第二話『魔都に取り込まれた野郎ども』

 軍曹に悪気はなかった。ただ、場所が良くなかったのだ。


 俺が泊まる安宿からロータリーを越えて、泥棒市場に続く何の変哲もない通りだった。一緒に歩いていた軍曹が道端で唾を吐いた。それが聖なる祠を汚してしまったようなのだ。


 祠といっても目立つ代物ではなく、一本の柱の先っちょに鳥の巣箱が置かれた感じである。大きくはなく、古惚けていて、通りすがりに気付くことも少ない。軍曹がたまたま吐いた唾が、この祠の柱に当たってしまった。


「しまった。不味いことになるかも」


 唾を吐き捨てた瞬間を店の従業員が偶然目撃し、すっ飛んで来たのだ。軍曹は沈没生活が長く、祠の意味を知っている。大柄な彼が肩を竦めた。従業員の男に怒鳴られると思ったのだ。


 ところが、男は怒っていなかった。駆け寄って来て、いきなり祠の前で手を合わせ、何かぶつぶつと呟き出したのだ。祠に向かって必死に謝っているような様子だった。奇妙な光景で、俺も軍曹も立ち止まって、その男を眺めた。


 男は念仏を唱え終わると、丁寧に祠の煤を払って、こちらを向いた。怒ってはいない。少し悲しそうな顔で、憐れなものを見るような目付きをしていた。対応に困る。単純に怒鳴られたほうがマシだったかも知れない。


「すみませんでした」


 日常会話レベルの現地語で謝罪し、軍曹が合掌ワイ*をすると、男は何も言わず、戻って行った。そこは卸問屋のようで、店内にはアクリル製の看板がたくさん積まれていた。ごく普通の店舗で、祠も恭しく祀られているといった印象はなかった。


 驚かされたのは素直に謝った軍曹の態度だ。この角刈り男は荒くれ者を自称し、日頃は喧嘩自慢に花を咲かす。フランスに行って傭兵になるのが夢だと公言し、筋トレを日課にしている。見た目も素行も、神仏とは無縁な印象なのだ。実に意外だった。


「この国に長くいるのなら、気を付けた方がいい」


 軍曹は真面目な表情で警告した。ガイドブックの豆知識欄によると、あれは精霊を祀る祠らしい。敬虔な仏教国という専らの評判とは違って、素朴な精霊信仰が幅を利かせているようだ。


 祠は至るところにあって、郊外の一軒家などでは庭先の日当たりの良い場所に建てられているという。家の形を模したものが多く、仏壇よりも神棚に近いが、日本風に家の中ではなく、戸外にある。剥き出しなのだ。そして、線香から煙が出ているのを見掛けることも多い。一日に何度も線香をあげているに違いない。


「ピー」


 もの凄くシンプルに現地人はそう呼ぶ。幽霊や怪異を指す言葉でもあるが、そこに精霊も含まれる。この単語の発音が最大級に難しい。いわゆる声調の中でも一番厄介な種類で、無理やりカタカナ表記にすると「ピィ〜ィ」だ。いや、これが正しいかどうか、ちょっと自信がない。


 ただ、この単語を一度覚えると、街の人々が頻繁に使っていることが判った。食堂の主人とか、宿の下働きとか、彼らの雑談の中に登場するのを何度も耳にしている。祠とセットで、ピーは実に身近な存在である。 


 そして、注意して街を眺めると、お札や魔除けの鏡がそこかしこにあることに気付く。宿の入り口や受付の後ろの壁。商店の扉や塀。道路標識に貼られたものもあった。難解な現地の文字に加え、漢字が記された赤い札も目立つ。魔除けの鏡は八角形で、風水に関係しているらしい。


「連中もこの街に取り込まれたんだよ」


 軍曹は物知り顔で語る。俺らの宿がある地域は、この国の首都でもかなり特異で、民族構成も複雑だ。俗に言うチャイナ・タウンである。何世紀も前に沿岸部の潮州ちょうしゅうというところから渡ってきた人々の末裔だという。


 華僑と言えば、東南アジア各国の財界を牛耳っているとか、成り上がり者が脚光を浴びるが、もちろん、そればかりではない。古色蒼然たる安宿街に暮らす連中は、負け組だ。金に執着する割には金に乏しく、立志伝中の潮州人大富豪とは無縁。渡来一世の苦力クーリーに比べれば、生業が多少良いといった程度である。


 オリジナルの宗教観がどのようなものか知らないが、渡来人の彼らも精霊の祠を敬い、ピーを畏れる。ごった煮よろしく、同化しているのだ。細かい部分では違いがあるのだろうが、この国の風土を受け入れて、一緒くたに見える。


