せめてものプライド

「もうちょっと寝たほうがいいですよ、忙しいんですから」

「いいんだよー、佐藤くんが心配しないで。ちゃんといっぱい寝てるもん!」


 荷物を置く。彼女の正面の席に。

 パソコンと大量の打ち合わせ資料が入ったカバン。あと一応、大学の教科書も入っている。けど、どうせこれは使いはしない。大学生だもの。授業に出ても勉強はしない。


 僕ら構成作家を含むラジオのスタッフたちには毎回、朝の準備というものがある。

 届いているハガキを確認したり、ラジオに関連したイベントの打ち合わせ、今後のスケジュールの調整、わざわざ演者様の時間を取らないように、スタッフだけで先に終わらせているものだ。


 でも、このラジオに関しては、なぜかいつも彼女がいる。


 彼女――、小川 雪。

 とんでもなく天才。でも、ちょっと天然。

 圧倒的な演技力と、バカで、純粋無垢なキャラクターが大ウケ。

 フォロワー35万人。

 昨年、声優アワード主演声優賞を受賞。

 アニラジアワード最優秀ラジオ大賞も2年連続で受賞。


 今、最も勢いのある超人気声優――。 

 それが彼女、小川 雪である。


 彼女はすごい人なのだ。

 すべての声優たちを、視聴者を、業界人を実力と人気で黙らせてきた。


 時代の最先端。彼女が歩いた道が時代になる。

 そういう人。神から選ばれた"ホンモノ"の境地。


 ただ――。


「ねえねえ、これ見てよー!」

 

 歩きながら食べ終えれなかったおにぎり。

 それを少し口に含んでいると、彼女が自分のスマホを突き出してくる。


 彼女は幼稚。かまちょ。年上とは思えない。

 

「このショートケーキっ! すごい美味しそうじゃないー?」


 彼女が差し出すスマホの画面にあったのはバズっているどこかのカフェの動画。


「佐藤くんも甘いもの好きだよねっ! いつも仕事ばっかりしてないので、たまには息抜きしたほうがいいよー」

 

 朝イチ。現在の時刻、7:45。

 外はまだ静まり返えっている。街はまだ起きていない。この世界はまだ始動していない時間帯。


「ね、今度の休みの日さ、これ一緒に食べに行こうよ。どうせ休み一緒でしょ?」


 騒がしい彼女の声が頭に響く。

 彼女の声は朝の時間には少し甲高い。綺麗な声だとは思う。元気で結構。このまま撮影も頑張ってほしい。そう思う感情と同時に、どこかうざったい気持ちが正直、あった。


 そして、それ以外にも。


「小川さん、自分の立場わかってるんですか。もう、そんなところ一緒に行けるわけないんですよ」


 ――身の程をわきまえろ 

 ――自分の影響力を自覚しろ

 ――この甘えたクソガキ


 そういう彼女への言葉たちが頭をよぎった。

 でも、そんなこと言ったら、彼女はわかりやすくしょんぼりする。

 だから、できる限り棘を削った言い方がこれ。僕が朝イチにできる彼女への最大の配慮。


 彼女は天才声優。超人気。超売れっ子。

 声も性格も顔も、お世辞抜きで可愛いと言われば、可愛い。


 そんなのは知っている。痛いほど。


 そんな彼女から向けられている「好意」――。

 それも知っている。鈍感なラノベ主人公なんてやってない。ちゃんと理解している。自覚もしている。


 でも、それと同時に、それが僕の人生の「炎上」の起爆剤として君臨していることも、僕はわかっていた。


 彼女からの「好意」を正面から受け取るわけにはいかない。


 立場上。僕らの関係はそういう関係だ。

 それが僕の中にある無責任な働き方のせめてものプライドと礼儀だった。

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ああ、久しぶりに見る彼女がいた。でも、すれ違いざまに僕は舌打ちされた。 あーる @a-ru_a-ru

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