第2話 「私凄いでしょ」の世の中

 正法眼蔵随聞記一の一

 「はづべくんば明眼みょうがんの人をはづべし」

 水野弥穂子氏の注によると「「はづ」とは元来、相手に対して自分の劣っている点を自覚し、引け目を感ずる意」だそうだ。

 私なりに考えると、自らを省みる時は明晰な道理のわかった人の意見を聞くべきだ、ということになろうか。

 ここでは、道元禅師は如浄禅師から侍者になるように言われた時のことが書いてある。道元禅師は侍者となることを辞退する。

 侍者となることは「和国にきこえんためも、学道の稽古のためも大切なれども」、つまり日本という国で名を知らしめるためにも、仏道を学ぶ上にも重要だけれども、辞退された。

 それは如浄禅師の門下の宋の僧の中に明晰な人がいるはずで、何故そのような人がいるのに日本のような後進国の人間を侍者にするのか(「衆中に具眼の人ありて、外国人として大叢林の侍者たらんこと、国に人なきがごとしと難ずることあらん」)という批判が起こるのを避けるためだった。

 今の世の中の人間ならばどうなるだろうか。世の中に名前が知られる、有名になるとなれば何を置いても振り捨ててなりふり構わず飛びついて承諾するんじゃないか。今の世の中「私凄いでしょ。見て見て。認めてちょーだい!」という人間ばかりに見えて仕方ないからだ。実に実に浅ましいですなあ。

 道元禅師の態度は謙遜というように単純に捉えない方がいいと思う。

 道元禅師の目的は仏道を突き詰めること、真実・真理を得ることにあるのだから、余計なことに巻き込まれて修行の妨げになるのを避けようとされたのだと思っている。

 今の世の中、世の中に知られることが目的になってしまっていて、何のために生きるのかということがなおざりになってしまっている。そう思えてならない。

 「はづべくんば明眼みょうがんの人をはづべし」を読んでみてはいかが?

 

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