1.子猫
あぁ―。
どうして私、気づいちゃたんだろう…。
今は一秒でも早く、人でごった返す市場を抜けて、家に戻らないといけないのに。
「…仕方ない、よね」
見過ごせる、ワケがない。
足元に視線を落として、大きなため息をひとつ。
だって、知らないフリなんて、出来ないから。
様々な屋台が軒を並べる
助けを呼ぶかすかな声が耳に触れたのは、狭い路地の前を横切った時だった。
『
耳の奥にこだまする、父上の声。
そうよね。あとになって、後悔はしたくないもの。
うん。戻ろう。
腹を決めて、私は踵を返した。
声が聞こえた地点まで戻ってきて、音の出処に視線を向けると、そこは人気のない路地だった。
きっと、この奥。
見えざる糸に意識を集中させ、目を閉じる。
漆黒に細くたなびく、かすかな気配を手繰り寄せ、声の主を追いかける。
―――見えた。
つかんだのは、か細い残り香。
考えるより先に、足が土を蹴る。
土埃舞う中、水溜まりを飛び越え、木箱の山を駆け上がり、すそが汚れるのを気にも留めず、ひたすら糸の先へと奔る。
ここからは、時間との勝負。
瓦礫散らかる小路を、風のように駆け抜ける。
その先に続く、薄暗い裏道を奥へとさらに進むと、道のつきあたりに、しばらく使われていないだろう廃屋があった。
「この辺りの、はずなんだけど…」
立ち止まって周りを見回すが、これといった気配は感じられない。
だけど、引き寄せた細い糸は確かに、ここに繋がっていた。
早くしないと。のんびりしてる時間はない。
事情があるなら、警戒して、物陰に隠れてるのかも。
崩れた土塀の奥や、木樽の後ろ。手当たり次第に顔をつっこんでいく。
「ん。ここ、かな…?」
廃屋の軒下に無造作に立て掛けられた木材に、ちょっとした隙間があった。
地面にひざをついて這いつくばり、のぞきこむと―。
やっぱり!
予想通り、ホコリと木くずが舞う狭間に、手のひらほどの大きさの子猫がうずくまっていた。
「大丈夫?聞こえる?」
ゆっくりと、慎重に問いかけた声に、小さな影がピクッと動いた。
「呼んだのは、あなた?」
腕を伸ばして、ちぢこまったその背中を、指先でちょんっと触れてみる。
すると小さく開かれた紅い口から「ミャア」と、かすれた声がこぼれた。
「こっちおいで?手当てしよう」
ほこりまみれの毛をゆっくりと撫でると、少しだけ頭を動かした。
かわいそうに。
もう、自分で動く力もないみたい。
両手を伸ばして、ぐったりとして動かない身体を、そっとすくいあげる。
手のひらに、弱々しい体温が鼓動とともに伝わった。
「この傷…。あなた、どっかから逃げてきたんだね」
白いはずの毛に覆われた身体のいたるところに、鋭い刃物で斬りつけられたような跡がある。
何かの
「これじゃツライよね。ちょっと待ってね」
モゾモゾとしゃがんだまま後ろに下がって、起き上がる。
胸元から手ぬぐいを取り出し、ちいさな身体を慎重にくるむ。それから道端の木に咲いていた白い花をいくつか摘んで、手ぬぐいの上にのせたら準備完了。
ちょっとだけ。
今日だけ、特別だから。
使い古しの言い訳を自分に言い聞かせる。そしてそのまま、ふぅっと細く息を吐いて、目を閉じる。
右手を胸に当て、呼吸を整える。
自分が落ち着いてないと、術は上手くいかないから。
規則正しい鼓動が胸に響く。
それを合図に、指先をスッと花びらに伸ばし、おもむろにあの言葉を口ずさむ。
『―白き花よ。我が名のもとに、このちいさき命を癒したまえ』
そして瞬く間にキラキラと輝く光の粒に姿を変えると、花びらはスウッと布に溶けて消えた。
それを合図に、じっとしていた子猫がぐわっと毛を逆立て、身体をふくらませ、ゆるやかに背中を上下させた。
「どう?大丈夫?」
言葉をかけると、かたく閉じられていたまぶたがゆっくりと開き、つぶらな紅玉色の瞳が現れ、潤んだ瞳が弓なりに線を描いた。
「よかった―。これで痛みは治まるからね」
効いたみたい。
ほっと胸をなでおろし、子猫の鼻筋を指先で撫でるとクルルと喉を鳴らした。
「可愛いコだね。ウチに着いたら身体を洗おうね」
これで任務完了。
丸まった子猫を、手さげの籠にそっとしまう。
そして来た道を駆け足で戻って、行き交う人の波にまた飛び込んだ。
◇
市場から歩いて、十分ほど。
小さな店がひしめく繁華街の、その一角の白い門柱が目印。ここが我が父上の診療所兼、自宅。
「ただいまぁ」
どこからも返事は無い。
無くて当然。あったらむしろ怖い。
そう、実は今、診療所は長期休業中。
