第55話 坐禅した身心は悪事をなせない
正法眼蔵随聞記三の十の二
「世俗の礼にも、人の見ざる処あるいは暗き室の中なれども、
世俗の礼儀としても、人から見えない場所や暗い所であっても衣服を着替える時や坐ったり横になったりする時にだらしなく隠すべき所を隠さず無礼であることを天に恥じ鬼にも恥じるとして謗るのである。人が見ている時と同じに隠すべき所を隠し、恥じるべき所を恥じなければいけない。仏法の中の戒律もまた同じことである。そういうことであるから、仏道を学ぶ者は内外を区別することなく明るい所暗い所を選別することなく、仏道の定めることを心に置いて、人が見ていないとか知らないからといって悪事を行ってはいけないのである。
ここも極めて当たり前のことだ。やってはいけないことは人が見ていなくても、人に知られなくてもやってはいけない。
ただ人間というものは当たり前のことができないものなのだ。
世の中で起きていることを見ていると「これならばれないだろう」とか「隠し通せるだろう」と思ってやっていたことが露見して騒ぎになっていることばかりに見える。
因果というものがある。原因があれば必ず結果が現れる。現れるまでの時間が長くかかることもあるが、必ず結果は現れる。悪事をなせばそれに見合った結果が必ず現れる。それは外面的に現れることもあれば、悪事をなした人間の内面に現れることもある。因果の法則に例外はない。
どうすれば悪事をなさなくなるか?
私は坐禅すれば良いと考えている。坐禅を続けて30年以上になるが、坐禅した身心は間違ったことをしようとすると、非常な不快感がやってくる。ああやってはいけないなと悪事を回避できる。坐禅した身心は悪事をなせないのだ。
信じてもらえないだろうが、これは事実なのだ。
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