。しかもそれらの類の行為は以前から始まっていたのかと思い、少なくとも炯至はそう言っているのだろう。

しかし事実を知った上で、ようやく判明するものも存在するのは確かだ。見世物による報酬は幾らか得られもしようがそれのみで、カラスを含めた六人を養うのは容易ではないに違いない。

 移動などに係る諸経費も必要な筈だ。勿論薬の購入費も含まれ、それらを文字通り彼は体で稼いでいたとのことなのか。視線は相手へと向けたままながら言葉を口にしなくなった架耶に、炯至と叡我は顔を見合わせる。

「刺激が強すぎたな、お前も女だし」

 架耶は長く、後を引く息を吐き出す。

「平気、これ位」

「まあいい思いして金もせしめられるってんだから、別に構やしないんじゃねえの、あいつも」

 下世話な科白は言外に、カラスに気を遣ってやる必要などないのだと告げている。しかし架耶の脳裏からは布団へと横臥し、気怠げな風を見せるカラスの姿態が消えない。

浮かぶ影を払おうと、架耶は数度かぶりを振った。絶対的な存在として恐れてきた彼が路銀を手に入れる為とはいえ、他者へと媚態を示し、身を売っていたのだ。

それでも自分たちにとってカラスは団長でしかなく、唯一の強者には違いなかった。決して抗わず服従する以外、生き永らえるべき道はない。何とはなしに見遣った叡我は困った顔で、こちらへと笑い掛けてきた。


 恭比もあるレベルまで回復し、ようやく山間地の村を発てる運びとなった。日没が迫った人目の少ない夕暮れの中、駅へと移動し列車に乗り込む行動にさほど難儀もない。

より困難となるのはコンパートメントへと入った以降においてである。五人全員が押し込まれた最安値の一室、スプリングの衰えた座席は硬く、長時間揺られるべき環境としてはお世辞にも快適とは言えない。

 完治まで未だ至れていない恭比は特に辛いだろう。線路からダイレクトに伝わる揺れが、癒着気味の傷を響かせているのに違いない。表情は気の毒な程に歪むのだった。

当然安眠は維持できず、その都度に目を覚ましているらしい。多少の悪条件程度ならば意にも介さず、惰眠を貪る彼である。襲われている苦痛については、容易に想像可能だ。

 架耶もまた、眠れずにいる。瞼を閉じ寝たふりを装う炯至や、仔猫の如くに背を縮め横になる釉月の傍らで、恭比の様子を見守る。時折目覚め、体を起こす叡我からは少し休むよう促されるものの、やはり眠ることはできない。

座席に首を預ける形で床の上、膝を抱える。安穏さからはまだ遠い寝顔へ、虚ろな視線を向けるのみだ。薬は未だ融通できていないが肩へと口を開いていた傷は、ようやく塞がりつつあるらしい。

しかし張り付き合っただけの痕は到底見目良いものでなく、その歪みは振るわれていた鞭のしなりを思い出させる。上がる悲鳴にも似た懇願、繰り返し打たれ弾かれる鮮血、浮かぶのは目を覆わずにはいられない苛烈なシーンばかりだ。

辺りを閉ざす夜の重圧が、心持ちを陰鬱にさせているのかもしれない。何故なのだろうとの声にならぬ問いを向ける先は団長として、隣の客室に眠る筈の青年だ。ただし今に始まった思いではないから、さほどの真率さも帯びてはいない。

招待元との直接交渉を行う責任者は彼の他に存在しない。何らかの面倒に出くわした際に苦情を受け付けねばならないのが、彼の立場である。だから程度の問題こそあれ、自分たちへと向くカラスの憤怒に同意はできないものの少々の理解はできる。

 クライアント側の機嫌を取る為、もしくは損ねないが為に我が身をも利用している位だ。それらの努力を無に帰させる行為が、我慢ならないのだとしよう。しかし相手を惨殺せんばかりの勢いで、暴行を加えてくるのは何故なのか。

沸き上がる激情に任せ怒号を浴びせてくるのではない、冷徹とも言える様で懲罰を実践する。今までに一体何度制裁を受けてきたか、何が原因だったのかさえ曖昧だ。しかし俯せに背を踏みにじられた時、見下ろされた平坦な眼差しは恐怖と共に忘れることができない。

多分恭比も、また他の三人も似た経験を抱えているのに違いなかった。そして次の町では誰がどんな仕打ちを受けるのか。暴行を避けられたらいいとは思う、しかし儚い願いでしかないだろう。

 時刻は日付の変わる辺りにも至っている頃か。乗降客も殆どいないと思われる中、列車は過疎の地域を走る。疾走と表現するにはそのスピードは緩く、レールの傾斜に合わせ左右に車体をふらつかせもしながら、次の停車駅へと向かってゆく。

浅い眠りを抱える者の存在になど一切構いはせず、夜の情景の中を移ってゆくのだろう。日一日を暮らすことに精一杯の自分たちと同じように。昨日、その上を踏み走ってきた線路のことなど、もはや覚えていないまま走るのみであるのに違いなかった。

耳に障る軋みを聞きながら架耶は何とはなしに思う。顔を上向きに動かせば対面式になった座席の四隅のひとつ、窓枠へと頬杖を付くようにしながら眠る炯至がいる。意識なく脳裏に浮かんだのは、ここ数年来自分が口にしていない言葉だ。

 昔のことに心を馳せられるのは、精神に余裕の割ける人間だけである。しかしそう告げてみたところで炯至からは侮蔑されるのみと、判り切っているから言わないだけの話だ。

時間の帯をただ無為に潰すばかりの、こんな長い静かな夜ならまだしも通常、過ぎ去りし日についてのどかに考えられなどしない。端からの無遠慮な、舐めるかの眼差しの渦やカラスの怜悧な監視に怯える中で炯至の言う、「昔を覚えている」余地など、容易には保てる筈もなかった。

 架耶は微かに息を吐く。結局は過去など忘れ去りたいというだけの、自分の我儘なのかもしれない。座席の上に上り、架耶は窓の外を眺める。何日か先の、いや明日訪れる未来どころか数時間後のことすら、見通せない混沌とした闇が流れるばかりだ。空気の動きを察したのか、再び首を伸ばしてきた叡我がこちらを見てくる。

「架耶?」

 咎めているようではないらしい。口調は何処となしに不明瞭だ。その瞳は三つ共、半ばが下りかけた恰好である。

架耶は笑みを作りつつ返すと、尻をまた床へ滑り落とす。膝の上に置いた腕に顔を伏せた。

 翌朝早く、途中下車したのは川沿いに位置する駅だ。駅員の応対する改札を出たところから広がる平野は開拓され、区画上に住宅や店舗などが並び建てられている。遠くの山を臨めば別荘かホテルか、コンクリート造りらしき建物の姿が幾つか見受けられもする。

ある程度の期間を保ち、文明を営んできた地域なのだろうとは想像に難くない。単に無尽蔵に開発されるばかりではなく平野のあちらこちらには森の緑が繁り、残されている。町並みと同じく整備された舗装済みの通りに設けられているのは、等間隔の街路樹である。時間にして十分程か、連なり歩く間に車の何台かと擦れ違った。

厳めしさや所有権を必要以上に主張する門などはなく、地名らしき単語が記された小さな看板の脇を抜ければそこは既に、目指す町の中だ。大小や新旧の違いは多少ありながらも、建造物に無秩序な雑多さはない。かといってそぐわないものを排除しているような無機質さもなく、そこからはごく自然な小綺麗さが伝わる。明るい雰囲気だと、感じたのは朝の陽射しの所為のみではないのだろう。

 リュックを背負った子供やラフな身なりの若者、町の内外へ仕事に出掛けるらしい大人や犬を散歩させているらしい老主婦など、各々が親しげな挨拶を交わし合う。先頭を歩くカラスの迷いない様子からするに今回の訪問先は、この町で間違いないようだ。特に飾り付けられている風もなく、ごく日常的と見える中を一同は進む。

曲がる角に至ったところで斜め後ろ、小さな悲鳴が上がる。周囲を見回すように歩いていた釉月が思いがけず躓いたものらしい。ほぼ俯せの体勢で転んでいる姿へと、架耶が歩み寄りかけたところで別の声が聞こえた。

「大丈夫?」

 釉月の上に影が差している。主を探すまでもなく、目の前で中腰になり手を伸ばしてきているのはグレーのワンピースを着た中年とおぼしき女性だ。咄嗟に状況を把握できなかったのか、釉月はその場に座り込みつつ怪訝げな顔をする。しかしとある瞬間に小さく飛び上がるや否や、架耶の影へと身を隠してしまった。

 明らかに警戒を露わにされた態度にも、女性の笑顔は変わらない。大丈夫そうね、気を付けてねと和やかな声色で言いながら体を起こす。歩み去ってゆく背中を言葉もなく見送り、唐突に凍て付かんばかりの恐怖を首元に意識した。

急ぎ振り返れば炯至たちの頭の向こう、あるのは十メートル先に立つカラスの顔である。しかしそれはややもなく逸らされた。

一言たりとも発されることなく彼の歩みは再開され、後の五人は慌てて背を追う恰好となる。少しばかり歩調を緩めてきた叡我が架耶の隣に付いた。

「叡我、団長は」

「平気そうだね」

 架耶からの短い問いに答えながら、その口調はやや不可解げである。特段変化のないカラスに、違和感を覚えているのだろう。平気そうであるとはすなわち、怒りをこらえている雰囲気はないらしいとの意味だ。

自ら干渉した訳ではなく不可抗力に近いとは言いながらも、訪問先の一般人と関わってしまったのだ。理不尽か否かはさておき罰が加えられたとしても可笑しくない。実際今までであれば釉月へと平手打ちのひとつ位は、飛ばされてきた場面だったろう。

 想定外と言うより他ない平静ぶりは、却って不気味さを思わせる。もしかしたら後で、例えば人目の薄れた町の外れに連れ出し完膚なきまでに打ちのめすつもりなのではと、そんな恐れすら浮かぶ程だ。

勿論仕置きを加えようと思えば周囲にどれほどのギャラリーがあろうとも、微塵も気になど掛けない男と判ってはいるが。唖然とした面差しを見せていた炯至も不審さは同様らしく、前方の様子を窺うようにしては恭比と視線を合わせている。

進む先は、おそらくこの町の町長か、その辺りの居住地へだろう。ふと気付けば隣を歩く釉月が、架耶を不思議そうに見上げている。

 架耶は何でもないというように笑い掛けた。見下ろした先、服へと付着した砂に気付いて軽く払い落としてやった後、顔を前方に戻せばいつも通りの冷静沈着なカラスの背がある。その髪を、身を包む闇色から逃げるように視線を動かした。

道端に立つ小さな薬屋の店構えはさほど立派でもないがガラス越し、覗ける陳列棚の様子からして品揃えに不都合はなさそうに思う。見世物の舞台の合間に在庫補充に行こうと、考えながらその前を通過する。前後左右関わりなく、注がれてくる通行人の視線を頬辺りに感じつつ、じき辿り着いたのはひとつの家の前だ。

 特段大きな家屋ではなく、庭はあるようだが樹木や泉などで飾られている様子もない。煉瓦で仕切られた花壇に赤や黄、紫などの花が植えられている程度のものだ。使用人らしき姿もなく、カラスは真っ直ぐに扉へ向かうとその脇、設置された呼鈴を押す。

ピンポンとばかりに、軽妙な電子音が漏れ聞こえた後カウントして五つ、扉は勢いよく手前に開かれる。覗いたのは二十代程だろうか、若い男性の面長の顔だ。髪をライトブラウンに染め、やや怪訝げな表情でもある。

「はい?」

「自治会長様とお約束していました一団の者ですが」

「ああ、親父ー」

 語尾の辺りは振り返り、家の中へと呼び掛けるような体を取りながら青年は言う。視線を戻すことなくすぐに室内へと消え、ややを置いて今度は初老の男性が現れた。白髪交じりの中へと穏やかな笑顔を浮かべる。

「お待ちしてましたよ、お疲れでしたな」

「感謝します」

「遠路はるばる疲れたでしょう、さあどうぞ」

 扉を大きく押し開けると、自治会長と称された男性は客を招き入れるように少しばかり、身を後ろへ引いた。深々とした一礼を見せたカラスは、しかしさほど恐縮した風もなく玄関に足を踏み入れる。

一方で残された五人は一様に激しく困惑する。石の棒の如くに動かない足で突っ立ち、互いの顔を見回すのみだ。

 テントやバラックに近いまでに破れた古小屋以外、見世物として訪れた地で逗留した記憶はない。勿論この町でも当然のように、外れへとこしらえた仮家屋で夜を明かすのだと、当たり前のように考えていた。どうぞ、と再度促してくる言葉を、カラスを目前にして素直に受け取ってよいのか判らない。

いや我が身の安全の為にもどちらかと言えば、受け取るべきではないと皆考えた筈だった。狼狽を隠すこと叶わず硬直する一同へ、しかし敷居を跨いだばかりのカラスが半ば程振り向いてくる。

「早くしろ」

 普段のままの冷ややかな声が告げてくる。やはり自分たちは即座に立ち去れとのことだろう、聞き慣れた彼の科白で言うならば身をわきまえろという辺りか。しかし一息を挟み、継がれてきたそれは予想と将に真逆である。

「さっさと入れ」

 え、と素頓狂に漏らされたのは恭比の声だ。しかしその驚きは紛れもなく、五人共通のものである。命令を受けてもしばしの間、誰ひとりやはり動けずにいたのがその証拠だ。

多分発された言葉にただ従えばいいのだろう、理性では把握できているものの足は前へと進まない。戸惑いを隠せないこちらの行動を待たず、カラスは屋内へと入っていってしまった。代わりに男性が再び声を掛けてくる。

「入ってください、熱いお茶淹れますからね」

 向けられてきている笑顔に、怪しむべき点はない。他意が潜んでいそうな風もなく、またこちらを値踏みする視線も見て取れないのだった。言葉で表すならば包み込むようとでもするのか、今まで出会った記憶のない柔らかい瞳には困惑するしかない。だがいつまでも、ここで突っ立っている訳にも行かないだろう。

それこそカラスの怒りを買いかねない。先行して炯至が玄関へと入り、恭比、次いで叡我が続く。釉月の手を引く形で架耶も彼らに倣った。一方で何か魂胆があるのではないかとの疑いは去らない。

 スラムで暮らしていたあの頃、甘言にどれだけ騙され陥れられてきたかしれない。常に命の危険と隣り合わせだった生活こそ脱した今も、安全が必ずしも保証されてはいない。

つい先日も釉月が連れ去られそうになったばかりであるのだし、そこまでの大事ではなくとも観衆から投げられた石で頭部に怪我を負わされたり、擦れ違いざまに町民から足を引っ掛けられるといったトラブルを挙げれば暇がない位だ。自分の身を護る為にも、他人の言動に秘められた裏を読み取らねばならないとは本能レベルで知らしめられている。

目の前の相手の表情は人の良さそうな様相に加え、額へと刻んだ幾らかの皺によりややの厳格さを思わせる。しかし見遣る限りでは、悪徳さを感じさせるような色はない。不審さは胸へと浮かびはするがいずれにしろ、招きを断る選択肢はない。

通されたのはリビングでも物置でもなく、奥にある一室だ。広さにして八畳程だろうか、上座に当たる片隅の床の間には、白百合の生けられた花瓶が置かれている。書院造りの部屋の中央に置かれたテーブルには菓子の盛られた皿まで用意されており、先頭に足を踏み入れた炯至がまだ、入口で呆然としている程だ。

恭比に至っては治り切っていない怪我など忘れたように、腹減ったあれ食いたいとはしゃいでいる。堅苦しげに室内を叡我が見回す中で、立ち去っていった男性の代わりに女性がひとり、盆を手に現れた。

「遠くからで大変だったでしょう、適当に座ってくださいね」

 卓の脇へと膝をつき、見せてくる柔和な笑みは先程の男性と通じる雰囲気がある。或いは白髪の目立つ様相がそう思わせるのか。戸惑うまま一同はテーブルの周りを取り囲む形で座る。

それぞれの前には湯呑み茶碗が静かに置かれた。中に淹れられた緑茶からは白い湯気が立ち上っている。

「よかったらお菓子も召し上がってね」

 口に合えばいいのだけどとやはり柔らかく言い残し、女性は辞していった。自治会長の妻辺りだろうかと考えた架耶の脳裏には意図するでもなく、カラスと彼女とが布団の上、絡み合うシーンが浮かびかける。しかしその像は、間を置かずに消えた。

考えるに淫靡な想像と彼女の穏和さとは、胸の中で並立しなかったのか。しかし何故そう感じたのかは、自分のことながら判然としないものだ。小さく首を振る架耶の様子を、釉月が首を傾げ眺めている。

 誰も言葉を発さない停滞した空気の中、時間だけが無為に過ぎる。とある瞬間炯至の口にした、どうなってんだとの科白は皆の心境を語るものだ。言うまでもない。

到着するや否や地域の長の客間に案内され、茶や菓子でもてなされている今についてである。現状を事前に把握できた者はいた筈もなく、しかもこれは団外との接触を嫌う筈のカラスが認め、いや命じて為されたシチュエーションだ。何がどうなっているのか、理解できなくて当然と言えた。

ひとつ饅頭を取り上げ、頬張った恭比は湯呑みから茶をすする。思いがけない熱さに咳き込みかけたようだったが、その様子を慮れる余裕は、残念ながら今の架耶にはない。


 通された客間の和やかさにも、時間を過ごすうち多少は慣れてくる。平静を完全に取り戻すとまでは行かないまでも、胸が苦しさを訴えない程度には落ち着いた。

壁や柱など室内の清涼な様子を観察し、そこへ唐突に投げ込まれた自分たちの不相応さを再認識もしている。釣り合わなさを見出せばすなわち、自らの特異性から目を瞑れなくなる。異常さとでも表すのがより適切か。

今留まっている場所、自治会長の居宅内の一室は温和且つ平和に溢れている。人間の持ち得ない翼や奇形の耳、数の合わない瞳や脳天の角、長すぎる牙などと元より相容れる筈はなく、だからこそ肩身は狭さを覚えるより他ない。居心地の悪さは消えるどころか弱まることもないまま、朝食が運ばれてきたのは間もなくのことだ。

 菓子皿が撤去され、代わりに中央へ置かれたバスケットにはロールパンやクロワッサンが積まれている。その脇にはレタスやアスパラガス、トマトやキュウリなどの盛られた白いボウルがあり、取り分ける為の小皿と共に各々の前には、コーヒーが添えられた。更にベーコンエッグまでが配られる。

「大したものじゃなくて申し訳ないんだけど」

 配膳を一通り済ませたところで妻は言う、口調も何処か恥ずかしげな風だ。視線を合わせることも忘れ、上半身をただ強張らせる五人に対し表情を和らげる。

「パンやコーヒーのお代わりもあるから、隣に声掛けてちょうだいね」

 言い残し部屋を出てゆくのだが、その後も空気のこわばりは改善されない。まるで室外に放置した氷柱のように、長い時間を要しながらほぐれていった緊張の糸の一本目は、パンの山へと手を伸ばそうとしている恭比の動きによりぷつんとばかりに切れた。

用意されたフォークで、炯至はレタスの何枚かを刺し口へと運ぶ。本気でどうなってんだ、発されたらしい声は咀嚼と重なった為明瞭には聞き取れない。架耶は黙って釉月の小皿にサラダを盛り付けてやる。