普段なら診察を待つ人の話し声が響く軒先も、今は新緑の影が風に揺れるだけ。
毎年この季節に、父上は旅に出る。
薬材探しは研究熱心な父上の、ライフワーク。
確かに医師にとって、薬の開発は大事な仕事。
だからって、年に二回も、二か月近く休業するなんて、娘の私からしてもビックリよ。
それでもやっていけるのは、父上の腕の良さゆえ、なんだけど…。
「静かだなぁ…」
衣のスソの汚れを払い、庭に置かれた椅子代わりの切り株に腰を下ろしてひと息つく。
顔を上げると、目の前に広がる静かな庭。
薬草や季節の花が咲き乱れる、狭いながらも彩り豊かなこの庭は、子供の頃から大好きな場所。
嫌なことがあったり、イライラした時はこんな風に座って、庭をただ眺めた。
こうしてるだけで、モヤモヤした気持ちも、自然とどこかへ流れていく気がするから。
「この子も、この庭を好きになってくれるかな…」
籠の中でウトウトしてる子猫を、そっとなでる。
傷の様子を見るに、回復するにはあと数日はかかりそう。
しばらくウチで、養生してもらいましょう。
まずはお湯をわかして、一緒に湯浴みして、手当をして…。夜は羹でも作って…。
そんなことを考えていると、ふと、庭の奥に立つ
「あれ?誰か来てる…」
馬の鞍や仰々しい飾り紐から、乗って来たのは皇城の武官だってわかる。
誰だろう。
お迎えにしては、早すぎる。
慌てて立ち上がって、早足で母屋に向かう。
勢いよく戸を開けて中に入ると、すぐに奥から不機嫌な声が飛んできた。
「遅いぞ、
仁王立ちで待ち構えていたのは、
「あら
自信満々に言い返すと、逸くんは浅黒い眉間に深いしわを刻んだ。
「オレが無駄に早く来るか。行くぞ。早く支度を」
お互い、子供の時から朱家に出入りしてて、かつ年も近いから軽口を叩ける間柄なんだけど、この人ってば、無骨でまんま武人って感じで、ホント愛想がないの。
「ちょっと待って。着替えてもいいでしょう?こんな薄汚れたカッコで
「そんなこと後回しだ。若君が『害』を受けたんだ」
「え」
『害』
その言葉に、背中に冷たいものが走る。
「若君は今、伏せってらっしゃる。急がねば」
「分かった。今すぐ用意してくるっ」
私は籠を抱えると、二階に駆け上がった。
ほんとは湯浴みして、顔を洗って紅をひいて、着替えて髪をとかして―って、予定だったのに。
乙女の純情を、こうも握りつぶしてくれるなんて、神様も少しぐらい配慮してくれてもいいんじゃない?
なんて恨み言のひとつも言いたくなるけど、何よりも諧さまのお身体が第一。
一秒でも早く、用意をしなくちゃ。
「ごめんね。すこしキツイかもしれないけど、治療させてね」
自分の部屋に入ると、日当たりの良い窓際の机の上に、籠から取り出した包みを置く。
巻いていた布をゆるめて子猫の様子を見ると、燃えるような紅玉の瞳が、静かにまばたきをした。
「ほんと、宝石みたいに綺麗な瞳ね…」
陽の光を反射した瞳は、おもわず見とれてしまうほどキレイ。これが”彼ら”が持つ高貴な美しさ、なんだ。
そう、この子はただの子猫じゃない。
『聖獣』
それは文字通りの、聖なる存在。
建国の神話に語られる彼らは霊獣の中でも格が高く、限られた人間しか触れることができない、尊きもの。
ホントは私みたいな、フツーの人間が気安く触れていい存在じゃない。
でも、だからって、苦しんでる子を放ってはおけないから。
まぁ、父上がいたら大目玉くらうところだけど、今は良心に従うわ。
「眠ってる間に良くなるからね」
本当は何か食べてもらいたいけど、そんな時間はない。
部屋の隅の鉢植えに咲いた、薄紅色の芍薬の花をひとつ切り落とし、その花びらで子猫の身体を覆う。
大きく息を吐いて、呼吸を整え、指先を花びらに添える。
『花帝の慈悲に請う―。その瞬きにて、このちいさきものを癒したまえ』
言祝を宣ると、触れる花びらからフワッとちいさな光が湧きあがり、波となって他の花びらに広がった。
ほんのりと甘い、涼やかな香りがあたりに満ちて、光の粒子とともにサラサラと子猫を包みこむと、スッと布に溶けて消えた。
「これでひと安心、ね」
ホントは父上の許しがある時にしか『花』は使えないんだけど、今日は特別。
「帰って来たら、
紅く澄んだ瞳が揺れて、瞼が静かに閉じられた。
「いってくるね。ゆっくりおやすみ―」
小さな声でささやいて、真新しい上着を片手に、私はいそいで階段を駆け下りた。
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