肌寒い先輩の部屋で、煙草の匂いに咽せる。(1)

「ダメです。一限遅れちゃいますよ?」


 細い指に大きい手が私の後頭部に回る。


「いいよ、サボる」

「またそんなこと言って。最近サボり過ぎです、出席足りなくなったらどうするんですか」

「ちゃんと考えてるよ。まだ大丈夫」


 大学のことを追及している間も先輩の小さな顔は私に近づいてきていて、ついには比喩なしに目と鼻の先ほどの距離になる。


 これからどんなことが起きるのかを想像すると、自然と先輩の艶のあるピンクの唇に目が移ってしまう。


 ドクドクとうるさい胸の音は少しずつ間隔が短くなっていき、耳にはもう心悸とお互いの息遣いの音しか入らない。


「…んちゅ」

「…!」


 瑞々しい音が鳴ったのを合図に、一切の音が聞こえなくなる。


 私の全ての意識は唇に持っていかれる。


 柔らかくて、暖かくて、味なんてしないはずなのにどこか甘い。


 この人からの信頼が身体に伝わってくるようで気持ちがいい。


「…先輩、このまま——」


 



 


 人の演奏に足を止めたのは初めてだった。


 大学二年生になっての文化祭。そこそこ大きいうちの学校では、さまざまな出し物が外の会場で行われている。

 彼女は陽の光を浴びて輝く長い黒髪を靡かせながら、穏やかな表情で指を踊らせていた。

 が、その表情とは裏腹に、曲は激しさを帯びていて。

 曲名はなんと言ったか。

 たしか…ベートーヴェンの『月光』?だったか。別に音楽に詳しいわけでもないからわからないが。


 今までもストリートピアノなどで生の演奏を聴く機会はあった。

 しかし、私の体がそちらを向いたことも、さらに言えば頭の中に音が入ってきたことすらなかった。

 なぜあの時彼女の演奏に関心が湧いたのかはわからない。

 それは、まるで夜深の空に浮かぶ三日月のように凛とした佇まいに目を惹かれたのかもしれないし、演奏が素人にもわかるほど卓越したものだったからかもしれない。


 もっとも、そんなことはどうでも良かった。


 ただ事実として残っているのは、深い礼をした直後の階段を降りる彼女に私が詰め寄っているということだ。


 「あの!」


 今日初めて声を出したからか、自分でも驚くほどの大声が出た。


 「あの、いきなりすみません」

 「いいけど、どした?」


 すこし鋭い目つきに萎縮してしまいそうになるが、なんとか声を絞り出す。


 「演奏、とても素敵でした」

 「おーありがとう。あんまり直接言われることってないから照れるね」


 どうとも思ってなさそうな、感情を感じさせない声でそう言われる。

 表現しずらいような独特な雰囲気の人だ。


 「それで、あの…」


 あれ、私はなぜ声をかけたんだったか。

 

 「うん。ゆっくりでいいよ」


 目に見えるほど慌てていたらしい。

 少し恥ずかしいが、そう言われると安心する。


 「れ、連絡先!…交換しませんか?」


 …うん?今なんて?

 ほんの一瞬前の記憶が間違っていなければ、私は初対面で連絡先を聞いたらしい。

 これではナンパではないか。


 心なしか、彼女の顔にも少し困惑の色が見えた気がした。


 「連絡先?君みたいな可愛い子からの頼みならやぶさかではないけど…」


 思考に反して、私の口はこれ幸いと言葉を綴る。


 「本当ですか!じゃあ是非お願いします!」

 「…ま、いっか。じゃ私のQRコード出すねー」


 というわけで。

 私は名前も知らぬ女の人と、初対面で連絡先を交換するに至った。


 

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