「何か企んでるんじゃないのか、あのおばさん」

 相手にされていないと踏んだのか、炯至の矛先は叡我に向けられた。

「それは深読みしすぎだよ、炯至」

「そんなことあるだろう、っていうか有り得ないだろう、こんなの」

 口腔内にレタスを未だ頬張ったまま、炯至は吐き捨ててきた。叡我はコーヒーの入ったカップを手に取る。

「珍しいけどね、確かに」

「珍しいんじゃなくて、ある訳ないんだよ。頭沸いてんじゃないのかお前」

 相槌に対し、返されるのは暴言だ。言い過ぎなのではないかと架耶は思うが、やはり口は噤んだままである。今の炯至を説得せんとしたところで、火に油を注ぐ結果にしかならないだろう。

サラダを食べる釉月を見るうちふと、カラスから預かっている現金の存在を思い出した。夜深まったあのテントで、投げ付けられた札束のことである。

 隣でフォークを握る左手の指は折れんばかりに細い。想像するに元来の、骨格の作りのみが影響しているのではないだろう。

もう少し太らせなければならないと、釉月の食の細さを知る架耶も考える。自分と出会った後のことはさておきそれより前、どのようにしてひとりで命を保ってこられたのか、不思議な位の貧弱ぶりなのだ。

「架耶、お前はどうなんだよ」

 結局炯至は会話の中に、架耶を巻き込むことに決めたようである。

「町の人から食べるもの分けてもらえるだけなら、別に珍しくもないんじゃないの」

「そんな問題じゃないって言ってるだろうが」

 炯至の顔は明らかな様相で気色ばむ。声色もやや昂ぶったようであり、架耶は小さく息を漏らした。判ってるわよと口にした後、相手を見遣る。

「ちょっと変だとは思うわよ私も。屋敷の中に入れてもらって、温かいコーヒーまで淹れてもらって」

「だろうな」

「でも、だからって」

 そこまで言い、不意に架耶は言葉を切る。少し声を低め、継いだ。

「私たちがどうこうできる話じゃないし」

 炯至は彼自身の持つ耳と同じ風に、瞳を尖らせたもののそれ以上の反駁はしない。僅かに眼差しのみを、宙に向け流したようだった。直面している状況に関して不満であれ満足であれ、干渉する術を自分たちは何ら備えてなどいない。

一言申し立てる権利すら持ってはおらず、全てにおいて決定権を持つのはカラスただひとりだ。当然と言うべきか、そこには生死についての権限も含まれる。

 再び沈黙へと収まった客間内、架耶は傍らの釉月に視線を戻す。味が舌に合ったのか歯触りが気に入ったのか、彼女にしては多い量のレタスを口に入れているらしい。

とはいえあくまで野菜であるから、腹持ちがよいとは評価し辛いだろう。ベーコンエッグも食べるようにと勧めればやや迷ったようだったが、拙い手付きで目玉焼きの、白身の辺りを切り分け始めている。

「でもさ、旨いよなかなり」

 ある種突飛とも言えた恭比の言葉に、炯至は眉間に皺を寄せる。声は露骨に不機嫌さを帯びた。

「久しぶりに口開いたと思ったら、何ふざけたこと抜かしてんだ」

 食い物にほだされたんじゃねえかと、雑言を吐く炯至に対し、恭比は水を掛けられた蛙のような顔だ。傷の方は大方癒えたらしい、いや消費し切れない程の量の食事を前に、食欲が体の不調を凌駕しているのかもしれないが。パンを千切り、口の中へと放り込んだ。

「有り合わせとか残り物とかじゃなさそうじゃん」

「まだ言う気か?」

「だってさ、俺たちの為に作って、持ってきてくれた奴だろ、これってさ」

 口内のものを飲み込み、恭比は言う。炯至は胸の前へと腕を組み、口を閉ざした。釉月の唇の端に付いた黄身のかけらを指の腹で拭ってやると、架耶もまた皿の数々を何とはなしに眺める。

「スタミナ付けてもらって、面白いものを見せて欲しいってことかな」

 叡我の科白は論理的であり、充分な説得力を持って響いてくる。えげつないことこの上ないなと炯至は粗く発した。同じ憂き目に、言い換えれば衆目の白い眼に晒されねばならないのならば、待遇は少しでも恵まれていた方が喜ばしい。冷めた粗食よりは温かい食事が嬉しいには決まっている。

しかしその思考は結果的に真実からずれていたこととなった。空になった食器類が引き取られていった後、一度たりとも屋外へ出ることないままに昼食が運ばれてくる。一人一皿ずつのオムライスにはトマトソースが掛けられ、加えホウレンソウやニンジンのソテーなどが付け合わされている。コーンスープ入りのカップも隣に準備された。

それらを平らげる頃、再び現れた妻は紅茶とロールケーキを盆に載せている。ここのケーキは美味しいって評判なんですよと、唖然とする一同それぞれに配りながらも、向けてくる笑顔はやはり柔らかい。皿を持った手が自分の方へと伸ばされてきたところで、炯至は口を開くことにしたらしい。為される音量は控えめだ。

「あの」

「はい、何かしら?」

 彼女は炯至を見る。表情に煩わしげな色はない。

「どうなるんです、僕たちは」

 科白は何処か詰問するかのようだ。しかしそれ以上に抽象的となった表現は、第三者にとって即座には理解しにくいものである。笑みを見せながらも妻は少しばかり怪訝げな表情を見せた。

炯至はしばし口ごもる。早速とばかりにケーキへと飛び付く恭比を脇目で睨んだ後、視線を左右に動かすばかりだ。傍らから助け船を出す恰好になったのは叡我である。

「出番はいつになる予定なんでしょう?」

「出番?」

 ひとりごちるかに口へと出す、そこにも隠されたものは見出せない。純粋に訝しげな様子であり、叡我も異質さを覚え始めたようだ。

「あの、僕たちを招いたのは、ステージに引き出す為、ですよね?」

「あなたたちを呼んだのは、ね」

 妻の口調は変わらず優しさを保っているが、一方で何処となく震えて伝わるようでもある。数秒程の間のみ途切れた形となった科白は、微かな息を挟みながら続けられる。

「罪滅ぼし、かしらね」

 正座から膝を起こし、その場へと立つ。ゆっくりとした足取りで部屋を出てゆき、襖は静かに閉じられた。スリッパが板張りの通路を歩く、擦れるような足音が聞き取り難くなったところで叡我は呟く。

「どういう、意味かな」

「そういう意味なんだろうよ」

 投げ遣りに応えるのは炯至だ。整えていた体勢を胡座へと移しつつ、僅かに仰け反る体勢を取る。叡我は紅茶を一含み分、すする。

「相手を訳もなく振り回して喜ぶような人には見えなかったけどね」

 今出ていったばかりの彼女へと、向けられた評であるのだろう。その好意的な発言を肯定せんとばかりに、大きく張った頬を上下させる恭比は炯至に睨まれた。

「そんなの判るかよ」

「でも、ちょっと可笑しくないかな?」

「何がだよ」

 投げられてくる口調にも叡我は動じない。

「言葉通りに考えるとしたら、あの人と僕たちが関係あるってことになるよね」

 叡我の言葉を聞き、炯至は黙る。脳裏には去り際の妻が残していった、罪滅ぼしとの一言が浮かんでいるのか。しかも結構深い間柄ってことなのかなと、続けられてきた方へと顰めた視線を放る。

「もしかして知り合いだったりして」

「知り合い? 誰の知り合いだよ」

「そうだなあ、炯至の、とか」

「そんな訳あるか、馬鹿丸出しだなお前」

 恭比からの軽口は躊躇わず両断し、炯至は目の前のティーカップを取り上げる。三口程を飲んだところで顔を、こちらへと見せた。何だよと乱暴な声色を突然に投げられ、思わず架耶は瞳をしばたかせてしまったもののそれは、釉月に向けての科白だったらしい。

「いまのひと」

 たどたどしい調子で釉月は言う。注がれてきている仲間たちの視線を避けるように、鼻先は下へと降りた。声は消える。

「何だよ、釉月」

 促す炯至の声にも、頭は伏せられたままだ。その動かない髪を優しく撫でてやると、釉月は上目遣いの視線を弱々しげに示す。しばらく迷うようにした後、ややあって囁くばかりに告げてきた。

「泣いて、た」

「あのおばさんがか?」

 耳に挟んだらしい炯至が割り込んでくる。釉月は恐がるように身を縮こませ、架耶の方に密着してきた。実際に泣いていたのかどうかまでは判断できない、しかし小刻みに揺れる風の肩ならば架耶も確かに見た。

一体何の為だというのか、体調が芳しくないのか、本当に贖罪意識でもあるというのだろうか。考えてみたところで心当たりなど自分にはない、ならば全く別の理由によるものなのか、それとも元々が自分たちの思い誤りでしかなかったのか? 軽く息を漏らしながら襖の方を見遣り、苛立ち紛れの炯至の舌打ちがとある瞬間に聞こえた。


 見世物とする為に招いたのではないとの妻の言葉を証明するかに、昼下がりを過ぎても招集は掛からない。客間から叩き出されるようなこともなく、カラスの冷酷な命が下されもしない。戸惑いは消えないままだが供された茶を口にしたり、恭比に至っては寝転がったりまでしている。

 夕暮れ時が迫ってきたのか差し込んでいた陽射しにも、朱の彩りが交ざり始めたようだ。覚えているか、忘れるな、との相変わらずのくだを巻く炯至に、叡我は呆れる様子もなく頷きながら応じている。

疲れたのか釉月は小さく前後へと舟を漕いでいる恰好だ。、時折は目覚めるのか恍惚とした瞳で、床の間の方を眺めたりもしている。まさかこのまま夜を迎えてしまうのだろうかと、窓を見遣りつつ架耶は考える。

失礼しますとの、低い声が廊下から聞こえたところで、和やかさは刹那にて掻き消える。皆が一斉に身を正し、叡我に揺り起こされた釉月もまたほぼ同じ様相だ。例に漏れず架耶も背筋を伸ばすが、掛けられてきた声がカラスのものではないとやや遅れて思いが至る。

勿論彼が自分たちの元を訪ねた際に、断りを入れてくることなどある筈もないが。その点を脇に避けておいたとしても耳には覚えのない声質だった。いや、かといって聞いたことのない人物のものでもなかったか。

「どうぞ」

 叡我の言葉に応え、閉じられていた襖はゆっくりと開かれる。注目する中、見えてきたのは五十代程の男の顔だ。朝出会ったばかりのそれがこの家の主のものだとは、記憶を探るまでもなく判る。

「何か不都合なところはないですかな?」

 襖を閉め直すと、三、四歩入ったところで胡座を掻き、相手は座った。応対するのはやはり引き続き、叡我の役割である。

「有難うございます、美味しいご飯まで」

「いえいえ、それより先程はすみませんでした、家内がお恥ずかしいところを見せたようで」

「あ、いえ」

 叡我は曖昧に返事を漏らす。やや当惑したかの表情を見ながら、架耶はこの室内で目にした女性の姿を、脳裏へ描き直した。やはり彼女はこの自治会長の妻だったのかと、今更ながら考えているうちに次の句が届いてくる。

「余計なことを言ってしまって、皆さんの負担にならなければいいですがな」

 心苦しげな顔を会長はする。その様子はやはり、彼の妻が見せていた悲壮さを自然と連想させた。何とはなしに顔を向けた先からは、叡我がこちらへと視線を返してきているらしい。

やや陰った表情は多分に、架耶と同様のものを思い描いている故だろう。すなわち妻が逃げるように客間を出ていった、その丸められた背中をである。

 もしかすると更に発展し、釉月の呟きをも呼び起こしているかもしれない。妻が当時本当に泣いていたのかは判らず、確かめるような術もない。ましてや今目の前にいる夫に尋ねるなど言語道断である。

そのような所業がカラスの耳に入ろうものなら、瀕死の重傷を負わされかねない。だがいずれにしろ、思い詰めたようでもあった彼女の姿は五人皆が、間違いなく目撃している。口を噤む一同に、会長は何らかを感じ取ったらしい。

どうかしましたかねと聞く、静かな声色にもまた苛立ちは含まれない。少しばかりの間を置き、軽くではありながらも頭を下げてきた。

「あ、あの、何を」

 吃る叡我の声はあからさまに上ずり、炯至の顔色は一瞬にして紅潮した。また恭比とはいえば血の気を手放したばかりの蒼白ぶりを示している。架耶の胸へと沸き上がるのは焦燥というよりももはや恐怖だ。

 しがみついてくる釉月の手の甲を掴んだ力も、無意識のうちに強まる。瀕死どころではない、客に謝らせてしまうようでは冗談でもなく誇張でもなく殺されてしまう。襲う眩暈を必死に堪える中、掛けられてくる科白を遠くに聞く。

「謝ったところで済まないとは、判っていますが」

 一息を挟み、表情を強張らせてくる。沈着さの保たれていた会長の雰囲気が、初めて崩れた。

「罪滅ぼしなどとは勝手な言い訳だと、皆さんは思うのでしょうね」

 妻が口にしていたものと、同じ単語をやはり口にする。否応なしに直面させられたシチュエーションに狼狽える中、叡我は平静を取り戻した。途切れ途切れに声を発する。

「あの、感謝こそすれ、許す許さないなんて、まさか僕たちは」

「感謝?」

 弁解めいた科白を紡ぐ叡我に対し、自治会長は訊き返してくる。一同を見回し、困惑した顔々を認めたようだった。一旦唇を閉じ、しかし眼差しは外さない。

「聞かされていないんですな、カラスさんから」

 吐息を交えつつの言葉に、皆は瞳を見開く。確かに説明し辛い話ではありますが、そう繋がれたものを耳にする架耶は、かすんだ視界が復活してゆく様相を意識した。しかし一方で深層の景色は晴れない。

理由は明らかでない。ただ次の科白をこのまま聞いていいものなのかと考えた、それは後に思えば本能から来る畏れだったのか。

「皆さんを苦しみに落とす原因を作ったのは、私たちですから」

「え?」

 炯至が気の抜けた声を漏らす、多分無意識にだ。会長は小さく頷き、

「私たちの住むこの地が、皆さんの尊厳を傷つける一端を担ったと、そう言えばいいのでしょうかね」

 微笑みは何処となく淋しげに映り、今聞かされたばかりの言葉が戯言の類ではないと、悟るには充分だ。招かれた先で口を利いてはならないと、執拗なまでにカラスから叩き込まれた教えとは関わりないところで、声を失った一同は押し黙る。

どうか詳しく知りたい、しかし知ってはならないと、アンビバレンスにも似た葛藤に顔を歪める架耶などは放置し語りは荒げられることもなく、続く。振り返る体勢を会長は取り、窓の外を見遣るようにしたらしい。

「ここへ来てから、西の山の方は見ましたかね?」

 突然の問い掛けに叡我は戸惑う。助けを求めるかに仲間たちを見るのだが、周囲にとってみたところで狼狽の極地に陥っている状況は同じだ。叡我はひとり、相手へと向き直った。

「確か、別荘か旅館か、あったような」

「あそこに建っているのは工場の跡でしてな」

「工場」

「昔武器工場があったんですよ。五十年前ですか、戦争で使われた、武器を作る為の工場です」

 武器、と叡我は呟く。話題の前兆ない飛躍ぶりにはもはや、単語ひとつを抜き出し反芻するのが精一杯だ。曖昧な理解を追随させることもほぼ叶わず、恭比や釉月も小首を少し、傾げるのみである。架耶についても知識のなさは変わらないが、ただ今語られた戦争に関しては聞き覚えがあるような気がした。

勢力争いがエスカレートした上に勃発した隣国同士の戦争は、二十年もの長きに渡り繰り広げられたらしい。独裁への不満を逸らさせる目的もあったという血で血を洗う争いは、相互を徹底的に疲弊させるだけの役目しか果たさなかった。何千もの犠牲者を生み出し、見かねた他国の仲介により為された和睦でようやく終戦を迎えたのだとは、誰から聞かされたのだったか。

スラムの隅で、排水溝の陰で雨露を凌いでいた頃、そこへ住んでいた博識な老人の口からだったかもしれない。老若構わず兵士が掻き集められ、国土の至る所では戦火により多くの緑が焼き払われたのだという。略奪や不義が繰り返され、幾つもの武器の製造工場が建設されたという話も聞かされた。戦時中にそれらの武器工場がここに建造されたのだとして、何故今彼は、かつての大戦について述べているのか。

 しかも何故それを話すのか、今日初めてこの地を訪れた自分たちと関連性でもあるのだろうか。浮かぶ疑問に関し口を挟むことは勿論許されず、ただその謎につき頭を悩ませる時間はさほど必要ではなかった。

「あそこに見える白い建物は、当時造られた工場でしてね。たくさんの武器が製造され、戦場で使われたそうですよ、今では見る影もないですがね」

 窓の外、遠景に臨める山肌を指差す。深まる黄昏の奥、そのシルエットを明瞭に捉えることは難しい。

「今はもう取り壊されていますが、当時は研究所も隣にあったそうで」

 また新しい単語が唐突に挿入され、叡我は瞬きを示したらしい。会長は元へと向き直る。

「その研究所で武器が開発され、それを工場で造っていたんですな」

「すると一撃必殺の巨人大砲、みたいな」

 恭比がふと割り込む。何処か唄うかの口振りに気分を害する風もなく、会長はただかぶりを振った。

「改良型の化学性爆弾でね」

「化学性?」

「爆発による被害というよりも、着弾した時に出る薬品により攻撃の効果を狙う、そんな兵器だったと聞いていますよ。広い範囲を一気に攻撃できる」

 叡我の声に対して頷いてみせた、会長の表情からは再度笑顔が遠ざかる。続く科白の中、武器から兵器へと置換された表現が、架耶には引っ掛かっていた。ただそれだけで、響きはひどく嗜虐的に届く。

「効率的な反面、命に害のあるものを撒き散らしていて環境に良い訳はないですな。判っていても研究所は軍命に従い、化学兵器を開発し続けた。莫大な報酬が与えられ、金に目が眩んで威力のより強いものを作り、お陰でこの炭坑の町は豊かになったということです」

 口調は皮肉げである。自嘲気味とでも表すべきか。かつての戦争に喜んで与したこの地の過去を、快く感じていないとは訊かずとも判る。

「愚かなことです。軍からの研究費を得たい、増やして貰いたい目的で、彼らは催奇性を備えた爆弾も躊躇わず作ったのだからね」

「サイキセイ?」

「ああ、奇形を催す性質と、そう書きますよ」

 彼は腹を立てた風もなく答える。

「奇形を、催す」

「体内に取り込まれた毒性が、人体に甚大な悪影響を及ぼすということですな。影響を特に大きく受けたのは妊娠した女性と、そのお腹の中の赤ん坊でしたが」

 学術性を心持ち帯びた説明に、架耶はこの上ない不安に駆られる。やはり聞くべきではなかったのではとの、考えが脳裏をよぎったがもはや間に合わない。時間を逆行する術もない。

「その毒を体に、細胞に吸収した人の中には、不幸にも遺伝子を換えられてしまった人もいましてね。例えばそう、耳の形を角張ったものにされたり、牙が生えたり、瞳の数が他の人と違ったり」

 声も音もなく、場の空気は刹那にして凍て付く。それは単に具体的というのみに留まらない。

今列記されたのは炯至であり、恭比や叡我のことであるのに他ならない。しかしつまるところどういう意味なのか、明瞭に把握する為には話題の流れが急激すぎていた。背中に翼を生やしたり、そう継がれた科白からも偶然の一致でないのだとは、疑うべくもない。

