第三話『憑依された女と妖艶な祓い屋』(前編)

 少し出遅れたことを後悔している。騒ぎに気付いたのは、だいぶ夜が更けてからのことだった。俺は近くの屋台で酒を飲んで激しくトークして、ほろ酔い以上のふらつく足取りで宿に戻った。


 安宿に常駐する女の一人が興奮し、手の付けられない状態に陥ったのだという。宿の従業員から何人かの日本人客を介して聞いたもので、伝聞の伝聞なのだが、騒動の原因はハッキリしていた。憑依されたのだ。


「今日の昼過ぎから様子がおかしかったと言ってました。それで夜になって、暴れ始めたんだそうです」


 騒ぎについて教えてくれたのは、二つ隣の客室に暮らす係長だ。言葉遣いが度を越して丁寧なことから、まず新入社員という渾名が付いた。その後、語呂が悪かった為に、めでたく係長に昇進した次第である。


「熱にうなされてるだけなんじゃないの?」


 女は脂汗をかき、髪の毛もぐっしょりと濡れている。暑い国なので、普通に生活していても汗塗れになるが、彼女の発汗量は明かに異常だった。


「熱っぽいのは確かにその通りなんですけど、宿の人はピーに取り憑かれたと断言しています」


 ここでも矢張り「ピー」が登場する。憑依となると精霊ではなく、悪霊の類いだろうか。女の錯乱する様子から、往年の恐怖映画を思い出したが、係長によると、それを地で行くものだったらしい。


「暴れて取り押さえられた時、低い声を出していたんです。女の声じゃなくて、ほんとに低い男の声でした」


 何と叫んだのかは判らない。介抱する従業員のサモハンも通訳してくれなかったという。単に外国人に説明するのが面倒だっただけかも知れないが、騒いだ際の男じみた声から、憑依と断定するに至ったようだ。


「珍しいことでもない」


 太っちょのサモハンは、そう付け加えた。憑依が珍しくないとは、そんな馬鹿な話があってたまるものか。俺がこれまで生きてきて、もちろん見た覚えもなければ、友達の友達が霊に憑依されたなんて噂を聞いたこともない。


 ところが、この国では頻繁に起こるのだという。お国柄か、何でも怪奇現象に結び付ける背景には、貧しさがあるのではないか…俺はそう疑わずにいられなかった。


 首都には最新設備の整った医療機関もあるが、高額で敷居が高い。ちょっとした風邪を憑依現象に置き換えて、胡散臭い祈祷師が活躍するなんてストーリーも思い浮かぶ。


 しかし、目の前にいる女の症状は明らかに異常だった。熱で朦朧としているのではない。倒れ込むでもなく、半身を起こして小刻みに震えているのだ。


「隔離することになったようです」


 サモハンが抱き起こし、肩で支えた。矢張りおかしい。女は抵抗せずに立ちあがったが、動こうとしない。ふらつく様子はなく、足腰もしっかりしている。それなのに歩けない。自分の意思で身体を動かせないといった状態だ。目は閉じたままだが、眠ってはいない。そして首を前後左右に小刻みに振る。


「身体を乗っ取られているってことなのか…」


 俺は思わず二歩ばかり退いた。背筋が寒くなったのだ。係長も顔を顰めて、その様子を見守っている。仕方なく、仲間がもう一方の肩を担ぎ、片足を引き摺りながら、宿の空き部屋に連れて行った。一瞬だけ身体が宙に浮いた際、女は呻き声を発したが、俺の耳には女の声に聞こえた。


 憑依された女は宿付きの娼婦だ。二十代半ばくらいで、昼間は食堂のお姉さんといった感じでごく普通だが、夕方過ぎになるとドギツイ化粧を施す。口の悪い日本人連中は“ばか殿メイク”と呼ぶ。言い得て妙ではなく、正にその通りだから笑えない。美的感覚は民族によって千差万別である。


 彼女の収容先は、受付の近くにある万年空き部屋だった。俺が長逗留するこの一品香旅社イーピンシャンりょしゃは、いわゆる連れ込み宿である。人目を忍ぶ行儀のよろししくないホテルに、日本人が巣食っているのだ。始まりの物語は謎のままだが、遅くとも一九八十年代の半ばまでに発見され、東南アジア全域に悪名を轟かせる日本人宿となった。


 一番の理由は一泊当たりの値段の安さだ。俺も泊まって初めて愕然とした。山谷や西成にある簡易宿泊所の四分の一くらいの料金で、世界一周旅行を目論んだ俺の豊富な持ち金なら、余裕で千連泊できる。しかも、端た金でおよそ全ての欲望を満たせるのだ。感覚が狂い、徐々に常識が欠如するのも当然だろう。


 それだけではない。旅社という名称でだいたいの見当がつく通り、経営者は華僑だ。従業員も同じ潮州ちょうしゅう人で、漢字の読み書きが出来る。欧米人は驚くらしいのだが、筆談は全く互いの言葉が喋れない者同士でも概ね意思が通じ、会話が成立する。


「中邪」


 サモハンは係長の日記帳に、そう記した。筆談がまるで通じないケースもある。俺は「憑依」のことを中文でなんと表現するか、拙い英語を織り交ぜて訊いたのだが、要領を得ない。中くらいによこしまなのか…


「邪鬼」


 もうひとつは日本語に置き換えても意味が通じる。悪鬼や羅刹と同類に違いない。しかし、憑依とはニュアンスが異なる。俺の聞き方が悪いのかもしれない。憑依を英語で何と言うのか…語彙が乏しく、親戚筋の単語も頭に浮かばない。


「ピー、ピー」


 サモハンは面倒臭そうに連呼した。表現方法は兎も角、それが女の中に入って、出て行かないのだと困り顔で言った。



 (後編に続きます)

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