「魔都に魅入られちまったのさ。そう簡単に抜け出せやしない」


 傭兵志願の角刈り男に限らず、安宿に巣食う長期旅行者の何人かが、ほぼ同じ台詞セリフを口にした。ここは魔都なのだという。怪しくもロマンチックな響きで、ゾクゾクする。自分が魔都に身を置いていると思うと、何とも格好良く、冒険に満ちた大陸浪人にでもなったような気分になる。 

  

 魔都の定義はなく、戦前の上海のイメージから引っ張って来ているらしい。牢名主ろうなぬしの中にはかなりの高齢者もいるが、もちろん戦後生まれだ。当時の魔都上海を知る者などいない。


 かく言う自分も、魔都と呼ばれた時代の上海など写真でも見たことがないのに、何故かピッタリの表現だと思ってしまう。安宿街には薬行やっこうと呼ばれる漢方薬の調剤屋が軒を連ね、その匂いは一帯を支配して、常に鼻にまとわり付く。


 実際に古めかしい建物の多くは戦前からあるもので、長い歴史を感じさせられる。旧時代の趣きが残るといった情緒的な雰囲気ではなく、幾つかは廃墟同然である。王宮巡りに勤しむ団体ツアー客が間違って足を踏み入れたなら、廃墟の街の一劃いっかくだと信じ込むだろう。


 権利関係が入り組んで半ば幽霊ビルと化したのか、通りに面しているにも拘らず入り口が封鎖され、窓が割れたままの集合住宅も目立つ。ただし、完全な廃墟ではなく、人が住んでいるから仰天する。上層階には洗濯物が吊るされ、老婆が取り込む姿を見掛けたこともあった。


 そもそも魔都とは何なのだろうか。怨霊が棲む邪気に満ちた街、それともゾンビが徘徊するラクーン・シティみたいなところか…違う。治安最悪の世紀末っぽい大都市、ゴッサム・シティか。それも、しっくり来ない。


「荒廃した町とかじゃなくて、もっとゴチャゴチャした雰囲気で、欲望が渦巻いてるみたいな」


 軍曹が言っていることも多少理解できる。ヨーロッパの大都市やアラブ世界とも異なり、もっと無国籍で雑然とした場所…


 確かに、この街のチャイナ・タウンは意味不明な漢字の看板が多く、夜には怪しいネオンが輝く。サイバー・パンクっぽいイメージとも重なるのだ。映画で観た近未来都市には、なぜか漢字の看板があって、無秩序で悪が蔓延はびこり、素性の知れない連中が秘密の仕事に従事する。


 この街は廃墟同然の低層アパートが並び、未来都市とは程遠いけれど、コロニアル様式の建物も多く、どうにも時代感覚が狂う。何かで見た“戦前の東洋”とオーバーラップする部分が少なくないのだ。やや大袈裟だが、タイム・スリップして過去に飛ばされたかのような錯覚に陥る。


 それに、もうひとつ魔都上海のイメージと重なるものがあった。阿片アヘンだ。


「飲む打つ買うの三拍子」という文句がある。


 その昔に男の娯楽の定番とされていたものらしいが、安宿に巣食う連中にピッタリ当て嵌まる。昼間から酒を浴び、女遊びも欠かさない。「打つ」の博打は違法で、貧乏旅行者は隠れてもたしなまないが、別の「打つ」行為が蔓延していた時代もあったという。


 阿片を精製した強力な麻薬。末期的な愛好者はそれを注射器で打つ。末端価格がバカ高いのと、見つかれば問答無用で檻に送られる為、知り合いの日本人で常用している奴はいない。だが、この街の暗部には根強く残っているとも聞く。


 そんな高級品に手を出す代わりに、牢名主たちは、ある種のハーブを嗜む。これも違法だが、伝統的な嗜好品で、取り締まりは穴だらけだ。軍曹やドレモン先輩が泊まるジューン・ホテルでは時折、発作的にガサ入れが行われる。ただし、所持がバレても少額のワイロ支払いで済むという。摘発は大掛かりであっても、所詮は悪徳警官の小遣い稼ぎに過ぎない。


 ちなみに、この安宿の物語はかなり過去のことで、この国では最近になって例のハーブが合法化された。しかも、なし崩し的な解禁ではなく、政府が旗振り役だ。あの当時の捕物は何だったのか…


 酒に女にハーブ。魔都がどうかは別に、明らかな魔窟である。抜け出せなくなる要素は、てんこ盛りだ。そんな沼の底では怪奇現象も、当たり前のように起こる。少しも不思議ではない。



<注釈>

*合掌(ワイ)=この国の挨拶作法。日本式の合掌よりも低い位置。


<おことわり>

 本作に違法行為を助長する意図はなく、当該国の政府が特定ハーブを推奨し、市民に苗を配っているからといって直ちに是認するものではありません。(←こういうのってホラー作品でも必要なのかな?「首を刎ねる行為は法律で禁じられており…」とか)

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