 会長が、また妻がひとりごちていた罪滅ぼしとの単語を架耶は思い起こす。親に捨てられる原因となり、辛酸を舐め迫害の理由ともなった異形の特徴が、自らの不幸を生まれながらにして決定づけた。しかしそれらの受難は始めから、他人の手により強いられたものだったというのか。

互いの姿を見、観察するのは相手の表情ではない。自分たちより他の人間には持ち得ない異質な部位だ。共同生活の中で見慣れている筈のそれらから、全員が視線をずらせない。


 化学兵器が環境を激しく汚染したのだなどと解説を受けても、正直なところよく判らない。遺伝子異常により、奇形の胎児が多く誕生したのだとの話を、予備知識も殆どないまま聞かされてみたところで理解できない。武器工場の残る山の向こうへと陽も完全に落ち、運ばれてきた夕食の席に就きながら架耶は思う。しかし何ひとつ掴めていないとの訳でもない。

五十年も前の内戦の残滓が後に生まれた自分たちの、見世物としての運命を決めたらしいと知った。更にこの町に住む人々は、その事実を知っているらしい。自治会長たちの口にした「罪」との一文字が表すのもまた同じ種なのだろうとは、想像に難くない。

だとするならば今日、街角で体験した侮蔑から乖離した対応についても、得心が及ぶ。転倒した釉月へと優しく手を差し伸べ、通りを歩く自分たちに遠巻きにするでもない眼差しを注いでいた。会長は言った、架耶たちのキメラとしての苦しみがあるが故に、ここの恵まれた暮らしは叶うのだと。

唐突に打ち明けられてもそれは他人事、あたかも別世界の話だ。ましてや怨嗟など生じよう筈もない。やや呆けた思いのまま、並べられた食事にありつく。一同にとってもうひとつ、重要な真実がある。

この町の中にいる限り自分たちは見世物に身をやつす必要はない。物珍しい異形として振る舞わなければならないこともないようだ。

 あまりに羽目を外しすぎてしまえば殴打の一つや二つ、カラスから飛んでくるだろうが。そういえば彼は今どうしているのだろうと架耶はふと思う、この家を訪れた玄関で別れて以来一度も姿を見ていない。

滞在中の遭遇は誰かに対する折檻へと繋がるのだから会わない方がいいには決まっている。ただし自分自身も把握していなかった事実を、教えられた今となっては思いも別だ。

 キメラの正体について彼は知っていたのだろうか、いや知ってはいたのだろう。カラスから真実を聞かされていないのかと、会長はそうも言っていたのだ。

すなわち全てを認識した上で胴元として団を率いていたことになる。皆を恐怖と暴力により隷属させてきたのはこの町で化学兵器を作っていたという研究員と同様に、金を得る為なのか。

 しかしそこには矛盾がある。軍用品の開発とは異なり見世物の一団、しかも六人程度のグループに大きな利益が動くとは想定しにくい。脳裏をよぎるのは天幕の下で横たわっていたあの半裸身であり、明瞭なまでにそれを思い出せることに我ながら架耶は驚く。

 網膜の奥にあるのは淫靡な雰囲気だけではない。花吹雪の如くに撒き散らされた紙幣のモノクロームもまた、水面に載せられた花弁のように浮かんでいる。

同じ軒の下、何処かの一室で彼も作りたての食事を口にしているのか。自分たちが好奇に晒されないのと同様に、この町でカラスが身を売ることもやはりないのだろう。

「ある意味、俺たちにはぴったりの場所だよな、ここは」

 炯至が言い、架耶の思考の流れは遮断される。腕を組みながらの声は、いつもの高慢な風だ。

「どういう意味?」

「昔をずっと覚えてる町、ってことだからな」

 含みの持たれた科白の中、表された言葉に架耶は眉を寄せる。よく聞き慣れた、ほぼ口癖とも言えよう「覚えている」との一節は、炯至の心理が平常に近くなりつつある証拠か。

「確かにそれは、そうとも言えるかもしれないけど」

「何だよその言い方、何か不満なのか?」

 即座に口さがない声が返り、架耶は溜息を漏らす。心配するように視線を向けてくる叡我には、敢えて気付かないふりを装った。

「結局判ってないじゃない、私たちがここに連れてこられた理由だって」

「詫びの為だって、聞いてなかったのかお前」

「本当にそれだけだと思ってるの?」

 話を収めず、問い掛けてくる架耶には不審さよりも苛立ちを覚えたらしい。炯至は仏頂面でお前喧嘩売ってんのか、吐き捨ててきた。

「売る訳ないじゃない」

「じゃあ何だよ」

「この町に呼ばれたのには罪滅ぼしがあるのかもしれない、会長さんもそう言ってたし。でもそれはあくまでこの町の事情じゃないの」

 炯至は話を聞いてはいるようだが、顰められたままの表情からも架耶の意図が理解できていないことは明白だ。皆の中でのリーダー格を気取っている以上沽券に関わるとでも思っているのか、説明を求めてくることはない。

見るからに満足した様子で鯵の塩焼きへ食らい付いている恭比の肩を、八つ当たりでもせんばかりに肘で打っている。衝撃で横倒しへとなりかけ、慌ててテーブルの縁に取り付きつつ体勢を立て直している仲間の姿に苦笑した後、叡我は架耶へと眼差しを向けてくる。

「団長の、ことかな」

 控えめに告げられてきた問いに、架耶は僅かに頷いて応えた。敏感に意を察したのか、それともあらかじめ同じことを叡我も気に掛けていたが故に言い当ててきたのか。しかしいずれにしても紛れなく、自分の思いと表された言葉を比べれば同じものだ。

確かにこの町の代表であり、この家の主でもある自治会長は戦争の罪の象徴とも言えるキメラの一団へと、償いを込め誘いを掛けてきたのだろう。今も続く厚遇からも、それは想像の域には留まらない事実のように思える。

しかし招きを受けたカラスにとり、そのような事情は関わりない筈だ。難しく考える必要はないのかもしれない、今までも東西南北構わず、見世物として連れ回されてきている。何処へであれ呼ばれれば無条件で、応じるとのスタンスである可能性も否定できない。

そもそも彼はキメラの出現理由についてはともかく、この明るい町の抱える影についてまで、承知しているのか。もしも知っていたとするならば何故、異形披露のステージなど決して開かれはしない地へ、自分たちを連れてきたのか。一旦疑問に気付いてしまえばそれを収めることは難しく、架耶の考えをより深みへとはめてゆくばかりだ。

もしかしたら全ての用件を終え、町を辞したところで皆へ暴力を加えるつもりではないのか。身を隠したままでいるのはその為のあらを探しているのではないかとの、強い疑念まで浮かぶ程である。

「心配しすぎじゃないかな」

 軽い調子で叡我は言い、置かれた茶色の椀を取り上げる。そこへ入れられた味噌汁を一口すすった。少し息をつき、架耶は表情を緩める。

「そうだといいんだけど」

「どっちにしても僕たちには、何もできないんだし」

 続けられてきた口調から、深刻さや他意は伝わらなかったもののその分、現状を再認識させるべき価値を持つ。ここで仲間と揚げ足を取り合い争ってみたところで、また何を悩んだりしたところで解決策が出てくる訳でもない。

可能だとすればこの与えられた部屋の中で呼吸を潜めて過ごし、拷問の機会と理由を狙っているのやもしれぬカラスに付け込まれる隙を、極力減らしておくこと位だろう。簡単ではありながら、もたらされる結果を考えれば最も効率的なものとも言えるか。

一度だけ首を、縦へと折ってみせる架耶に叡我もまた、嬉しそうに同じ首の動きで応える。茶碗の縁から外し、上げた唇には二センチメートル四方程のものがあり、一体何かと瞳を凝らしてみればワカメだ。

 味噌汁の具が付着したらしい。指を差し教えてやれば、恥ずかしげな面差しで叡我はそれを取る。くすくすと、脇から微かに聞こえたのは釉月の声らしい。見遣ればいつも恐れにこわばるばかりの表情も和らいでおり、彼女の笑顔を目にするのも久しぶりだと架耶は思う。

 何の気なしに眼差しを投げた炯至の顔はすぐに、顰められてしまったもののそれ以前は少し、綻んでいたらしいと判る。現れた会長の妻はもはや何も具体的には語らないながら、変わらぬ笑みを絶やさないままだ。

テーブルの上に散乱した茶碗や皿などが下げられていった後には、畳へと五人分の布団が敷かれる。太陽の香りのする布団は柔らかく、潜り込めば自然会話は減っていった。いつぶりだろうか、列車でもテント内でもなく、脚を伸ばして過ごせる眠りは安穏としたものだ。

その夜架耶は夢を見たような気がするが、内容については釈然としない。目を覚ました時には胸の下辺り、爽快とは言い難い感触がある。来たるべきものからの予感でも、過去からの疼きでもないように思える、それが何を自分に伝えているのかは判らない。安楽すぎる状況からの警告だろうかとの根拠のない考えまで、浮かんでくる程だ。


 翌日もよく晴れた空となった。パンにコーヒー、サラダとのメニューの取り合わせも昨朝と同じであり、違うのはベーコンエッグの代わりに、スクランブルエッグが用意された点である。朝食を終えて一息つき、コーヒーを口にしながらくつろぐところで会長が顔を覗かせた。

「ずっと部屋の中にいるだけじゃ退屈でしょう」

 空いた食器を集めながら話し掛けてくる。

「休憩したら少し外にも出てみますか」

 声を向けられたのは叡我だ。五人のリーダーと見なされているらしい。自負が損なわれたのか顰め面となった炯至を尻目に、叡我は口ごもる。

「外へ、ですか」

 途切れながらの科白は、どう対応すべきかと当惑した結果だろう。周囲へと頼りなげな眼差しを注ぐのだが、例によって仲間からの助力を得られずに半ばうなだれている。そんな彼を気遣うのは会長だ。

「恐いとか、そういったことを気にしてるならそれはないですよ」

「いや、そんな」

「どんな扱われ方を皆さんがされて、我慢を重ねてきたのか、私らに詮索する権利はありません。でも皆さんを辱めるような人間は、この町にはいませんから」

 カラスの為すそれのような、有無を許さぬと言った風ではない。口調は温和さそのものながら、しかし何処となく強靱なものを感じさせてくる。架耶と叡我が顔を見合わせる中、炯至の声が粗雑に響く。

「俺は遠慮しておきます」

 乱暴な口振りに架耶は視線を向けるが、炯至に意へと介した様相はない。それどころか腕を組んだ仕草は不遜なものだ。

「長旅の疲れがまだ取れてませんかな?」

「それもありますけど、まだ治り切っていない傷がありますので」

「それでしたらよく効く膏薬を持ってきますよ」

 炯至の発言は明らかに当てこすりを含んでいるのだが、対象たるカラスが同席していない状況では何ら意味を成さない。ましてや事情を全く知らない部外者がそれを聞かされてみたところで、皮肉などは伝わらないだろう。

 口調の荒さも体の不調が故と見なされて終わりだ。結果、目論見が外れた炯至は苦虫を噛み潰した表情をしているのであり、そうしているうちに汚名返上の糸口を発見したらしい。ただしそれは無理矢理に仲間を巻き込む恰好であり、ほどいた腕の先で恭比を示す。

「こいつもまだ休ませておいてください」

 ソーサーへと載せたままのカップを傾けるようにし、顎をテーブルに置きつつコーヒーを飲んでいた恭比は仰天したらしい。突如顔を上げた拍子にカップはかちゃりとやや大きな音を立てたが、半分程にまで減っていた中身がこぼれることはなかった。

「まだ癒えてない傷があるんで、こいつも」

 言い捨てるように口にした後で手を振り上げ、炯至は恭比の背中を攻撃しようとする。ただし寸前で相手に身を躱された為、実際に殴るまではいかない。

外出に乗り気ではないとの意思を会長は読み取ったようだった。穏やかな面差しはそのままに、顔だけを動かす。

「お嬢さん方はどうです?」

 不意に話を振られ、架耶はややばかりうろたえる。

「私たち、ですか」

 声を漏らしたところで、身をこわばらせている釉月の様子を悟る。俯き加減の仕草は、誰がどう見ても自然な言動が可能とは思われないだろう。彼女へと火の粉が及ばないようにと望むのならば、やはり自分がストッパーとなるより他ない。

「評判のいいワッフルのお店があるんですよ。知り合いの女の子がやってるお店なんですがね」

「ワッフル?」

 初耳のその単語には都会的な響きがある。

「今日は天気もいいですし、日光浴を兼ねて食べに行くのはどうですかな?」

 勿論無理強いはしないですがと会長は付け加えてくる。一室へと閉じ籠めている現状に対し、済まなく感じてでもいるのだろうか。あまりに大きな誤解だが、そう直接告げるのはある種、相手の間違いを指摘してしまうことにもなるのだろう。

カラスに言わせれば身分不相応な行動であり、だとするならば後の被害を防ぐ為にも黙っておいた方がいいか。躊躇っているうち右肩の辺りに、軽い圧力を覚える。テーブルを挟んだ前方には炯至と恭比が座り、向かって左側の縁に座しているのは叡我だ。自分の右側に佇むのは釉月である。

悩むまでもない。眼差しを向ければ、想像通りこちらへと示された上目遣いに迎えられる。しかしその面持ちの方はと言えば想像に反し、ほのかながら希望を伝えてきているようだ。架耶は少しばかり驚くものの、不審を抱くとの程ではない。

外出にかそれともワッフルなる未知のものに対してか、判然としないが興味があるというなら力添えをしてあげてもいいだろう。この町を離れれば次、自由行動の機会に恵まれることなどあり得ないのだ。

勿論その店と会長宅との単なる往復だろうから、完全なるフリータイムにはならないのだが。考えを巡らせたところで架耶はふと、ここへ至る途中に見掛けた薬屋を思い出す。置かれた状況の激変ぶりに翻弄され、忘れてしまっていたようだ。あの、と控えめに声を発する。

「はい、何です?」

「もうひとり、彼にも付いてきて欲しいんですが」

 指された叡我は自分の顔を、指先で示す。僕が? とでも言いたげな顔だ。

「実は、常備薬の在庫が少なくて、できれば」

「ああ成程、薬の補充ですか。勿論いいですよ。どう言った種類を?」

「あの、怪我人の手当てが主なので」

「それなら薬剤師のいる薬局の方が具合が良さそうですな。相談もできるし」

 気にしないでください、ちょうど通り道に一軒ありますからねと、明朗な口調で会長は言う。会長は腰を上げ、彫りの深い作りの顔へと笑みを浮かべてみせた。廊下の外へ立ち去る足音が捉えられなくなった後で、叡我が身を乗り出してくる。

「釉月には甘いよね、架耶は」

「ごめん叡我」

「僕はいいよ。薬の買い込みに荷物持ちはいた方がいいだろうし、外も気持ち良さそうだしね」

 屈託なく綻ばされる面差しに、架耶は安堵する。表されるのはおどけたような口調だが、荷物係としてのみ同伴を頼まれているのではないとは当然、承知しているのだろう。女の子二人だけじゃ色々と不安だからねと、和やかに言いながら体勢を戻す。

 脇へと視線を落とした先、釉月もまた破顔している。久しぶりに見る明るい表情にひとまず、架耶は会長からの誘いを受け入れてよかったと率直に思う。

 ワッフルが何たるかは訊きそびれてしまったが、その店内に客がいないことはないに違いない。恰好は整えた方がいいのだろうと、浮かんだ自分の論理に架耶は唖然とした。いや、考えとしては多分間違ってはいない。

多少なりとも自分をよく見られたいとの思いを、抱いたことは今までにあっただろうか。架耶には思い出すことができなかった。釉月の衣服の皺を軽く直してやり、背の羽根に付着した埃に気付くと取り除いてやる。黙って出たりしてバレたらどうするんだよとの、炯至の悪態は聞こえていないふりをした。

釉月の長めの髪のもつれを、手櫛でほぐすうちに襖越し、声が聞こえる。会長が呼びにきたものらしい。

「そろそろ出られますかね?」

 慌てて架耶は立ち上がる。真似るように釉月も、次いで叡我も腰を上げた。その動作は軽快であり、舞台へ追い立てられる際とは雲泥の差である。

「それじゃちょっと行ってくるから」

「はいはーいっと」

 半ば鼻歌のような調子で、返してくるのは当然ながら恭比のみだ。座ったまま、掲げた右手をひらりとばかりに振っている。顰め面のまま無反応を通す炯至と並んでいればこそその愛想よさは歴然としており、架耶も笑いながら手を振ってみせた。


 家屋の前には車が停まっていた。白い中古の一般車である。車体のところどころには修理跡なのだろう、重ねられた塗装のむらも幾らか見受けられる程だ。

会長の所有する一台らしい。そろそろ買い替えたいんですが家内の許可が下りなくてね、と運転席に乗り込みつつ笑う。開けられた助手席のドアを目の前に、しかし三人はまごつく。

列車でもなく、ごく普通の車に乗ることに慣れていない所為だ。勿論どのようにして乗り込むべきか知らないのではないが、一歩目を踏み出すには勇気が必要だ。

 怪訝げな表情を浮かべた会長が、助手席のシート上にまで首を伸ばしこちらを見ている中、やはり先陣を切るのは叡我だ。後方に突っ立ち動かない恰好の二人を確かめ、やがて心を決めたらしい。

 大柄な体を腰から折り曲げ、車内を覗き込むようにする。話し合いが付いたと理解したらしい会長の顔は、奥へと引かれ収められた。空いた助手席に叡我が入った後で、架耶と釉月も後部座席へ着く。

背筋を伸ばし、かしこまりながら腰を下ろすシートは尻が沈む程ではないが、弾力性は座るに適度なものだ。走り出した車の揺れは体へ伝わるものの、痛みを感じることはない。

「先にどっちに行きますか?」

 ハンドルを握る会長が尋ねてくる。

「じゃあ、薬の方を」

「しなきゃいけないことを先に済ませておいた方が、気も楽ですしね。こちらもゆっくり挨拶できることだし」

 やや考えた上での叡我の答えへ、会長は納得したように返してくる。数分程そのまま流した後に車は路肩へと寄せられ、停まった。着きましたよと告げられ窓の向こう、脇に目を向ければ薬局らしき構えがある。先んじて見掛けていたものとは別の店らしい。

 三人が車から降りたのを確認し、会長もまた運転席から出てきた。車内で待機しているものかと考えていた架耶は少しばかり驚く。しかし自分たちだけが単独で入店するより遥かに、彼の同行があった方が望ましいのは明白だ。

 架耶たちは町民ではなく、更に異形の者でもある。この地がどのような闇を抱え、過去の傷が住民にどんな影を落としているのだとしても、その事実に変わりはない。俯くようにしながら店内へ入れば、明るい女性の声に迎えられる。

「あら、会長いらっしゃい。ということは皆さんは」

「傷の手当て用の薬がいるみたいでね、見繕ってやってくれるかな」

「お安いご用ですよ、あたしにどんと任せといて下さいな」

 やや恰幅の良い中年女性が、カウンターの向こうから豪快に笑う。ふと思い出されるのはスラムに身を寄せていたあの頃、窃盗や恐喝やと繰り返す連中を叱り飛ばしていた五十歳程の女性だ。家なき少年たちの首根を鷲掴みにし、いい加減にしないと胸張った大人になれないんだよと、口にしていた彼女の面影に、目の前の姿は重なりつつ脳裏に届く。

それは苦々しい感覚ではない。緊張し入口近くから動けずにいる三人に手招きすると、壁際の待合コーナーへと来るよう彼女は促してきた。会長を含めた全員が移動したところでテーブルの上、所狭しと薬を並べつつ効能について話してくる。

