ほどけたその願いは叶わない

西野ゆう

第1話

「大沢!」

 柳が中盤の底で奪ったボールを、前線で斜めに走りだした大沢の前のスペースに放り込んだ。

 後半途中からピッチに出て来た大沢は、疲弊した二枚のディフェンスの間を難なく抜け出した。一方で最後の力を振り絞ってロングフィードを出した柳は、正に選手生命を終える最後のキックだった。

 大腿四頭筋が悲鳴を上げる。四つの筋繊維のうちのどれか。その一部が確実に切れた音がした。柳は痛みに転がり、ただ副審の旗が上がらないように祈った。副審が大沢の動きに合わせ、右手をピッチと水平にエンドラインに向けながら走り出す。

「よし!」

 オフサイドはない。あとは大沢が一対一を冷静に決めてくれるのを祈るだけだ。パスは完璧だ。大沢もボールにかかったスピンを確認してコース取りをしている。ゴールキーパーが出られない位置にボールは落ちてくる……はずだった。

 サッカーボールは軽い。しかもその表面積は大きく、風の影響を受けやすい。突然上空で吹いた強いフォローの風が、ボールを相手ゴールキーパーが直接キャッチできるところまで運んだ。

 相手のゴールキーパーは、両脇を締め、腕を下にし、ファンブルしないように慎重にボールをキャッチすると、ボールを抱え込んだままピッチにうつ伏せで倒れこんだ。それと同時に試合終了のホイッスルが鳴ると、ゴールキーパーは掴んだボールを上空に高々と蹴り上げ、仲間のもとへ跳ねながら駆け寄った。

 相手が輪になり喜ぶ様子を、柳は呆然とピッチに倒れ込んだまま眺めていた。

 その柳の左手首から、ミサンガが千切れることなく、ほどけて落ちた。


 今、すっかり脚の筋肉が人並みに落ち着いた柳の手の中には、その時のミサンガが握られている。

「柳主任、お客様です」

 営業事務の女性社員が声をかけると、背もたれに体重を預けてミサンガを眺めていた柳は、座ったまま背筋を伸ばし、カウンターの向こうに立っている男を確認した。

 柳は席を立ってズボンのポケットにミサンガをねじ込み、カウンターへと向かった。

「よう、大沢。なんか不都合でもあったか?」

 あの高校最後の試合からもう十年が経っている。

 柳はスポーツ用品を扱う商社に、大沢は中学校の教員になっていた。大沢は相変わらず、いや、高校時代より増して逞しくなったように見える。

「いや、ユニフォームは問題ないよ。生徒たちも新しいデザインに興奮している」

「じゃあなんだ? わざわざ会社まで来て」

 大沢が現在勤務している学校は、柳の会社とは同じ市内にあるとはいえ、車でも一時間はかかる距離に位置している。

「丁度この近くの学校で研究授業があったんだよ。今日この後飲まないか?」

「まあ、それは構わんが……。会社に俺がいたからまだ良かったけど、いなかったらどうしたんだよ」

「大丈夫だ。ちゃんと電話して確認してきた。お前には電話があったことは伝えなくていいと言ったからな」

 柳はスマートフォンで時刻を確認した。五時十五分だ。

「わかった。今日は六時には引き上げるよ」

 柳の答えに大沢が満足げに頷いた。

「よし、じゃあ六時に前の公園で待ってる」

「おう、じゃあな」

 大沢は右手を上げて振り返り、一歩目を踏み出すと立ち止まった。

「あと、奈々もいるからな」

 ほんの少し顔を横に向けただけで、柳の顔を見ずにそう言うと、大沢はそのまま足早に立ち去った。

 柳は言葉が出なかった。

 奈々は中学まで柳たちと同じピッチでプレーし、高校時代にはマネージャーとして共に戦っていた。

 柳はポケットに手を突っ込み、ポケットの中でミサンガをきつく握りしめた。


 五時半を過ぎ、外回りに出ていた営業担当者が次々に帰社してきた。柳は営業が持ち帰った契約書に判を押し終えると、荷物を纏め始めた。相手は同級生とはいえ、大事なビジネスの相手だ。彼からの誘いは仕事の延長線上とみなされる。

 柳は課長に後を託し、六時ちょうどにオフィスを出た。道路を渡り公園に行くと、大沢と奈々の姿があった。

 柳と大沢は仕事上の関わりもあるから度々会っていたが、柳が奈々と会うのは高校卒業以来だ。柳は上手く話しかけることができるか不安だったが、奈々の変わらぬ笑顔を見たら、一気に高校時代へと時間が巻き戻されたような気がした。

「柳君久しぶり! やだ、なんかスーツ着てると別人みたい」

「奈々は変わらないな」

「ええ? それって褒めてることにはなんないよ?」

 奈々はそう言ったが、それでも柳は変わらない奈々の笑顔を見て嬉しかった。たとえそれが大沢との生活の上で得られた幸せがそうさせているとしても。


「柳君、頑張ってね。この試合に勝てば全国だよ」

 ジャージ姿に長い髪を二つに縛り、いつも明るい笑みを浮かべている少し日に焼けた顔。その笑顔を見続けるために、柳はピッチを駆け、声を出し続けて来た。

 今、柳の右手首に奈々が青いミサンガを縛っている。

「今更だけど、これ。全国で勝ち進めるように願いを込めて」

 奈々の言葉に、柳は左手を差し出した。

「それならもうこっちに込めてある」

 差し出された左手首には、日に焼けて少し色褪せた赤いミサンガが縛られていた。

「今縛ってくれた方には、奈々の幸せを願っておくよ」

 そう言って柳は奈々の腕を掴み、ゆっくり抱き寄せた。


 最後の試合の後、全ての情熱を注いだ対象がなくなり、歯車の微妙な狂いが全てに影響を与え始めた。

 柳が気づいた頃には、奈々との間でも言い争いが増え、かつてのチームメイトとも言葉を交わすことがなくなっていった。

 卒業の日、奈々の家の近くで彼女を待っていた柳は、少し強引に彼女を誘った。腕を掴み、彼の家の方へと引っ張っていこうとした。

 しかし、奈々はその腕を振りほどき、走り去った。柳の足元には、引きちぎられた青いミサンガが落ちていた。


 柳はあの時、自分との別れが奈々の幸せのためには必要だったに違いない、そう思って悲しみを振り切ろうとした。そして実際に振り切った。

 今目の前で幸せそうに大沢の横に並んで笑う奈々に、柳はポケットの中から青いミサンガを出して、奈々の目の前に差し出した。

「このミサンガ憶えてるか?」

 柳のその問いに、奈々は首を傾げた。

「え? 何だっけ。シュウ君わかる?」

 シュウ君と呼ばれた大沢も首を傾げている。

「高校の時のだろ? あの頃やたら付けてたからな。最後の試合の時のか?」

「いや……。うん、まあそんなところだ」

 柳は、改めて願いが届いたことを確認し、再びミサンガをポケットに押し込むと、ようやく自分のための時計が動き出した。もしあの時切れたのが筋肉の繊維ではなく、ミサンガだったら。今日の奈々の笑顔を見て、そんな意味のないことを考え続けた日々に別れを告げられたのだ。

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ほどけたその願いは叶わない 西野ゆう @ukizm

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