これは貼り付けた場所を温めてくれる湿布で、こっちは冷やす方ね、この膏薬は塗るとすっとするけど結構染みるから気を付けるんだよと、続けられた簡素な説明は不意に終了する。薬剤は全てテーブルの中央に掻き集められ、セールストークなどまるでなかったかに紙袋へと収められてゆく。

「薬なんて幾らあっても、これで充分なんてことはないんだからね。古くなっちまったら捨てればいいんだし。とりあえずこれだけ持ってきなさいな」

 放り込まれる薬が袋の中でぶつかり合い、音を立てる度釉月はびくりと首筋を硬直させている。手にしたチューブ式軟膏もまた同様に、店主は袋へと投げ入れた。小さな、軽い金属音がする。

「でも、僕たちお金はそんなには、勿論少しはありますけど」

 戸惑いを隠せないでいる叡我は、懐から小さな布袋を取り出す。示された紙幣のうち何枚かはひどくよれており、強く握り込まれた跡を残すそれらは架耶がカラスから受け取り、叡我へと託したものに違いない。店主は顔の前で、腕を大袈裟に振ってみせてくる。

「なあになに、おまけだって。気にしないで有難く貰っておおきよ」

 この程度で有難くなんて言うのもどうも押し付けがましいけどねえ、可笑しげに笑う。

「でも、それじゃ」

「なんて言っても、全く払いがないのも流石に困るかねえ。そうだね、そのお札一枚、置いてってくれればいいよ」

 布袋をおもむろに指差し、彼女は朗らかに言ってのける。薬価の相場についてはよく判らない、しかしこの紙幣一枚で足りないことなど疑うべくもない。叡我は架耶の方を見遣り、しかし自分と同じ困惑顔を発見するだけのようだ。脇に座る会長へと次いで視線を向け、

「折角そう言ってくれてるんだから、遠慮なくどうぞ」

 しかし返されてきた科白に、迷う心を収めたらしい。恐る恐る差し出す一枚の紙幣の代わりに、その紙袋を受け取る。

「はい、まいどあり」

「あのう、有難う、ございます」

「嫌だねえ、そんなかしこまらないでおくれって。こんな町にわざわざ、足伸ばしてくれたお礼代わりってのもあるんだからさ」

 相変わらずの磊落さで発されてくる声色に対し、紙袋を重たげに抱える叡我は何故か顔を半ば背けるようにしている。瞳を時折しばたかせてもおり、彼らしくない態度に架耶は不審さを覚える。

店主を見るうち自分と同じように、過去の記憶が呼び覚まされたのだろうか。もしかしたらそれは母との思い出辺りだったのかと考えたが、尋ねることは憚られるまま薬局を後にした。停車前と同じ形で車内に着席し、走り出した車は五分程で再び停車する。アイドリングの振動もじきに消えた。

「さあ、ここです」

 会長の明快な宣言が響く。先に車から降りた釉月は間を置かず短い歓声を漏らし、その理由はすぐに知れた。十メートル程の距離を置き、多数の花で飾り付けられている店が視界に映る。オープンテラスと言うのだろうか、外へと繋がる恰好で設けられた客席には既に、何組かが就いているらしい。

向かい合い座り、談笑する年輩の男女がいるようだ。また別の席にはコーヒーカップを傾けるスーツの男性や、文庫本を広げるパーカー姿の女性なども見える。アイボリーで統一されたテーブルや椅子の周りには陶器製の鉢が幾つも置かれ、植えられた赤や青、白や黄などの彩り豊かな花が咲いているようだ。

祭などに招かれることもままあるから、色付いた町並みを目にするのが稀という訳でもない。しかし記憶上にあるそれらとは何処か印象が異なる気がする。店頭の壁には斜め格子で組まれた木製の間仕切りが設置され、そこへ掛けられた幾つもの小さな鉢には、ピンクやブルーの小花が開いている。

多色織り交ぜられておりながら奢侈や派手との感想は生じない。淡色が大半であるとのことに加え、互いの色彩の相性を考慮した配置や、空間的な統一性を計算したインテリアデザインが実行されているのか。見慣れた穏やかな様相へと戻っている叡我の背後ろに付きながら、架耶は辺りを見回す。

先程訪れていた薬局の建つ周辺が、商店街に近い雰囲気であったとするならば、ここは高級住宅街を思わせる。一見したところ視線に止まるのはレストランや花屋、ベーカリーやブティック、ケーキショップといったところか。

白亜の豪邸は建っていないようだが、比較的新しい建造物の並ぶ情景は瞳に眩しい。会長が先に立ち、案内する目的地はやはり、花に彩られたその店先へだ。オーナー、呼び掛ければ若い女性が顔を見せる。

「いらっしゃいませ」

 結わえた茶の髪を頭の後ろに纏め、清潔そうな白いコックジャケットに身を包んでいる。紺のスカーフを首へと巻き、示されてくるのは柔らかな笑顔だ。

オーナーと呼ばれたところからするに、この店の経営者なのだろうか。まず会長を見た後に引き続き、三人の方をも見る。

「オーナーのお薦め三つと、私はいつものあれでお願いするよ」

「今すぐ作りますね、じゃあお好きな席にお座りになってて下さい。ああ、会長のお気に入りのテーブルも空いてますよ」

「そちらに失礼しようかな」

「かしこまりました」

 軽く頭を一度下げ、彼女は足早に引き返してゆく。会長に連れられた壁際の席に向かう為、店内へと足を踏み入れればほのかに甘い香りが匂ってきた。

足元の鉢の上、紫の花の方に座り込もうとしている釉月の手を取り、架耶は前へと急いだ。辿り着いたテーブルには先行の二人が既に座っている。

「騙されたと思って期待してください、気に入って貰えると思いますよ」

 会長は何処となく矛盾した科白を、嬉しそうに語る。しかし何が出されてくるものなのか、未だよく掴めていない側としては相槌も打ち辛い。

腹持ちのしそうなボリュームのある料理ではなく、甘味の類が運ばれてくるらしいとのことだけは、漂う香りから想像はできたが。叡我と架耶が愛想笑いを浮かべる一方で釉月は、周囲へと下目遣い気味の視線を注いでいる。

 あちらこちらで開く花の存在が、やはりどうしても気に掛かってしまうのだろう。元より草花を間近で愛でたがる彼女であるから、ごく自然な反応とは言える。色とりどりの花冠と同じく、それを生ける鉢や各席に添えられた花瓶もまた多様だ。

 他の客の話し声は途切れずに流れ、差し込む午後の陽光とも相まって辺りは明るい雰囲気に包まれている。それとは別、少しばかり堅めの空気がテーブルを囲む中、先程の女性が再訪するまでには長い時間も要しない。直径にして二十五センチメートル位だろうか、デザートの盛られた平皿は会長と釉月の前に一枚ずつ置かれ、一旦引き返した彼女の手により叡我と架耶の前にも同様に用意される。

 架耶は白い皿を凝視する。中央には焼かれた厚切りのパン生地らしき物体が何枚か折り重なり置かれ、表面に刻まれたの格子型の焼き跡は凹凸を見せている。その上には球状にくり抜かれたものが載せられており、これは多分アイスクリームの類だろう。

更に木苺やラズベリー、ストロベリージャムなどで飾られているようだ。生まれてこの方、初めて面前にさせられているそれは周囲の花に通ずるカラフルさの所為もあってか見目にも好ましい。

 会長用の一皿だけは構造的には同じようでありながら、アイスクリームの色が白から鶯色へと置き換わり、苺類ではなく小豆が添えられている。皆さんにはこの店一押しのベリースペシャルでと、満面を綻ばせながら解説した会長は、ああ手掴みじゃなくてナイフとフォークで切って食べた方がいいよと、ふと続けてきた。

彼から見てテーブルを挟んだ正面の位置、皿に右手を伸ばそうとしている釉月へのアドバイスだったらしい。様子を察したオーナーが近付いてくると、持参したケーキナイフでワッフルを切り分ける。他の二人の皿も手付かずであるのを見て取ったか、そちらにも手早くナイフの刃を入れる。

木苺らを潰さぬようにと、上手く避けながらカットしてゆく動きは流れるようだ。無意識のままで眺めているうちに架耶はふと違和感を覚える。今披露されている迷いのない技に関してではない。

 眼前からのものではなく、周囲から伝わった気配とすべきか。テーブルの上を見つめた首の角度のまま、視線だけを巡らせた。いつの間にか周りを取り囲んでいる、群衆までの距離は目測して五メートル程か、いや三メートルか。

遠巻きにしているものともやや違うようだ。その影の多くは店先に並び、顔を伸ばす風で示されているらしい。店先へと通り掛かったところでこちらに関心を引かれたという辺りだろうか。

 若い、ないしは壮年頃までの男女の顔が目立つようだ。そこに浮かべられているのは嘲笑でも憐憫でもなく、温かな面差しである。届いてくる声も下卑た、好奇的なものではない。

興味津々な響きもない。可愛い、などとの女性かららしき囁きまでもが聞こえてくるうち、ワッフルを切り終えたオーナーはにこりとばかりに微笑んでくる。有難う助かったよとの会長の言葉に会釈して下りた頭越し、纏め髪がひとつ揺れた。

厨房に帰ってゆく道すがら、店先へと詰めるひとりに彼女は呼び止められたようである。五十代程か、黄色いワンピース姿の女性に何事か話し掛けられたらしい。軽く頷いてみせている様子はごく、柔和な風である。何を話しているのだろうかと疑問は少し抱くものの、心を凍て付かせるような感覚は追ってこない。

 人の、また瞳の数が多いにも関わらず印象に冷ややかさはなく、或いはそれが自分へ違和感を与えている理由なのか。今までに訪れてきた町ならばこうは行かない。

この明白なまでの落差もやはり会長の語った、キメラに対する認識の差異によるのだろうか。視線を戻せば眼下、アイスクリームは焼きたてのワッフルの上で溶け始めているようだ。

 生地のかけらをこぼしたりしつつも完食したそれは、言い表すとするならば上品な甘さを備えていた。まだ膨らませた頬を動かしている釉月の相好は崩れたままである。叡我も満足げな様相であり、架耶にとっても心境としては似たものだ。

食後の紅茶をも飲み干し、会長の運転する車で元の家へと帰る。玄関に入り、通路を幾らか進んだところで真横の襖が大きく、無造作に開かれた。

 自分たちにあてがわれた客間までは、まだ遠い。そこへ不意に現れた黒ずくめのシルエットを目撃し、急激に動悸が生じるのを自覚した。言葉はしばしの間誰の口からも発されず、心臓の鼓動すら聞き取れるのではと思える程の静寂が流れる。

「すみませんな、少しだけ案内しましたよ」

「ええ」

 会長の弁明に、カラスは一言のみで応じる。口調には抑揚がなく、架耶は思わず顔を背けた。幾ら誘われたのであっても外出など、するべきではなかったのではないか。

架耶を無為な瞳が捉える。開かれた薄い唇が、言うことを聞いたみたいだなとの低い声を紡いだ。しかしそれ以上継がれる言葉もないまま、カラスは未練なく外した眼差しで釉月を射た。

「来い」

 その単語ひとつのみを言い捨てた直後にはカラスの暗い瞳は、四人に対し背けられている。開け放たれた襖の隙間、その奥へと細身の姿は滑るように消えた。

一歩も動けず立ち竦んでいた釉月は叡我に背を支えるかにして押された後、目の前の部屋にひとり入ってゆく。白い翼が見えなくなったところで、襖を静かに閉めたのは会長の手だ。

「あの子のことは彼に任せて、皆さんは先に戻りますかな」

 確かにここに佇んでいても仕方がないだろう。架耶は叡我と視線を合わせ、小さく頷く。

「ではお茶でも淹れさせますね」

「あの、それは」

「先に戻ってくれますかな?」

 断ろうとした声はもしかすると聞こえなかったのか。会長は皺の上に和らげた面持ちを残し、進んできた方向へと通路を引き返してゆく。架耶は困惑したが、かといって呼び止めさせてしまえば却って、非礼となってしまうだろう。

締め切られた建具を数秒の間凝視し、二人は足音を押さえつつ場を離れた。架耶は凍るような緊張感が薄れてゆくのを自覚する。

 カラスの居所から次第に遠ざかっている故なのか、考えた後に飛来するのは罪悪感だ。今尚彼の元にいる筈の釉月の恐懼ぶりを思えばそのような自己中心的な、かつ楽天的な思考などは抱いてならない。ましてや彼の無機質な視線に真っ向から、晒されているさなかかも知れないのだ。

 自己嫌悪はやがて疑念を呼ぶ。何故釉月のみを、カラスは呼び付けたのか。無断で待機場所を離脱したことにつき、腹を立てているのだと推測するのが自然なのだろうが、しかしそうだとすれば他の二人も明らかに同罪だ。

更に言えばその事実を承知しながら黙っていた、炯至や恭比までもが連帯責任を問われたとして不思議ではない。疑問は解決しなかったものの、一方で別の謎に関する答えはふと導かれた。

言うことを聞いたようだと、先程カラスが口にしていた科白についてである。釉月を太らせろと彼は以前、架耶に厳命してきていたのだった。

とすれば彼女を外へ連れ出し、高カロリーのものを食べさせたことに対して一定の評価が為されたということか。そんな考えはあまりに都合主義すぎるだろうかと、自問を繰り返すうち客間へと到着する。襖を開ければ恭比の明快な笑顔に待ち構えられた。

「お帰り、二人とも。って釉月は?」

 ひとり足りない仲間の名を挙げてくる。架耶はテーブルの端に座った。

「団長に捕まってる」

「え、何で? どうして?」

 途端に目の前の顔は驚愕に包まれる。

「何かポカでもしたの、釉月?」

「そういう訳じゃないとは思うけど、気に障ることでもあったのかもね」

「だから軽率な真似はやめとけって言ったんだよ、馬鹿共が」

 乱雑な声の投げ付けられてきた方向を、架耶は見遣る。嵩に着た口調から想像可能なままの、上手に構えた炯至の態度がそこにある。

「そんなに滅茶苦茶には怒ってる感じじゃなかったけど」

「判るもんかよ、あいつのことなんか」

「私でも叡我でもなく、あの子だけを殴り付けたりはしないでしょう、幾ら胴元でも」

 薬入りの袋へと鼻を突き入れていた恭比が顔を上げる。瞳を悪戯っぽく輝かせた。

「あの人も欲求不満なのかもよ、ここじゃどうもご無沙汰っぽいし」

 言い終わるか終わらないかのタイミングで、彼の顔面へは拳が一発飛ぶ。全く予期外の攻撃だったのだろう、回避も防御も実行できない状態で、踏み潰された蛙のような奇声を発すると恭比は仰向けに転がった。

その膝から落下した恰好の紙袋もまた畳へと倒れ、口からこぼれた様々な薬の箱が、さほど広くない範囲に散乱する。伸ばした右腕を突き出した仕草のまま、炯至は怒号を上げた。

「冗談でも言っていいことと悪いことの区別位、いい加減に付けろ!」

 荒くなった息に合わせ、肩を上下もさせているようだ。眼前の憤怒の様相は偽善の色も帯びておらず、架耶はややばかり呆気に取られながらも同時に、感心にも似た思いを抱くことになる。彼の正義感、仲間意識と呼べるものは確かに、皆の中でも強固なものだ。リーダー的役割に立つ者、若しくはそう自称する者としての矜持なのかもしれないが。

 時に不遜さを晒け出しもする自己主張ぶりも仲間たちの先に立ち、導かねばとの意欲が空回りしてしまう為なのか。その結果として迷走してしまいもするのだろう。体を起こしてきた恭比は流石に失言ぶりを反省したのか、気まずそうな顔をしている。

 殴られ朱に染まった鼻頭をそのままに浮かべかけた照れ笑いらしき表情は、へらへらするなとの炯至による罵倒を受けて強張ってしまった。雰囲気を和やかに収めようと叡我が双方を宥める中で、架耶は別室に置いてきた釉月のことを考える。別れた際のシチュエーションから考えるならば今も尚、カラスと二人のみでいるのだろう。

しかし彼女の痩せ細った身をカラスは苛立つ程、みすぼらしく感じている筈だった。少なくとも現在の状態の釉月に対し、恭比の言うような欲情紛いを抱くとは想像しにくい。大体が前の滞在先で押し掛け、目撃したテント内でのシーンも、彼は貪られていた側に見えた。

金を集め媚びを売るべき段階においても、言い寄られるに任せるのみだった彼があの子を襲うような状況は思い付かないと、結論付けかけたところで架耶は思考を中断させる。明確には判らないが腹の奥、疼くものを意識した気がした。

 或いはそれすら錯覚でしかないのかもしれない。周囲の薬を拾い集める恭比を手伝っている叡我の様子を眺めつつ、心を落ち着かせようと小さく息をする。とある瞬間襖が揺れ、弱々しい動きによって開けられた向こうには釉月の残像が見える。

残像、と表現したのはすなわち、瞬きを挟んだ後には既に視界の中から、姿が消え失せていた所為である。当然ながら存在自体が消滅した訳ではなく、その時彼女はこちらへと跳び付いてきていたのだった。架耶は驚く、あまりに突然過ぎた為だけではない。

 縋ってくる彼女は腰回りへとぎゅっとばかりに抱き付いてきており、その腕の力は今までの釉月から、受けたことのない強さだった。密着する身から感じる体温と共に、否応なしに伝えられてくるのは切実さに他ならない。

しかし少しばかりの間を置き、もう一緒にいられないのと告げられてきた口調は予想外に、冷静さの保たれたものとなっている。架耶へと顔を押し付けながらの声はくぐもって聞こえ、そして誰が真意を尋ねても更なる言葉が紡がれることはなかった。


 釉月のひどい動揺が、カラスにより与えられたことは一目瞭然だった。しかし詳細は判らず、本人から引き出すのは骨の折れる作業である。

元来より積極的な口数のあまり多くない彼女なのだ。粘り強く問い掛けを積み重ね、返される切れ切れの言葉を繋ぎ合わせるしかない。

 ようやく答えらしきものをまとめ上げるまでには、おおよそ三十分を要することになる。その間には会長の妻が部屋を訪れ、しかし室内の緊迫した空気を悟ったのか茶の入った湯呑みを盆ごと残し、静かに辞していった。

有難うございますと、立ち去る彼女に対し声を掛けたのは叡我のみである。つまり、と恭比が口にする。

「養子ってこと?」

 架耶へと未だ抱き付いた恰好のまま、釉月はひとつ頷く。

「この家の子供になるんだって?」

「うん」

「もう決定してるって? まあそうなっちゃうんだろうなあ、団長が釉月とっ掴まえて言ってくる位だしなあ」

 喋り口調こそ間延びした風ではあるが、その表情は硬い。眼前へと突き付けられた事実の重大さを、彼もまた認識させられているのだろう。共同生活者として出会った後全く同じ時を、何年もに亘って過ごしてきた仲間と、突然に別れる。それが軽く済ませられるものである筈もなかった。

 半ば強制的に、彼女は自分たちから引き離されてしまう。一旦別離へと至ってしまえばもはや一生、再会など望めはしないのは明らかだ。もしかするとこの町でカラスがしばらく、姿を見せようとしなかったのは養子縁組の件に関し、話し合いが持たれていた所為だったのか。

 養女の話は一体誰が持ち掛けたのか、自治会長からかカラスからなのか。しかしどちらにせよ、彼らの間で既に様々な事項は決着しているのだろう。当然架耶たちの側からすれば初耳であり寝耳に水だが、独裁者然として団を統括するあの男に、事前承諾が欲しいとなど期待する方が愚かだ。

胴元の彼にとり自分たちは商売道具でしかない。だが当事者たる釉月にだけでも今回のような、環境を一変させる事態となるような場合、あらかじめ知らせてあってもよかったのではないか。

 ここに及んでから呼び出し、養女の事実を告げられたところでそれはもはや拒絶など微塵も許されぬ、単なる通告に過ぎない。いや元よりこちらの意思など尋ねられる余地はない、必要とされていないのは今に始まったことではなかった。

先程胸に感じていた小さな棘の意味を、架耶は思い出すと同時に理解する。何気ない風で会長の口にしていた科白、その中にあった「あの子」との表現にしこりを覚えていたのだろう。

釉月を指し発された言葉は、彼の今まで表してきていた温厚さとも、違う種のものだった。親愛に溢れた匂いがあり、改めて考えてみればそれは、じき身内となるべき相手へと注がれていたのか。

 次いで思い起こされてくるのは、自分たちの視界の周囲を取り巻くようにしていた町民の姿である。あれは新しく町の仲間に加わる少女を、確認せんとしての注目だったのかもしれない。ワッフル屋へ連れ出された一連の働き掛け自体が、皆への釉月の披露目を兼ねていたのかとすら勘繰りたくなる。

結局のところ今、どのように、何を話してみたところで彼女とのこの町での別れを避ける術はない、それは変えられようもないのだ。ハンマーで脳天を殴り付けられるかの絶望的な無力感は、テーブルを打つ一度の音により遮られる。

がちゃんとでも表すべきか、その行動により跳ねた湯呑みが盆の上で音を立てた。幸い割れはしなかったらしい。

「冗談じゃないぜ、それを文句も言わず聞けっていうのか? 会長とやらも笑わせるぜ、人権派気取って結局俺たちを、奴隷扱いしてるだけだろう」

 炯至は粗雑に声を張り上げる。表情は先立って恭比に向けていたものなど、比較にもならない程に紅潮している。

「声大きいよ、炯至」

「叡我、お前はじゃあ受け入れられるのかよ。大体いきなり知らねえ奴のものになれなんて、俺たちを何だと思ってんだよ」

「受け入れたくはないよ、僕だってそれは」

「なら何だよ、釉月をたったひとり、こんなところに置いてきぼりにして平気なのか?」

「平気な訳ないよ、そんな訳ないけど!」

 不意に音量の上がった声に、架耶は覚えず凝然とする。我を忘れる叡我を目にするのは久しぶりだ、いや初めての経験かもしれない。

亡くした母を想い悼み、大きな身を隠しつつ瞳を潤ませていた様相なら昔、目撃したかもしれなかった。しかし荒げられた彼の声を聞いたことはなかったように思う。

少なくとも今のように、取り乱した様子を見た記憶には辿り着けない。釉月もまた驚いたのか、伏せた恰好だった顔を半ばもたげるようにしている。

「でも、僕らにできることなんて、何ひとつないから」

 しかしじき叡我の興奮も落ち着いたらしい。ややを置いて継がれてきた口調も、彼本来の穏やかさを取り戻している。

一方で科白の内容は架耶としても同意すべきものである。無意識のうち、釉月の肩へ置いたてのひらに力がこもった。

「団長に生かしてもらってる今の状況じゃ、釉月をどうにかすることだってできっこないし」

「そんな悠長なこと言ってる間はまあそうだろうよ」

 間髪を入れず、口にされた言葉は聞く者の側を、何処か籠絡しているようである。しかし逆に表されていない本心の存在に、気付かせるには好都合だ。炯至は仰々しく腕を組んで見せてくる。

「釉月を逃がせないっていうのなら簡単だろう、皆で逃げればいいんだよ」

「逃げる?」

「お前まさか忘れた訳じゃないだろう、俺たちがどうしてあんな下衆な野郎の下で大人しくしてやってるのかをな」

 仕草と同様、気取っているかの調子に架耶は口を噤む。連想されるのは特に理不尽な仕打ちをカラスから受けた際にはほぼ必ず、発してきていた彼自身の口癖である。

貧しいながらも自由だった頃の生活を忘れるなとばかりに、繰り返される度単なる理想でしかないと、しかし聞き流すだけだった。だが今為された科白はそのような机上の空論とは違い、実感を持って響いてくる。架耶の様子が変わったと気付いたのか、釉月は緩慢な動きで体を離した。

「まさか、逃げるつもりだって言うの?」

 意図するでもなく、声は自然と潜む。

「そのつもりに決まってるだろう」

 同じ科白を口にしていた過去の表情に比べ、今の炯至には軽い印象も見当たらない。つまり冗談のみで言っているのではないとのことか。

「大体まさか、ってのも可笑しいだろう。今まで口が酸っぱくなる位言ってたってのに、お前信じてなかったのか?」

「そうじゃないけど」

 架耶は叡我の方を見る。叡我もまた、困惑した表情を架耶へと返した。口にしようとする内容は、二人共に多分酷似している。

「上手く逃げられると思ってるの?」

 少しばかりの後に切り出された言葉は、疑りを露わにしたものとなる。逃れるべき対象は見世物としての立場からというよりも、カラスからとした方がより適切だろう。

逃げられる筈がないと思うのは、試みた脱走が失敗に終わった場合に体感するであろう戦慄が、払拭できない為である。途中で捕らえられ、連れ戻されでもしようものならば待ち構えているのは、間違いなく激しい拷問だ。しかも今までにない凄惨なものになるのだろうとは想像に難くない。

想像もしたくない。関わった者の誰が瀕死の目に遭わされたとしても不思議はない、いや全員が生死の境へと突き落とされるかもしれなかった。腕の一本位はもがれても可笑しくはない、ともすれば生き地獄だ。

百パーセント逃げおおせるとの保障が確保できない限り、恐ろしくて実行に踏み切れるものではない。その条件をクリアする方法など容易く思い付きはせず、しかし炯至はといえば鷹揚に掲げた手で宙を指差しており、示された恰好の恭比は瞳をしばたかせている。

「ちょうどいいもの、持って帰ってきてただろう」

「何のこと?」

「判らないのかよ、鈍いな全く。薬だよ薬」

 指したかったのは恭比ではなく、彼の脇に立て掛けられた紙袋であったらしい。それを両の手で掴み上げている様子を見ながら架耶は眉を顰めた。まさかとは思いながらも念の為と、抑えた声で口にするのはそれしか脳裏へと描けなかった所為に他ならない。

「毒殺しようって訳じゃないでしょうね」

 科白の半ば程で皆の視線は、架耶へと一気に集まる。再びしがみ付いてきた釉月はひどく震えており、架耶は自分の発言を後悔する。尖った耳の先を軽く叩き、炯至は溜息をついた。

「あんな奴の為に、犯罪者になんかなってたまるか。まあもしかしたら似たようなものかもしれないけどな」

 吐き捨てられた雑言は、中途からオブラートを帯びたものとなる。何かを隠していることは明らかだ。

「似たようなもの?」

「ちょっと盛ってやるって点ではな」

 どの辺りの段階からか、会話は幾らか音量の抑えられたものとなっている。だから襖を挟んだ外から内容を、聞き取られる可能性は低いと思われる。

にも関わらず目的語が科白から排除されたのは、それがあまりに直接的なものであった故の判断だろう。でも、と叡我は怪訝げな声を、やはり小さく発する。

「毒なんて貰ってきてないよ、僕ら。普通の薬ばっかりで」

「そりゃそうだろうな。でも痛み止め位はあるだろう?」

 もしかすると先程、ばら撒かれた薬の中に何らかを目敏く発見したのか。袋を恭比から受け取り、その中を覗き込む叡我は目的のものを即座には探し当てられないようだった。業を煮やした炯至が言う。

「見つからないのか?」

「風邪薬ならあるけど」

「それこっちに貸せ」

 差し出された握り拳程の大きさの小箱を、炯至は半ば奪うかのように取る。ビニールの包装を破り、紙箱の中から銀の包みをひとつ出した。

「風邪薬をどうするの?」

「風邪薬には普通睡眠薬が含まれてること位、知ってるだろう?」

 口振りは例によって傲岸だが、説明については苦もなく判った。そこへとやはり彼が先程言っていた「盛る」との単語を加え考えれば、意図も自ずと推察できる。つまりはその風邪薬を利用し、カラスを眠らせている間に逃亡を計ろうというのだろう。

「でも風邪薬なんて普段より少し眠くなる、って程度のものじゃないの? それで眠らせることなんて本当にできるの?」

「酒と一緒に飲ませちまえばいいんだよ」

 手にした箱を炯至は放って寄越す。目を通した箱の裏の注意書きには「アルコール類との同時摂取はお避け下さい」との記述が読めた。酒の成分が薬自体の効能を必要以上に、また予測以上に助長させるのを警告してのもののようだ。

本来の感冒作用が強められれば、副作用たる誘眠作用も同時に促進されるのは自然な成り行きである。架耶は納得したが、続いて別の疑問が胸に生じることとなった。今度は現実的な問題だ。

「ということは、お酒の用意をしなきゃいけないってことよね」

「まあな、当然そういうことになるんだろうな」

 炯至の調子はややばかり、歯切れの悪いものとなる。五人の中にカラスが酒を飲む場面に居合わせた者はなく、好んだ銘柄など承知している筈もない。全くの下戸でもないのだとして、どの程度アルコールに対する嗜みを持っているのか知らない。

誰ひとりとして、彼に命じられ酒を準備したことはないのだ。それどころかどのような時に、どのようにして何を口にしているのかも全く知らない。この状態では彼に酒を飲ませること自体が困難なのだと、言うより他ない。

 他の不確定要素もある。幸い現在の資金状況には余裕もあるから、酒を何本か購入してみたとする。それを差し入れたとして、カラスはいつ口を付けてくれるのか。こちら側の希望としては遅くとも、この町の滞在中に飲んでもらわねばならない。

釉月の身請けを阻止するとの、目下の理由を達成するには最低ラインである。しかしそれが叶えられる確証はない。釉月と別れた次の地まで密封されたまま持ち込まれることも、移動中の列車内で栓が初めて捻られる可能性も充分にあるのだ。

目論見通りに事の運ばない予測は容易にでき、それ以前の問題としてスタートを切れるかとの時点から既に不明瞭だ。自分たちの用意した酒を、カラスが受け取るのかとの話である。

 考えを深める程に炯至の計画は雲を掴むような様を見せるばかりだ。やはり思い付きか、或いは空理空論でしかなかったかと架耶は思う。身の程を知らぬ金の使い方をしたと、逆に罰を受けたりするのは想像可能な最悪のパターンか。

机上の空論は現実により敢えなく否定され、閉塞感は誰もから言葉を奪ってゆく。沈黙を破ったのは恭比の声だ。

「まあ結局さ、飲ますしかないってことなんだろ?」

 炯至は恭比を見る。何を判り切ったことを口にしているのかとでも、言いたげな表情だ。

「なら飲ませたらいいじゃん」

「判らねえ奴だな、そうするにはどうやって酒をやったらいいのか、考えてるんだろうが。人の話聞いてなかったのか?」

「違う違う、そうじゃなくってさ」

 恭比はかぶりを振る。

「飲んでくれないんならさ、飲ませるしかないんじゃないって話」

「だからお前な」

 発されかけた炯至からの雑言が中断したのには、不意に顔を上げた叡我の動きが影響していたらしい。ゆっくりと彼が切り出す。

「お酌でもすれば、間違いなく飲んでくれるかもしれないね」

「そうそう、それそれ」

 恭比は我が意を得たりとの様子で嬉しそうな声を上げる。炯至に睨まれ口こそ閉ざしてしまったが、面持ちは満足した風だ。

「確かに飲ませることはできそうかな、お酒もこっちで準備できるし」

 叡我が言い、それに応じて恭比が何度か頷いている。酌をして飲ませるとは架耶も思い付かなかったが、言われてみれば選択肢のひとつにはなりそうだ。

薬を溶かした酒を飲むカラスの姿を、目の前で確認することもできる。一案であろうことは明らかだが良案だと讃えるには、解決すべき障害が横たわっいるように思う。重要な前提事項として、酌をするのには当然ながらその場への同席が必要不可欠だ。

「それは判ったけど、誰がそのお酌をするの?」

 嫌な予感はしながらも、架耶は音にして尋ねる。恭比は叡我と視線を合わせ、そうした後に炯至を交えた三人でこちらを見た。

「男の酌じゃなあ、最初から蹴飛ばされてはいさよなら、ジ・エンドって感じだよなあ」

 さほど悩んだ様子もない恭比の返答に続き炯至が指差した場所は、自分の顔からは外れている。

「やっぱ釉月が一番じゃねえか?」

 耳を疑い、架耶は大きく漏れかけた声を何とかこらえる。突然に名指しを受けた釉月は顔をもたげた恰好で瞳を開いており、叡我もまた額の目をこすったりしている。冗談であったとしても看過できない悪質さだが、まあ釉月を助ける為なんだから自分で汗掻くのが筋だろう、などとの発言からして炯至は本気のようだ。

「そんなこと、この子にできると思ってるの?」

「させなきゃどうにもならないだろう」

 炯至は平然と答える。

「それにどうせやらなきゃならねえってんなら、一番奴に警戒されないのが釉月だろう? 何せ一番の稼ぎ頭の道具なんだからな」

「でも二人きりでお酌させるなんて、危険すぎるでしょう」

 更に言い募ろうとする架耶の袖が、ふと二度引かれる。視線を遣れば今や完全に身を起こし座っている釉月が、こちらを見上げてきているのだった。その瞳は普段のものとは少々違っているように思えたが、どうしたのかと訊くより早く炯至から次の手が繰り出されてくる。

「ならお前がやれよ、架耶」

「そりゃそうだ、釉月が無理なら女は、架耶しか残ってないもんな」

「架耶は釉月の保護者だからな、尻拭いでも責任でもどっちでも構やしないけど、こんな時位取るのが筋だろう」

 突き放すような言葉に、架耶は黙る。気遣わしげな表情を浮かべる叡我も何も声を掛けてこず、炯至や恭比の言い分を認めるより他ないのだろう。発案した側からの、責任転嫁と言えそうな科白を受け入れるのは癪だが、仕方がない面も確かにある。

「判ったわよ」

「やるのか?」

「炯至がやれって言ったんじゃないの」

 受諾されるとは考えていなかったのか、やや驚いた風の炯至に溜息交じりの声を投げる。再び服を引っ張ってくる釉月を見下ろすと、架耶は微笑んでみせた。

テーブルの隅に置かれた湯呑み茶碗のひとつを、茶托ごと目の前に運ぶ。すっかり冷め切った玉露を、苦い思いで嚥下した。


 酒を調達するのは炯至の役割となった。男三人のうち叡我の持つ三種の瞳はキメラとしての特徴が顕著であり、恭比を遣いにひとり、出させるのは色々と不安だ。つまりは消去法を行った上での結果である。

 炯至もその決定については特に反論しなかった。翌朝の朝食後、顔を見せた会長からさりげなく酒屋の場所を訊き出した後、叡我から金を幾らか預かる。行ってらっしゃいと手を振る恭比には反応せず部屋を出る背中を見送れば、手持ち無沙汰といった空気が漂う。

今までは絵に描いた餅未満の、幻想にしかならなかった脱走計画が、具体的な形を取りつつある以上は多少なりとも話を詰めておかねばならない。カラスが何を望み、この町にやってきたのか正確なところを知る術はない。しかし彼の欲する行動の大半は、既に果たされたと考えるのが普通だろう。

勿論異常な身なり、異様な生活を送る自分たちにとって、普通の基準が該当する筈はない。また「普通」などというものが通用する相手でもないと知っている。今までは言われるがままにするより他、生きる道はなかった。

悩んだところで無意味であり、また悩むことすら許されなかった。だから今回は最初の、考え得るチャンスなのかもしれない。もしも計画が上手く行ったならば、それはきっと最後の。

コーヒーをすすりながら、架耶はこれが運ばれてきた際の情景を脳裏に描く。朝食後にやはり満面を綻ばせ、部屋に入ってきていた会長の妻はその笑顔を、釉月に向け多く見せているように思えた。

眼前の少女を養女とすることを了承し、また喜んでもいるのだろう。覚えた心の痛みを誤魔化すかに、隣に座る釉月に向けかけた眼差しはしかし、中途を見る結果になる。唐突に開かれた襖は無遠慮であり、そこに立つのはカラスの姿だ。テーブルの中央に積まれた饅頭へ、届こうとしていた恭比の手は慌てた風で引っ込む。

 室内に踏み入ってこようとはせず、かといって立ち去る様子でもない。いつもの鞭も今日は携帯していないようだ。首を動かしすらしないまま、カラスは皆を威圧的に俯瞰する。

一瞬瞳をすがめるようにしたのは、一人分足りない定数に気付いた故か。しかし口を開きはせず、しばしの沈黙が流れる。鈍色の瞳はややを置いた後に釉月を見た。

「引き渡しは三日後だ」

 感情の一切籠もらない声で宣言する。

「出立の準備をしておけ」

 一同からの返答を待つことはなく、言い放つと即座に踵を向ける。そのまま去ってしまうのかと思えたが、想像に反し襖はすぐには動かない。かと言って振り向くでもなく、冷たい声色だけが室内へと戻ってきた。

「図に乗らず身の程を知ることだ」

 直後に襖は閉められ、ぱしんとのある種、潔い音を最後に周囲は再び静寂に返る。後味が悪いのは最後に残されていった科白の所為だろう。

キメラが厚遇を受けるのは国内を探してもこの町のみだ、ここを発てば罵声に耐える日々に戻るだけだと忘れるな。そう宣告してきたものに違いなかった。長めの間を挟み、まず我に返ったのは恭比のようである。今度こそその指は、饅頭の一個に到達した。

「三日後に吠え面かあ、かかされるのはそっちだよな」

 愉快げに口にしながら、ナイロンの包みを外す。剥き出しとなった酒蒸しの和菓子へと間髪入れずにかぶり付いた。

「その吠え面を見て、爆笑してやれないのは残念だけどさあ」

「炯至の性格がうつってきたんじゃないの、恭比」

「え、俺そんなに性格悪い?」

 それはちょっと心外だなあとこぼされてきた言葉に、架耶は思わず苦笑する。運命を共にする仲間からその性根につき、陰口を発されたと知る由もない炯至は四十分程で帰ってきた。

不在の間にカラスの訪問があったと聞かされ驚きもしたようだったが、大きな動揺もないらしい顔である。ここから先の算段が決まっている以上、その程度の手出しは取るに足らぬと考えているのか。

「引き渡しなんてほざいてたのかあいつ。完全に人間を物扱いだな」

 買ってきたブランデーの瓶をテーブルの上に乗せる。興味津々に楕円のラベルを眺める恭比に向かい、飲むなよと先んじて釘を差した。

「大事な道具だからな」

「判ってるってば」

「道具が道具を使うんだ、泡吹くだろうよ、あいつもな。見物してやれねえのはなかなか残念だぜ、本当」

 何処かで聞いたような悪態を吐き、炯至は含み笑いを漏らす。叡我の方を見たところで、架耶はテーブルへ差し出されている隣の両手に気付いた。包み込むかにコーヒーカップを取り上げた釉月は、その陶器の縁に口を添えようとしている。

「大丈夫?」

 先程カラスに見据えられていたことを思い出し、架耶は尋ねる。向けられてきた釉月の顔は怪訝げな色を帯びたが、言わんとされている辺りをじき悟ったらしい。小さくかぶりを振ってきた。

「平気」

 掻き消えんばかりの音量ではありながら、明瞭な口調で釉月は答えてくる。とりあえず心配する必要はなさそうだと考えながら、瞼の裏へと浮かんだままの光景に向け架耶は意識を巡らせた。

怯え自分へとしがみ付く様子をそういえば今回、彼女は示してきていない。今明言された答えの通り、大丈夫だとのことなのだろうか。テーブルから下ろされた褐色の酒瓶は、炯至の手から叡我へと渡された。

 叡我は託されたそれを、荷物入れの布袋に仕舞った。一目では収められている瓶のシルエットは見て取れず、これならば発見される恐れもないだろうと思っていた眼前へはとある瞬間、緑色のロープが突き出される。

洗濯物を干す際に使う、ビニールを強く編み込んだタイプの紐だ。咄嗟に意味が理解できず、架耶は眉を寄せる。

「何の真似?」

「決まってるだろう、これであいつを縛り上げるんだよ」

「それナイスアイディアじゃん!」

 恭比が明るい声を上げる。ぽんとばかりに、右の拳と左のてのひらを合わせ叩いた。

「何しろ元々は風邪薬だ、効きがあんまり良くない可能性もあるしな。もし途中で目を覚まされちまっても、手足を縛っておけばすぐには追い掛けちゃこれないだろう」

 理論立てた言い分には違いなく、否定すべきところも特にない。しかしその冷静さが恐ろしくも感じられた。

薬で眠らせた上で緊縛するなど、将に犯罪者の所業とはできないだろうか。逆に言えば、そのような犯罪行為に手を染めでもしなければ、カラスの迫害から逃れられないとの壮絶な現実を示しているのかもしれないが。

架耶は何も言わず、置かれたロープを手にする。ほどけば十メートル程にもなるか、幾重かに巻かれたそれは決して軽くはなく、何よりも懐に忍ばせるには嵩む。どのようにすればこれをカラスに悟られないよう、酌の席に持ち込めるというのか。

適切な回答は出ないが炯至の手前、ひとまずは肯定的な態度を取っておいた方がいいだろう。架耶から差し出され、受け取ったロープを叡我はやはり袋の中へ押し込む。

口を紐で締め堅く結んでしまえば、外見から中身はやはり見て取れない。よもや洋酒や、ロープが隠されているなどと想像できはしないだろう。しばらくして運ばれてきた昼食を平らげる炯至の様子は、いかにも満足げだ。スパゲティのミートソースを唇の周りへと、大量に赤く付けた恭比に対し、もう少し綺麗に食べろよとの声を傲岸に放ったりもしている。

 何処となく明るい雰囲気での食事を終え、満腹となった恭比は仰向けの体で眠ってしまったようだ。添えられたアップルジュースを飲み干し、長く息を吐き出している炯至の正面、半ば程のスパゲティが残されているのは釉月の皿だ。付け合わせのエビフライも二口がかじられたままとなっているが、それでも彼女にとってみればまだ多く、腹へ入れた方と言える。

「もういいの?」

 片付けやすいようにとの配慮だろう、空の皿を重ねている叡我を傍目にしつつ尋ねれば、釉月は窓の外を眺めていた視線を戻した。小さく首を折り、架耶を見る。あの、と呟く声はか細い。

「お願いが、あるの」

「お願い?」

 架耶は反芻する。ややその声色が上ずったのは、向けられてきたものが思い掛けなかった為に他ならない。彼女の側から何らかの意思表示を見せてくるような例には、今までにも殆ど遭遇していないのだ。

「どうしたの?」

 だからこそ、その意思を折らせぬように優しく、問うことにする。少々変化した空気を嗅ぎ取った炯至や叡我の注目は、敢えて確かめない。

「あの、おじさんに、聞いたの」

「ここの会長さんのこと?」

 釉月がこの町で関わった、中年以上の男性と言えばひとりしか思い当たらない。

「お花の、沢山咲いてるところが、あるって」

 途切れがちではありながら、訊き返す必要のない科白である。いつそんなことを聞いたのか、考えられるとすればカラスに呼び止められた釉月が客間まで戻ってくる辺りでか。架耶は彼女の頭を撫でてやりながら、面持ちを綻ばせる。

「今から見に行く?」

 釉月の瞼が一度上下する。僅かながら緩んだらしい頬は、喜悦の証だろう。ゆっくりと腰を上げる架耶を、眉間に皺を寄せつつ見るのは炯至だ。

「出掛けるの?」

「ちょっと付き添ってくる」

 声を掛けてきた叡我に、制止せんとする様子はない。気を付けてねと、朗らかな口調で言い笑みを見せてくる。炯至は気難しげな顔こそしているものの口を開きはせず、雑言が放られてもこない。

数日後には手に入れられる筈の待望の自由を想い、緊張も緩んでいるのか。脚のみで立とうとする釉月へと腕を伸ばし、てのひらを握りつつ引き上げてやる。

繋いだ手をそのままに部屋を辞すと通路を進み、玄関の扉を開けたところでたむろする影に足を止めた。こちらに気付いてであろう、振り向いてくる人々の表情は一様に、和やかさをほどかせてくる。その中には会長の妻の顔もまた、あるようだ。

「これからお出掛け?」

 向けられてくるのは穏やかさであり、しかしそれ以上に親近感に満ちている。家族となるべき相手に対する愛情だろうかと、考えを抱けば脳裏をよぎるのは罪悪感にも似たものだ。

曖昧に頷き、紛らわすような笑みを見せながら架耶はその場を立ち去る。行ってらっしゃいと、四方から注がれるやはり穏和な声の渦中を、浅い会釈と共に速足で通り過ぎた。

 掴んだ右腕の先、釉月もまた離れずに後ろを付いてくる。振り返ってみたところにあるのは、こちらを上目遣いに見つめている姿だ。その頭越し、既に数メートル程も遠ざかった辺りからは今尚、群衆からの棘のない眼差しが注がれてきている。

似たシチュエーションだった昨日の光景を、架耶はふと思い起こす。誘われたカフェでの出来事、集まっていた好意的な衆目は今の状況とほぼ同じだったと思える。やはりあれは、養女の披露の為設定されたステージだったのかもしれない。

その推測が正しかったとしても嫌悪感などはなく、逆に上手く考えたものだと感心するのみだ。だから架耶が不意に足を止めたのは、憤然とした故なのではない。何処へ向かうべきか単純に承知していなかった所為であり、釉月に対して再び振り向く。

 釉月もまた予想していたのか、宙の先を指差した。だがそこに建物はない。

「何処に行きたいの?」

 穏やかに尋ねる。釉月はやや首を傾げた。

「あの、あそこ」

「あそこ?」

「山の中の、あそこに、あるって」

 伝聞調と聞こえるのは、会長から教えられた事項を思い出し、語っている為なのだろう。半端な角度にて持ち上げられた指の爪先も、よく観察してみれば山の中腹辺りへと向けられているようだ。茂る緑の木々に半ば隠れている白い建築物が、架耶には見覚えがあるように思う。

 それが何であったか、即座には記憶へと呼び覚ませない。決して平坦とは言えない道を、釉月を先に立たせつつ慎重に上ってゆく。転がった小石につまずいたのは一度や二度ではなく、地面の凹凸に足を取られながらも目の前の歩調が緩む様相はない。

時折ふらつく身を支えてやりながら、葉を付けた枝が左右からせり出し、視界すら満足に保てない山道を進む現状を架耶は不思議に思う。草花に対する彼女の強い興味については知っているつもりだ。しかし咲く花ならば昨日、あの飲食店で目にした筈である。

 店内に置かれ、また吊られた鉢植えでは物足りなかったのか。或いは一見の価値有りとの甘言で煽られ、こらえられなくなったか。思考を募らせながらの前進でも、一本道の途上では迷う心配もない。

荒くなる呼気を吐きながら、大丈夫かと尋ねる声色は弾む。架耶でさえその調子であるから釉月に至っては言及するまでもない。

覚束ない足取りながらも、引き返さんとの空気は丸められた背中から一切見て取れない。とある刹那前方の景色が切り落とされたかに開けた。周囲の木々が伐採され、平地のようになったそこにある一面の花の姿に、架耶は息を呑む。

敷地の隅には白いコンクリートの建物が佇んでおり、どうやらここが目的地らしい。薄汚れた壁は見る影もなく崩れ落ち、無残な外見を晒してもいる。離れて臨む限り、垣間見える内部はただの薄暗いがらんどうだ。

やや距離を挟んだ脇には瓦礫もあり、将に廃墟とすべきその周囲を埋めるのは様々な色彩をした花の海である。誰かが意図して植えたのか、単に自生した結果なのかは判らない。しかしそれは一種壮観とも言える光景だ。

数歩を前に向かい歩くとある場所で立ち止まり、架耶は膝を落とすと袋状の朱色の実に触れた。不意にここが何処であるかに架耶は思いが至る。ここがどのような事実を持つ場所であるのか、と表した方がいいのかもしれない。

架耶は瞠目し、一息も入れぬまま崩れかけた建造物を振り返った。キメラの真相を打ち明けてきた際の、会長の言葉が脳裏へと意識するでもなく甦る。そうだ、あの時彼は西山の中程、この建物の辺りを指しながら言っていた。あれはキメラを作り出した工場であるのだと。

 遺伝子異常と共に兵器を作った軍事研究所がかつて、戦時中に建てられていたのだと。氷ではなく、背筋へ生温い液体を垂らされたかの感覚は、ひたすらに不気味でしかない。出掛けたいと言い出した側にも関わらず釉月があらかじめには、具体的に目的地を口にはしなかった。

行き先を告げれば同行を断られるかと、危惧してだったのか。いやそもそもの疑問として、彼女はここが兵器工場跡だということを認識しているのだろうか。架耶は立ち上がり、釉月を見た。

「綺麗ね」

 語り掛けられ、釉月は頷いた。折ったその首を戻す動きの流れでこちらを見つめる。その瞳は真摯であり、背けられようとしない眼差しに架耶は覚えずたじろぐ。

一般的に言うなれば何の可笑しさもないものであったろう。しかしながら眼前に立つ華奢な少女から、このような真っ直ぐな表情を向けられた記憶は実に希薄だ。

「かや」

 そんな風に名を呼ばれたことも殆どない。瞳を少し細める仕草で架耶は応じる。ここに連れてこられたのは一面の花を愛でる為ではなかったのだと、本能的に理解した。もっと先に気付いてもよかった。花を見たいと、今まで誘われた記憶はない。

 釉月がたったひとり、咲く花へと誘われるように出ていっては行方知れずとなり、皆が心配し探すという例の方なら、遥かに多く思い当たるが。ならば彼女にとっての第一にあるのは、架耶と向き合っての話を行いたいとの望みなのだと考えるのが、ごく自然だろうか。

しかもおそらく、二人以外には聞かれたくないと願う内容の話をである。でなければこのような場所、キメラにもこの町にとっても苦味しかもたらさない地へ、招くことなど想像しにくい。

一目して管理の手もなく、朽ちるままとなっていると判るコンクリートは、いつから捨て置かれているのだろうか。研究所の方は処分され瓦礫と化していながら、傍らに今も残る工場の方は取り壊されていない。更地に戻されてもいないのはかつての住民が犯した罪を忘れない為なのか、一切関わりたくない過去であるが故なのか。

 事実と共に風化することを、切望されているのだろうか。誰も訪れない、訪れる可能性の極めて低い場所であれば確かに、内密の話をするには適してもいようと、架耶は周囲へ視線を向けつつ考える。

色とりどりの言わば花畑が帯びた鮮やかさは、瞼の裏にある飲食店での情景と似ているようで、全く似ていない。昨日目にしたものがあくまで計算され、人為的に飾り付けられたインテリアだったのに対し、今そこに広がるのは自然の上に咲き、生命を誇るものであるからなのか。吹き、通り過ぎる風へと音もなく、そよぐ花弁の波はいかにものどかな見目だ。

 傍らにある廃墟の無機質さがなければ、ここで昔非人道的な研究が為されていたなどと到底信じられないことだろう。視界へと同時に映る二つの光景は互いを相容れず、天然と人工という相違点を除いてもあまりに不釣り合いだ。

溜息を漏らしたところであのね、と掛けられる声が届き架耶は眼差しを戻す。そこに待ち受けていた切実な瞳を以前にも見たように思う、しかもさほど昔のことではなく最近に抱いた感覚だ。

 付き合ってきた十年程の中でも初めて出会う面差しだとの、つい数分前に持った自らの思いを失念した訳ではなく、また矛盾してもいない。つまりは自分に対して示されたものとしては多分、これが初顔合わせの筈の真摯さだ。だとすれば既視感の元となっている筈の記憶はいつに起因しているのか。

彼女が誰に向けたものを、自分は目撃したのだったか。答えを咄嗟には導けず、また導き出すより早く紡がれてきた言葉の為にそれについての思考は、一旦遮られた。

「団長が、嫌い?」

 架耶は意識外で目を剥きそうになる。二の句を一瞬見失ったが、しかし面前の表情は変わらない。茶化す意味合いなど微塵も含まれていないことは判るから、返すべき言葉を慌てて考えた。

「嫌いでは、ないと思う」

 釉月は否定を求めているのだろう、だからそんな返事を口にする。嫌いなのだと普通に答えて欲しいのならば、切り出される筈もない質問なのは明らかだ。

暴行を食らった者、またその現場を目の当たりにした者からすれば、あの男の中に好意的なファクターを見出すことは困難と言わざるを得ない。恐怖し、忌避し、怯懦しては嫌悪する、暴虐による支配に対して抱くことのできるのはそんな負的な感情ばかりに違いない。

しかし釉月にとっては必ずしも、そうではなかったのか。カラスを目の前にしては震えていた彼女を見る限りでは、想像もできなかったことである。ならば自分はどうだろうと、何の気なしに考えを遣った架耶は強い憎しみの類を、胸から引き出せないと悟ることとなった。

 我ながら戸惑うが、感情は今口にしたばかりのものに近いのだと認めるより他ない。すなわち架耶もまた、カラスを心の底から忌み嫌っている訳ではないのか。つまりそういうことなのだろうか。

「嫌ってはいない気がする、きっと」

 再度口からこぼれた声は、半ば自分へと言い含めるようになった。彼が仲間へと取るに足らない理由で浴びせる、容赦のかけらもない暴力なら数え切れない程目にしてきた。

数え上げる行為すら嫌気が差す位の、そんな悲惨な現実が疑いようのないものだとするならば、今自覚した意識も確かなものだと言わなければならない。釉月の傾いだ顔が少しばかり和らぐ。

「逃げたい、の」

 文章へと込められたイントネーションは平坦だが、それが問いの意図を持っているとはニュアンスから感じ取れた。つまるところ、釉月は炯至が立案したこの脱走計画について迷っているのだろうか。だからこそ炯至の目の届かない場所へ、架耶は連れ出されたのかもしれない。

 視線の先には釉月の顔があり、まずは彼女からの問いに応じるのが先決だろうかと、考えているうちそのダークブラウンの瞳はふと遠ざかった。垂直にしゃがみ込み彼女は足元の花へと触れており、架耶はふと複雑な思いになる。このまま逃げるのは本当によい選択なのかと、よぎる考えはしかし、釉月に対する答えからはやや外れたものだ。

 カラスが何を企図し、彼女を身請けさせようというのかは判然としない。しかし温もりある、キメラに理解のある町にとどまり育てられるのは、この少女にとって恵まれたことではないのか。

首尾良く脱走が成功したとしてどのような暮らしが待っているのかは定かではない、甘く見積もっても豊かでない日々であることは明白だ。炯至に口煩く言われたからではないが、衣食住に飢えていた頃の記憶はまだ明瞭に覚えている。

闇に怯え、飢餓に喘いでいた生活に戻る可能性も、決して否定はできない。ならばここに残った方が、もしかしたら彼女にとって幸せなのではないのか。

葛藤に近い思いをひとしきり巡らせた後で、感情は元の位置に戻って終わる。自分は果たして現状から、逃げたいと願っているのだろうかとの問いの上にだ。

 逃げ出せば確かにカラスから殴られることも、殴られて昏倒する仲間を見なければならないこともなくなる。それは紛れもない事実であり、また高級酒を大枚はたき購入したりと、現実に準備が進められている状況だ。

引き返そうとの言葉など、まず炯至に至っては微塵たりとも受け入れないだろう。目論見の露見などといった不測の緊急事態にでも陥らない限り、待ち望んだ脱走の中断はもはや為されない。しかし今自分に問われているのは、そういった類に関してではない筈だ。

 釉月の幸福や、逃れた後の生活の懸念などはこの際、問題ではない。物理的、現実面での話ではなく心理上のことだ。自分は本当に逃げ出したいのか、例えばひとりだけ蒼天の下置かれ、好きに逃げてもいいと言われたならば一体どうするのか。

数珠繋ぎの体を為す自問について明確な答えは出ず、架耶はただ黙り込んだ。心持ち首を傾げながら釉月はこちらの様子を見上げていたようだったが、ふとその首から力を抜き、うなだれる。

 背を斜へ向け、肩の羽根を示す形になりながら更に座り込む。地面へと直接、両の内股をすり付けるようにした。

あまりに無防備な体勢を眼前にして駆られかけた不安は、気付けば薄れている。これだけ多くの植物が奇形も退色もなく、生命力に溢れた姿を披露しているのだ。

遺伝子を狂わせる程の土壌汚染はもはやないと考えていいのだろうか。幾つもの花へと顔を寄せ、瞳を凝らすその脇に架耶もまた、膝を落とす。指先でなぞるように触れた茎のうち、釉月は一本を摘んだ。

「ガーベラもアマリリスもシロツメクサも、フリージアもスイートピーも、色んなのが咲いてるのね、本当に。それってホオズキでしょう?」

 釉月は架耶の方へ瞳を向ける。長さにして三センチメートル程か、ホオズキの実をひとつ千切るとてのひらに乗せ、小さく唇を開いた。

「花言葉が、ね」

「ホオズキの花言葉?」

 控えめに、ひとつ頷かれる。

「嘘、なんだって」

 細い声で言葉を続け、釉月は膝の上へと手の甲を下ろした。手折ったばかりのそれを縦に重ね合わせたてのひらの中、包み込むようにする。揃えた親指の隙間から、奥を見つめる横顔は真摯なものに他ならない。ふと閃光が架耶の網膜へ突然に走る。

出立の日取りを言い渡す為部屋を訪れてきていたカラスへ、彼女が示していたものと、今の表情はあまりに似ている。痛々しく、しかし強く怯えた色がそこには存在しているのだった。

 架耶は再び口を閉ざした。炯至が度々発する例の科白を思い起こさんとする。忘れるなというその言葉に連なり、脳裏へと甦るのはカラスの影だ。今の姿ではない。

破落戸たちによる略奪や暴行を恐れヘドロだけの溜まる道端の枯れた溝へ、闇夜の中体を潜める自分を見下ろしていた。黒い服に身を包む、黒髪の長身のシルエットは月の光を無情に遮ってもいた。一度しか言わない、死にたくなければ俺に従えと、言い放たれた怜悧な声は、抗いを許さない響きを纏っていたのだった。

 今思い出してみても、降り掛かったあの声の圧迫感は鼓膜を凌駕する。胸が破裂せんばかりの感覚に、架耶は下唇を強く噛み締めた。眩暈を打ち消さんとして瞼を固く閉じ、ややあって大きく開眼する。そろそろ戻ろうと提案する為、隣に座る釉月を見た。


 それからは誰も外出することはないまま、与えられた客間で三食を取った。頃合を計った間食も相変わらず提供されてくるから、給仕の数としては三回を超えてはいるが。

出されたものを美味とばかりに平らげる行動は本質的に、昨日と同じだ。ただ、五人以外の目を避けながら薬を仕込む、密かな行動を除けばである。

 元々顆粒状だった風邪薬を更に叩き砕き、粉末状にしたそれをブランデーへと開いた瓶の口を通し、振り入れる。更に蓋を固く閉めた瓶を激しく振り、徹底的なまでに溶け込ませようと叡我は努めているようだ。

飴色のガラスの奥の液体の中、眺めたのみでは気泡しか見出せない。幸いカラスがこの部屋を訪ねてくることはもはやなく、作業はスムーズに行われた。クッキーを手に現れた会長の妻の朗らかさに罪悪感を架耶は覚えるが炯至や恭比に、そのしおらしさはない。

「明日の朝、発つんですってね」

 五人それぞれの前にコーヒーを並べながら、彼女は声を掛けてくる。その口調は残念そうだ。

「またいつでも来てね、歓迎しますからね」

 この子も淋しいだろうしと、継がれた言葉へと叡我は曖昧に頷いている。彼の正直な人となりからして、そ知らぬ顔で嘘をつくことは難しいのだろう。彼女の中に母性を見るが故に尚のこと、誤魔化し辛いのかもしれない、母の存在を未だ胸に刻み続ける彼であればこそ。

「今夜は激励パーティを開くつもりですからね、楽しんでくださいな」

 和やかに告げ置き、部屋を辞してゆく。

「激励だってよ」

 襖が閉められ、炯至が鼻を鳴らす。表情を確認するまでもなく、浮かべられた傲岸なものについては想像できる。

「釉月が自分のものになるってまだ信じてんだな、おめでたいことだぜ全く」

 次いで口に出された科白もまた、相手を見下したものでしかなかった。架耶は鹿爪らしい表情をし、しかし息をついただけで何も言わない。代わりに声を向けてきたのは恭比である。

「でもさ、好都合っていや好都合だよなあ」

「何がだよ」

「だってそうじゃん、そんな賑やかなパーティならあの男も、顔出してきそうにないし」

「確かにな、それは言えてるな」

 返す同意の中で、炯至は発されてきた意図を悟ったようである。儀礼的に行う挨拶程度を除けば、カラスが晴れがましい場所へ同席する状況は考えにくい。見世物の舞台の口上にすら、姿を見せはしない位だ。

自分を見る者に与える陰鬱さを了承しているのか、単に陽気な雰囲気を嫌っているだけか。両方なのかもしれないが、進んで賑やかしいシーンへ参加はしないだろう。今夜もまた例に漏れず、パーティとやらに加わってくる確率はゼロパーセントに近いに違いない、そしてそれはこちら側からの事情で言えば、彼へ酌をするのが会場内ではないことを示している。

 周囲の目がある状況では、誘眠剤入りの酒を飲ませたところで上手く眠らせられそうもない。心配する誰かによって介抱されることは明々白々だ。

何よりも彼は自らの睡魔をこらえるだろう。そんな状況になっては元の木阿弥だ。また酒に投資した分の金子を捨てるだけにもなる。

 パーティの開催を告げてきた際の妻の嬉しげな様子からして、ある程度の盛大さを伴ったものとなるのだろう。招待を受け、もしくは話を聞き付けるなどして、外からメンバーへと加わってくる町民もいるかもしれない。

ここの家人は主催者として運営に追われもしよう。カラスはおそらくひとり、自らへと与えられた部屋に籠もる。食事会が行われている間は誰もそこを訪ねはしないだろう。

つまり薬を盛られ、眠る彼を揺り起こそうとする者は現れない。夜が明けるか、或いは自然と目が覚めるまでは追跡を受ける恐れもない筈だ。逃走の成功率は格段に上昇したと見て過言ではない。

「俺たちの方に運は完全に向いてきてるよな」

 炯至は悠然とうそぶく。傍若無人な口調にさえ棚上げを決め込めばその言い分を、否定すべき余地もないのだろう。架耶が釉月に眼差しを遣れば、彼女はリスがそうするように両手へと取った一枚のクッキーを、小刻みにかじっているようだ。

太陽は稜線を越えて沈み、黄昏時となりパーティは開かれる。自分たちを歓待する場らしいから参加しなければ不審がられるだろう、様子を窺いにでも来られては計画も水の泡となりかねない。ひとまずは五人共で雁首を揃え、訪れた十二畳程の広間には十人前後が既に集まっている。

 一列に並べられた細長のテーブルには、大皿での料理が幾つも並べられている形だ。握り寿司や唐揚げに焼き鳥、芋の煮物やサラダなどが盛り付けられ、隅の方には山積みにされたワッフルまでが見える。

ただしアイスクリームは載っていないようだが。こちらに気付いたらしい人々は座布団に座ったまま振り向き、一様に笑顔を見せてきた。

「いらっしゃいいらっしゃい、さあ座って、待ってたわよ」

「出ていく前の日にしか会えないなんてね、また息抜きにいつでも来てくれて構わないからね」

「とにかく今日は好きなだけ飲んで食べて、明日からのスタミナ付けてちょうだいな、遠慮はなしだよ」

 堰を切ったように掛けられてくる快活さもまた、弾まんばかりだ。腰を下ろした気風の良さげな中年夫婦に手招きされるまま、中央辺りの空席へと尻を付け、座る。

机の上、叡我の前へビール瓶数本をやや雑な手付きで置いた顔は、初日以来会っていなかった会長の息子のものだ。親に言われ気の進まないながら、準備を手伝わされているのだろうか。無言でごく浅い会釈をしてくる姿は、ぶっきらぼうではあるが嫌な印象もない。彼が足早に立ち去っていった後、その母親が揉み手をしつつ歩み寄ってきた。

「大したものも用意できなかったけど、どうぞ楽しんでね。ビールでいいのかしら?」

 叡我は傍目を少しばかり流す。視線を受けた側の炯至は小さく、二度頷いてみせている。

「すみません、じゃあ頂きます」

「あら、じゃあお注ぎしましょうね」

「後、できれば、でいいんですが、厚かましくて。彼女たちにはその、ジュースか何か」

「ええ、ええ、構いませんとも。今持ってきますよ」

 彼女は一旦辞し、オレンジジュースの小瓶を手に間もなく引き返してきた。グラスを差し出し、それを受け取った叡我へと、瓶の栓を抜いたビールを注ぐ。

グラスの中、嵩を増してゆく琥珀色の液体を眺めつつ、架耶は炯至の意図を認める。幾ら男三人共アルコールに弱くない体質とはいえ、逃走を強行するには素面であった方がベターには違いない。

 にも関わらずビールを大人しく注がれると決めた理由はひとつしかない。ある程度を飲んだところで、酔った演技をするつもりなのだろう。そうすれば場を抜けるのも比較的、容易に行えるということだ。

酒に強い方とは言えない架耶と釉月に与えられたのが、ノンアルコールである点がそれを物語ってもいる。主役がやってきたことで宴席の盛況さにも促進され、楽しげな笑い声が輪唱のように重なり合い室内を満たすばかりだ。

 会長が恭比の空のコップへとビールを注ぐ、これで三度目だ。いかにも旨そうな表情ですぐに口を付ける様子には演技でない面がありそうで、架耶は辟易する。視線の隅、映り込むのは彼の左隣、頬杖を付いている炯至の顔だ。

漫然とスルメの先をくわえる姿だけならばもはや、酔客と表しても可笑しくなさそうな様相だが、その瞳にはあくまで正気が保たれている。瞬きをし、こちらに向け合図を送ってきたものらしい。

 架耶は腰を半ば浮かせる。周囲へと視線を遣り、状況を確認した。叡我や恭比を中心に賑わった場は、一人位頭数が減ったところで気にも掛けないだろう。

心細げな瞳を見せてくる釉月の翼の付け根を、軽く撫でてやった後で架耶は立ち上がった。広間を出る途中で妻に見付かり、不思議そうな顔を浮かべられる。しかし手洗いで用を足したいのだと誤魔化せば、深く追及されもせずに見逃された。

 後は多少のトラブルならば、炯至が何とでもするだろう。通路に出ると、架耶は人気のない廊下を歩く。板張りの床を踏む度に微かな軋みが上がる。それでも先へ進むしかない。


 誰とも顔を合わせることなく自分たちの部屋に一旦入る。通路に戻ると来た時とは違う方角へ歩を運んだ。更に言えば今までとは、真逆となる方にである。

 小さく折り畳んだ腕にはブランデーを抱えている、風邪薬を溶かし終えたあの一本だ。シャツの懐の奥には結んだビニールロープも隠してある。一枚の襖に差し掛かり、密かに足を止めた。

数日前、釉月が呼ばれていったものと同じ建具の前で、どうしたらいいものかと架耶は悩む。紙をノックしてみたところで大した音は出そうにもなく、さりとて無断で入室する訳にもいかないだろう。

 時間はあまり残されていない、許されたチャンスは今日のみだ。また、これから自分が行う所業を鑑みれば多少の無礼など、気に掛ける範疇には入らないのかもしれない。

いつまでも立ち尽くしていたのでは誰かに見られかねず、しかしここまで来ても躊躇を完全には殺せない。とある瞬間足裏で床板が鳴り、架耶は慌てて爪先を見下ろす。

「誰だ」

 不意打ちだった。覚えず焦りを感じ、足元の板はまたもやきしりと鳴った。架耶は空の息を飲み込む。

「あ、あの」

「入れ」

 速くなる鼓動の一方で、とりあえず部屋に足を踏み入れる道筋はできたのだと理解する。襖の丸い引き手に指を掛け、架耶は恐る恐る引くことにより敷居の上、二十センチメートルまでを開けた。生じた隙間へと体を滑り込ませる。

 襖を閉め、伏した瞳をゆっくりともたげた。奥に置かれた書机に着きつつ、座椅子にあぐらを掻き座ったシルエットを見る。天井の電灯は点けられず、箪笥の上のランプだけが光源となっている室内でその姿は、陰影を色濃く伴いながら映る。

 眼差しは机の方へと投げられたまま、こちらを見もしない。ふと架耶は我に返り、脇に挟んだ酒瓶を手に取る。酌をする為持参してきたのがそれのみであることに、思いが至った。

 グラスの類を持ってきていないのだった。あまりの不用意さに唇を噛み、他にコップ代わりのものはないかと辺りを見る。食器棚は備え付けがなく、代替になりそうなものはといえば書机に置かれた湯飲み茶碗位か。とある瞬間座椅子を回すようにしてカラスはこちらの方を向いた。

「夜伽にとの訳でもあるまい」

 吐き捨てられた口調は冷淡である。

「よとぎ?」

「見ていただろう」

 耳にしたのは知らない単語ながら、指し示されている事柄を探し出すのは容易だ。記憶の奥から今回もまた、湧き上がるのは服のはだけたカラスの上半身である。

肌の上に浮かんでいた筈の幾つかの暗赤色の染みもが脳裏をよぎり、頬の辺りが急激に上気するのを架耶は自覚した。慌て瞳を逸らしかけ、動く空気を感じ取ると視線を戻す。気怠げな仕草で腰を上げる姿がそこにあり、架耶は体を固くした。

間違いなくこちらへと歩を進めてきている様子に、先程上昇した筈の顔面温度は急降下する。迫る姿から逃れんとして後ずさった。しかし閉めたばかりの襖に踵が触れるだけのことである。

 動きを止めないカラスとの距離は、気付けばもう一メートル程だ。企てた目論見は既に、いや最初から見抜かれていたのだろうか。

恐怖に握力を奪われた手からブランデーの瓶は滑り落ち、横倒しとなりながら畳へ転がる。逃げ場を失う一方の架耶はただ、背を襖へと張り付かせるより他ない。

 無造作に伸びてきた左腕に、反射的に固く瞳を閉じる。肩を押さえ付けられた痛みを覚えるより先に、カラスのもう一本の手は襟元へと突き入れられてきた。有無を言わせぬ強引さには些末な抵抗も叶わない。

 目の前の黒いシャツの胸元で揺れるチェーンの銀を凝視し、奥歯を噛む。ややもなく引き抜かれた手にロープの束が鷲掴みにされているのを目にし、架耶は崩れるかに座り込む。やはりカラスの冷徹な瞳を躱せる筈はなかったのだ。

 この町での優しく、温かい待遇に気をよくし過ぎたのだ。現実はそれ程甘くない。

這わせた眼差しを一ミリメートルも上げられないまま架耶は身を硬直させたが、恐れた殴打は下されず数分が過ぎる。視界の中、直立する相手の足は動かない。

「何をしている」

 ロープが投げ落とされてくる。膝へと降りてきたそれを掴むのと時を同じくして、抑揚のない声が更に継がれた。

「縛るなら縛れ」

 架耶は瞳を瞠る。紡ぐべき科白も思い浮かべられず、考えようにも脳裏は白色と化している。自らの混乱に翻弄されるまま、辛うじて口を開く。

「団長、それは」

 しかし発せるのは殆ど意味を為さぬ言葉でしかない。慄然として見上げれば、仁王立ちでこちらへと視線を落としてくる無表情とただ直面する。逃げ出したい衝動を必死にこらえた。

「どういう、こと、ですか」

「説明が要るのか」

 問いの文尾、遮らんばかりの科白をカラスは浴びせてくる。圧倒される架耶は当惑し、ふらつきながらも腰を上げた。足の震えは収まったらしく、代わりに全身の感覚が薄れているようだ。

確かにそこへ立っている筈の、足の裏が宙に浮いている感もある。逃げたいのなら逃げればいいと、もしかしてそう言われているのか。

考えるだに信じ難い推測だが、先程カラスが言った、縛れとの科白は相当の曲解を加えでもしない限り、そう読み取るのが自然だろう。よからぬ計画を立てていると予知し、また動かぬ証拠まで握りながらこうして何ら仕置きを加えてこないのだ。

「でも、それなら何故、釉月を」

 代わりに別の言葉を繋いだ。カラスは架耶を見る。やはり意思のない瞳だが、そこにはいつもの洞穴のような印象はない。訊かれているのは釉月に対する養子の話と、悟ったらしかった。

「理由はない」

 短い否定が返される。

「誰でもよかった話だ」

 倒された恰好のままの酒瓶を見下ろし、軽く蹴る。重量の決して少なくないそれは三センチメートル程しか移動せず、水面を僅かに波立たせたのみだ。

「薬入りか」

 カラスは一言言い放つ。最低限にまで削られた単語量が、今は逆にインパクトを強めている風すらあるようだ。架耶は身じろぎもできないまま、今更ながらに考える。

内密の企みごとであったにも関わらず自分たちの話しぶりは、あまりに無頓着すぎていたのではなかろうか。騒々しく喚き立ててはいなかった筈だが、注意深く囁き合っていたのでもなかった。時折興奮交じりに上がる声も、あったように思われなくもない。

耳をそばだてる程の必要もなく、聞き取ろうとの意思すらあれば会話を耳に入れることなど、容易な状況だったのかもしれない。襖越しに、或いは建具の隙間から漏れる声を、通り掛かった際にでも聞かれたのだろうか。

大方の詳細を知られてしまっていたのでは、計画は事前段階から破談となっていたのだと考えるのが普通だ。再び液面を静謐へと戻したブランデーの瓶を、カラスは腰を曲げつつ取り上げる。

くびれた注ぎ口の辺りを握り込み、左右へと振れば浮き上がる細かな気泡が見えた。詰めが甘い、吐かれる声は低い。

「薬が溶けていない」

 突き出されるそれを架耶は黙って受け取る。瞳を凝らしてみれば指摘の通り、瓶の下部には淡色の粉末がプランクトンのように揺れているらしい。ブランデーの淀みと異なる沈澱物は、液体の流動が収まれば静かに降下し、瓶底へ浅く積もる。

「処分して行け」

 少しの間を置いた後に、架耶は半ばばかり顔を上げる。届いた言葉に違和感を覚えた所為に他ならない。それは単に処分しろと告げているだけなのか、町を去る前に廃棄しておけと命じてきているのか。

一旦心へと澱を感じてしまえば、眼前の瓶に溜まる不純物の如くにそれは後を追い、次々と折り重なってゆく。首謀者たる炯至を始めとする他の四人を、拘束しようとの様子はカラスにはない。町民たちの目を憂慮している訳ではないだろう、今までも誰に見られていようと折檻は容赦なく加えられていた。

 勿論自分も今のところ、一発たりとも暴行を受けてはいない。背を向けたカラスが部屋の奥に離れる一方、胸に抱えた瓶へ架耶は眼差しを落とす。視界の中央に捉えるのは別の物体だ。

飴色のガラスを通した後ろに映る、軽く結わえられたビニールロープを見つめる。痛みはなく、押さえ付けられた感覚だけの残る辺りへとてのひらで触れ、そこが左肩であると気付いた。

 左肩を掴まれたのであるならば、相手側の腕は右だったことになる。つまりロープを力ずくで取り上げていったのはその逆、左腕だ。記憶を辿ってみてもその想像に矛盾はなく。しかしだからこそ架耶には不審さが生まれる。彼は確か右利きではなかったか。少なくとも自分たちを殴打し、鞭を振るってきていたその腕は紛れもなく右側であった筈だ。

 取り立てて気に留めるべき疑問ではないのかもしれない。利き腕とは違う腕を使ってきたのも当人にすれば意図もなく、ただの偶然だった可能性はある。

どちらかと言えばそちらの方が、確率としては高いのだろう。しかし一度心へ落ちてしまった澱を、洗い流す作業は容易でない。元のようにカラスは座椅子へと腰を下ろしている。

「まだ用か」

 声だけが冷たく響く。

「縛る気がないなら去れ」

 継がれた科白に架耶は確信する。カラスには自分たちを制止する意図がないのだ。咎められないのならばもはや脱走とは呼べず、今夜行われるのはただの離脱でしかない。

ある意味で合意の上のものとも言えるから、追っ手が差し向けられることもないのだろう。この先カラスと顔を合わせる機会は、皆無に限りなく近いのだと思われる。

 口腔内がひどい渇きをもたらす。二度と会えなくなるのだとすればラストチャンスだ。今を逃せば間違いなく、一生尋ねることは叶わなくなる。

それは数年来、きっと異臭漂う道端の溝で声を掛けられた瞬間から、ずっと抱き続けてきた思いだった。心を決め、架耶は震える唇を開く。

「何故、拾ったんですか、私を」

 陰の濃いカラスの横顔は動かない。反応を待ち、架耶は折れる寸前の精神を奮い起こさせつつその場へ立ち尽くし続ける。しかし朧げな光のみが照らす室内の景色に、変化が生じる兆しは見えない。肌を刺す静寂も終わらない。

 口にするだけ無駄だったかと架耶は落胆する。こちらから向けた問いに対し彼が答えたことなどなく、それどころか些細な意思表示すら身分不相応だとして、迫害の対象となった。最後だからと別の結果を期待できる相手では、やはりなかったのか。

収縮した口裏の粘膜は乾燥しすぎて痛みまで感じる程だ。胸の前のロープと酒瓶を抱え直し、もう一度瞳を凝らす。見納めとなるのだろうシルエットは、先程と同じままだ。一礼すると踵を向けかける。

「待て」

 発されてきた短い言葉に、腕を引き手へ伸ばそうとしていた動きは刹那にして中止される。間髪入れず振り向いた視界に映るのは、緩慢な仕草で腰を上げるひとつの丈の高く細い影だ。

箪笥へと歩み寄っている形の姿は、そこに置かれたランプの光により暗い茜色に照らされる。引き戸となった扉を開き、取り出されたのはウォッカの小瓶のようだ。片手を添えることなく蓋を捻り外し、グラスに注がず一口を飲む。

「餞別だ、下らん昔語りでも聞いていけ」

「昔、語り?」

 覚えず訊き返す言葉には応えない。薄闇の中、浮かび上がる色のない表情に架耶は立ち竦んだ。

「流行り病で死んだある男と女の後に、兄妹が残された。遺児を引き取る奇特な者などいる筈もなく、兄の空き巣やスリで二人はしばらく生き永らえた」

 カラスは少しばかり足を運び、壁の傍らへと移動する。カーテンの閉められた窓枠に、背を凭せ掛けるようにした。光から遠ざかった面差しは再び、捉えにくくなる。

「ある日空き巣を働いた兄は、家主に捕らえられ豚箱に放り込まれた。釈放された時妹はいなかった」

「いなかった?」

「自分で出て行ったのか攫われたのかは知らん」

 カラスは手にしたままの瓶をあおる。度数の高いアルコールが回り体感温度が上昇したのか、上半身のシャツを半ば剥ぐかのように脱いだ。手にしたそれを煩わしげに、部屋の隅へ投げ捨てる。

「兄は妹を探さず、養う者のない生活は楽になった。町を転々とし食い繋ぐ中、見世物として檻に入れられた妹を発見した。幼い妹は兄を忘れ、妹が金儲けになると兄は知った。兄は妹を買い、同じような金になる異形を見掛けては入手した」

「それ、は」

「決まっている、見世物の頭数は多いだけ入る金も増える」

 平然とした口調を返してくるカラスに対し、しかし架耶が知りたいのはそれではなかった。長く繋がれた語りの中、何気ない風で挟まれていたひとつの単語が内耳の壁、刺さっている。

金を得る為と兄が買い集めたのは「異形」だと言った、しかも妹と同様の。つまりそれは、妹もまた異形と称される存在だったことを示唆してはいないか。視線を注ぐ先の表情は闇に半ば溶けており、しかし顔を逸らさず唇を開く。

「その、妹は、お兄さんのことを」

「知らんだろう」

「打ち明けようとは、思わなかったんですか」

 小瓶を耳辺りにまで、掲げていたらしいカラスの手が止まる。

「何が言いたい」

 低い声が届く。冷たい眼差しで見据えられているかもしれないと思うが、視界を保てない程の暗度が今は幸運だったようだ。よぎった躊躇も、科白を中断する程の効力は持たない。

「心配だから、引き取ったのではないのですか」

 掠れる口調の、しかし言葉面は問い詰めんばかりになった。カラスからの答えはない。こちらの科白が否定できないことを無言のうち、物語っているのだろうか。

説明がないのはひとつだけではなかった。何処の誰とも知らぬ輩のものだとして、語られた身の上話についてもである。

 語りの中の兄とはつまり、そこに立つ青年なのではないのか。勿論その話の内容が、自分たちの一団について言及しているものなのか否かも判らない。ただの妄想である可能性もゼロではなかったが、それは話し終えた後のカラスの様子を見る前までのことである。

 架耶は口を噤む。映る景色の中、佇むのは朱のほのかな反射光だ。カラスの胸に提げられた銀のペンダントが、ランプの灯りを照らし返したものなのだろう。

 テント内で今と同じく、上半身の衣類を脱いだ姿で告げられてきていた声が、鼓膜の上を通り過ぎる。釉月を太らせろと言っていたあの言葉の意味も今なら判る、あれは団長として発されたものではなかった。

痩せ細る彼女を心配したが故だったそれを、直接に告げられたのは架耶だった。何故今まで気付かなかったのか。悟れるべき材料が少なすぎていたのだとしても。

 気付いたところで何かが可能だったかは判らない。架耶は唇を強く結び、とある瞬間昨日目にした釉月の姿が脳裏に甦る。向かった山中の廃墟で、彼女は幾つかの質問を向けてきていた。

確信的とまではいかなくとも、あれは意識されたものだったのだと言うべきだろう。その推理が間違いないのであれば逆に、カラスの言葉には齟齬が存在することになる。ひとつ息をし、しかし声を口にはできない。

「話はそれだけだ」

 冷然と言い放たれてきた科白は、会話の終結を宣告したかに響く。つまりこちらからの言葉に応えるつもりなど、もはや持ち合わせていないとの通告か。杳とした表情はやはり見えない。

「行け」

 口を開きかけ、ほぼ時を同じくしてカラスの腕を形作る影が動く。酒瓶を掴んでいない左腕は、自らの胸に下がるペンダントを引き千切ったようだった。投げ付けられてきたそれは架耶の首筋へと命中する。

 銀色の鎖はブランデーの瓶に引っ掛かりつつ垂れ下がり、外れたペンダントトップのみが足元に落下する。それを拾い上げようとしゃがみ込んだところで、畳を歩み寄ってくる足音を聞いた。

顔を上げれば、こちらを睥睨する眼差しが間近にある。架耶は息を飲み、縫い止められたかのように一ミリメートルも動けなくなる。指先を動かすことすら叶わない。

まなじりが裂けるかと思える程に、架耶はただ瞠目した。自分を映す黒の瞳は眇められ、激情を隠そうともせずにこちらを睨め付けている。否応なしに伝わるのは苛立ちなどという生易しいものではない。

 あるのは憎悪にも似た色だ。伸びてきた右腕に襟首を掴まれ、架耶は引きずり上げられるかにしてその場に起立させられる。同時に襖が開け放たれ、通路へと凄まじい力で突き飛ばされた。あまりの衝撃に持ちこたえられず、柱へ背を打ち付ける架耶に向かい険しい眼差しが襲う。

「振り返らずに行け!」

 突き付けられた怒声に、架耶は弾かれたように立ち上がる。恐怖でも怯懦でもない、驚愕によるほぼ脊髄反射ともすべき反応だ。

対峙したまま過ぎた時間はどれ程だったか、おそらくは一分にも達してはいなかったのだろう。憤りに満ちた表情のままカラスは踵を向ける。

「決して戻るな」

 背中越し、忌々しげに吐き捨てると後ろ手に強く、カラスは襖を閉めた。小気味良いとも聞こえる音を最後に全てが遮断される状況の中、しかし架耶は動けずにいた。荒い息をひとつ、ふたつと吐く。

 突かれた弾みで床へと転がった荷物を重い動きで拾い、通路を歩き出す。しばしの間立ち尽くしていたのは襖の閉められる直前に見たカラスの両肩、残る痣の光景の所為もあったのだろう。

目にしたのはほんの一秒程だったかもしれない。しかし肩甲骨の辺りにあったそれは痣というより、どちらかと言えば傷痕のように近く映った。

あれは一体何だったのだろう、脳裏に何故か焼き付きながらも、もはや確かめる術はない。客間へと入れば果たして四人の仲間たちが待ち受けている。身支度は既に済んでいるらしい。

一滴も減っていないブランデーの嵩と、持ち帰られたロープを見てか炯至は不服げな面持ちをしたが、架耶は構わずそれらを叡我に預ける。忍び足で歩けば、誰とも会うことなく裏口へと出た。

まずの難関を突破した安堵感から互いの顔を見、知らぬうちに柔らかく息もこぼれる。勝手口をも後にし、しかしふと歩みを止めた。塀の影に立ち、こちらを見る姿がある。

やや淋しげな表情をしていると映るのは錯覚だろうか、月夜に浮かぶ三日月からのさやかな光が及ぼす作用なのか。近付いてこようとの風もなく、佇むのは家人の妻の顔である。

「元気でね」

 一言だけを静かに告げ、彼女は優しく微笑む。目の前を五人が通る形となっても、止めようとする素振りすらない。十メートルを過ぎたところで、急ぐ歩調を緩ませぬまま架耶が振り返れば、小さく手を振るその影の隣、現れ並ぶのはもうひとつのやや背丈の増した人影である。新たに掛けられてくる声はない。

 意識外で落ちかけたスピードは、しかし数秒程を挟んだ後に復活する。街灯の照らすメイン通りを一直線に駆け抜け、正門から一キロメートル程も離れたところで歩みは平常に落ち着いた。左から右へと吹く夜風の爽快さも手伝い余裕を取り戻したのか、炯至が傲岸な声を掛けてくる。

「お前、奴を縛り上げなかったのか」

「心配しなくても追ってきたりしないわよ」

 眼差しを向けることなく、架耶は返す。そんなこと判るかよと、追及の手を緩めずにいた炯至も、相手の無反応ぶりにじき諦めたようだった。

右肩辺りの気配に目を遣れば、身を寄せるようにしている釉月がいる。背の片翼を歩みに合わせ揺らしながら、細い十本の指は架耶の右の手首を包んできているようだ。

 その情景を見下ろし、架耶は拳を強く握り締めたままだったことに気付いた。緩慢な動きで腕を持ち上げ、釉月の眼差しのある中でてのひらを広げる。現れたのはペンダントトップだ、直径にして三センチメートル位か。

知らぬうちよほどの握力を掛けていたのだろう、てのひらには円形の表面に彫り刻まれたホオズキの模様が、型でも取られたかのように浮き上がっている。しばしの間ペンダントを凝視するうち、それがロケットになっていることに架耶は気付いた。左の指を添えつつ蓋の部分を開けば小さく折り畳まれ、挟み込まれていたらしい紙片が落ちる。

風を受け、左へと僅かに流されながら落下するそれに近付く釉月は、小石にふと躓く。慌てて駆け寄る叡我に支えられている面差しに比べ、てのひらの上のペンダントに嵌め込まれた色褪せた笑顔の像は、重なる印象を持ちつつもひどく幼い。


 勢いに任せ飛び出した一同に、目的地の宛てなどある筈もない。しかし西へと向かう行き先に迷いはなかった。迷えるべき他の選択肢がなかったとも言える。

 辿り着いた駅から西部行きの列車に乗り、向かったのは首都の町だ。今までは自分たちの外見に気後れし、また連れていかれることもなかった為足を踏み入れていなかった地である。

農村でもなければ商業地でもない場所を敢えて訪れたのは、手に入れたメモに記された「福祉管理庁」との固有名詞の為だった。正確にはカラスに放られたロケットの中、紛れ込んでいた紙に書き殴られていた一単語である。

 騙されているのだと炯至は主張したが、他に拠る術もない状況には違いない。藁をも掴む思いで足を運んだ福祉管理庁で、皆に下されたのは戦争による後遺症保持患者としての認定だった。

通常の暮らしには窮しない程度の月々の給付も与えられる運びとなり、生活援護のNPOも紹介された。五人は今、下町にあるパン屋の二階に間借りする形となっている。

 以前に暮らしていた犯罪はびこる暗いダウンタウンとは比べ物にならない。キメラ、いや戦時後遺症患者に対する理解度も高く、かといって過剰な同情や憐憫が注がれる訳でもない。物珍しげな眼差しを向けてくる相手も皆無ではないが、基本的には普通とそう変わらない隣人として受け入れられている印象だ。

 ただの厚意のみで庇を借りているのではない。大家としてのパン屋の主人に対し、こちらは住み込み労働者の立場となっている。今は開店前の仕込みの時間であり、男三人は厨房に籠もっている頃だ。

あと小一時間もすればパンの焼ける香ばしい匂いが階下の石窯から、漂ってもくるだろう。会計などの店内補助を任されている架耶は、今は手持ち無沙汰に時間を過ごす。隣に敷かれた布団の上で、釉月はまだ眠っている。

昨夜は店主の弟に初孫が生まれたとかで祝いの席が用意され、五人も揃って招かれていた。この町に落ち着いても注目される存在の釉月は四方から会話に巻き込まれ、結果精神的に疲れてしまったようである。ただその寝顔は安穏としており、立てられている息も正常だ。

特に懸念すべき点もないだろう。ややもすれば起き出しもしようと、思いながら架耶は窓際の壁に寄り掛かりポケットへと手を忍ばせる。取り出すのは銀色のペンダントトップだ。

 留め金を指先で外せば、かちりとばかりに微かな金属音が鳴る。開いた中にある四、五歳の少女の笑顔を、他の四人には一度たりとも見せていない。安心し切った様相は釉月を彷彿とさせるものであり、それをひとり確かめる時に必ず思うことがある。全てはカラスの練り上げ、書いたシナリオだったのではないか。

 ひとりのみを強制的に引き離そうとすれば、他の仲間たちは反発し集団で逃亡を試みるに違いないと、見越していたのではないか。だから自分を眠らせようと押し掛けた架耶に驚きもせず、止めもしなかった。

更に穿った見方をすれば身請け話すら、計画の一部だったのかもしれないとの気すらしてくる。養親となる筈だった自治会長夫婦もまた逃げ出す釉月たちを問い質しもせず、静かに見送っていたではないか。

 更に言えばあらかじめ調査でもしていなければ、ロケットの中にあのような助言めいたメモを仕込むことなどできた筈はない。度を尽くした暴虐ぶりも、自分たちを前もって追い込んでおき、怒りを爆発させやすい状況を作る目的だったのか。だとしても全ての免罪符となる訳ではない。

 殺されるのではと恐れたことは、一度や二度ではない。実際炯至や恭比は幾度も、瀕死の状態を強いられてきた。しかしその悪辣の傍らで、カラスは自らの尊厳を捨て身銭を稼いでもいた。

個人的な利得を確保する目的ではなく、皆の生計の糧を得る為に。脇に布ずれの音を聞き、視線を斜め前方へと注げば上半身を起こしかけている釉月の様子が目に留まる。

手の甲で瞼を二度、三度と擦った後にもたげた瞳は虚ろであり、将に今目を覚ましたところであるのは疑うべくもない。架耶は笑い掛ける。

「おはよう、釉月」

 周囲を所在なげに見回し、そうして釉月はこちらを視界に捉えたようだ。向けられてきた挨拶へと応えるようにひとつこくりと頷き、布団の上に正座する。彷徨わせた眼差しの動きをとある瞬間、架耶のてのひら辺りで止めた。

「それ」

 開けたままでいたロケットを、架耶は慌てるでもなく閉じる。鎖を首に掛け、ペンダント自体をシャツの内側と仕舞った。

本来の所有者によって引き千切られ、一部が弾け飛んだチェーンはこの町で密かに修理してもらった。材質は銀ではなくプラチナだったらしい。

「いいなあ」

 ひとりごちられた一言に、知らず目を瞠る。釉月は視線を落とした。

「何が?」

「本当のこと、言ってもらえて」

 このペンダントの、元の持ち主に関するものなのだと想像するのは容易い。促す意を含め、団長のこと、架耶は問う。

「うそしか」

「嘘?」

「言って、くれなかった、から」

 途切れ途切れの科白を、釉月は口にする。その表情は伏せられたままであり、しかし感じるものがあり架耶は唇を結ぶ。今度は返事を急かさない。

「その、首飾りの、模様みたいに」

 知らず架耶は自分の胸へとてのひらを添える。シャツ越しに押さえるのは、下がったペンダントの凸とした感触だ。そこへ施された彫刻はホオズキを形取ったものであり、研究所跡での会話の中で花言葉が「嘘」なのだと、釉月自身が語っていたことが思い出される。

目の前にある何処か寂寞とした風は悲哀が故なのか。自らへとカラスから見せられていた全てが偽りの上に為されたものだったと、訴えたいのだろうか。

 もしくは後悔が故なのか。最も近しい筈だった相手と、ありのままの関係を築けなかったことへの。架耶には尋ねられない。

「本当のことは、何も、だから」

 声は最後の一文字の辺りで飲み込まれ、残ったのは数秒に亘る沈黙である。釉月は少し顔を持ち上げ、

「だから、羨ましい」

 その首を傾げるようにする。上目遣い気味の視線で架耶を見た。不安な印象を思わせるものではなく、涙を堪えているようでもある。

架耶の脳裏にはあの日の暗闇の中、最後に目の当たりにしたシーンが前触れなく浮かび上がる。言うまでもなくカラスから離れた、あの夜に見た光景だ。

自分の疑問を拒絶するように示された彼の背にあった、二つの黒い傷がクローズアップされる。未だ正体の掴めず、しかし安易に触れてはならないもののようにも思えた。

「訊いてもいいかな、釉月」

 しかし一方で、知らなければならない気もする。釉月は小さく頷く。

「あの人の背中に、傷があったのを見たんだけど」

 肩の骨の上に二つ、そう付け加える。釉月は瞳をしばたかせ、首の位置を戻した。

「判らないけど」

 一言断った後で、言葉を継ぐ。

「いなくなって、次に会ったら、なくなってた」

「なくなってた?」

「背中に、二枚あった、羽根が」

 ぎこちない口調で告げられてきた言葉に、架耶は呼吸を止めた。想定外の答えだったには違いない、しかし奇想天外だとは言い切れないものであったのも確かだ。目の前の少女の左肩には白い翼があり、そして奇形の後遺症を作り出した元凶は遺伝子異常だという科学的事実がある。

 カラスもまた、似たような症状を身に抱えていたとして何ら不思議はないのだった。誰かに取られちゃったのかなと、消え入るような声で続けられた釉月の言葉に意識外で、空想は働く。考えられるのは彼自身が語っていた窃盗未遂による捕縛、その際に激しい暴行を受けていたのだとすれば得心も行く。

手を下してきたのは侵入先の家人か或いは警察か、カラスの翼は彼らにもぎ取られたのだろうか。宙を暗赤色に汚す血飛沫と悲鳴の幻想は現実に見聞きしてきたものの比ではなく、架耶は強くかぶりを振る。

 動作を中止し、揺らぐ頭を自覚しながら架耶は額を押さえる。布団の上からにじり寄ってきた釉月は、隣に並ぶ恰好で足を投げ出し座る。

「お願いが、あるの」

 掛けられてきた声に、架耶は顔を向ける。何、と穏やかに尋ねた。

「今じゃなくても、もっと色々、楽になってからで、いいから」

 相変わらずの稚拙な言葉回しを口にした後、釉月は縋るかの眼差しを、架耶へと注いだ。一緒に探して、と繋がれた声色は哀れな程に、痛切さを帯び響く。

「お兄ちゃんを」

 架耶は口を閉ざす。やはりそうだったのか、遂に確信へと変わった思いの中にしかし、喜びはない。

 ただひとつ、頷いてみせた。喜色満面となった釉月はよく見れば、瞼を閉じているらしい。しかし眠りに戻ったものではないようだ。架耶は覚えず表情を綻ばせながら、ややずり落ちかけた背を壁伝いに引き上げる。

 釉月の望むものはしかし、雲か霞を掴むような話だ。広い国土の中、彼が今何処にいるのか知る者はなく、また知る策も判らない。しかし探したいと思い、同時に探さなければならない。

釉月に頼まれたからだけではない、架耶もまた訊きたいことはたくさんあるのだ。髪をややかき上げたその指先で、頭に残る角に触れる。

金銭の負担なしの手術により奇形の除去は可能だと、説明していた役所の職員の言葉をふと思い出す。恭比辺りはどうすべきか悩んでいたようだが、その照会を架耶は断った。

現在の医療技術であれば短時間で行えるという施術を避けた理由は、今までは曖昧模糊としたものでしかなかった。しかし今ならば胸を張って答えられる。自分の運命から、思いを決して忘れたくはない。

 頭の後ろに回した手でカーテンを開き、窓の外を仰ぎ見るようにした瞳に映るのは、朝の太陽を囲む白い輪郭である。瞳を細めつつ顔を戻すと、胸へと静かに手を伸ばした。シャツの上から再び触れたそれを、今度はきつく握り締める。

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ホオズキの羽根 殿塚伽織 @tonotsukaolu

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