第5話 ディアドラに異変

 厩舎へ戻ると、スピララが出迎えてくれる。


「うーん? 泣いて戻って来るかと思ったけど、なんか嬉しそうじゃん」

「ああ。勝ったからな」

「そう。残念。負けてべそべそ泣くマナリークにざこざこ言うのを楽しみにしてたのになー」

「ははは。それは悪いことをしたな」


 そう言って俺はスピララの頬を撫でる。


「ありがとうな」

「な、なに? スピララはなにもしてないけど?」


 泳ぐスピララの目がディアドラを睨む。

 睨まれたディアドラのほうはきょとんとしていた。


 今日のレースに勝てたのはスピララのおかげでもある。


 口は悪いけど本当に俺のことを思ってくれている良い子だ。

 ずっと側にいて俺を支えてほしい。


 ……けど。


 スピララは馬だ。

 まだ先のことだが、俺よりずっと早くに死んでしまう。


 ずっと一緒にはいられない。


 以前にスピララの言っていた言葉が胸に響く。


 いつか来るであろうディアドラやスピララとの別れを想像すると、本当に辛くて胸が苦しくなる思いだった。




 それから俺はディアドラと共にレースを連戦連勝。

 圧倒的な脚の速さで勝利を重ね、ついにオランデムス記念への出走が決まった。


 ディアドラは本当にすごい馬だ。

 俺がなにもしなくても圧倒的な脚でレースに勝つ。


 勝って皆が賞賛してくれる。

 しかしディアドラの才能に頼る勝利ははたして俺が勝ったことになるのか?


 そんな疑問が頭の片隅にあった。


 オランデムス記念を明日に控え、俺はディアドラを軽く走らす。


 状態は悪くない。

 明日のレースは必ず1着を取れるはずだ。


「マナリーク」


 走るディアドラの脚を止めたところへ誰かが声をかけてくる。


「カルナタ?」


 声をかけてきたのは弟のカルナタだった。


「明日のオランデムス記念にお前も出るそうだな。まさか僕に勝つつもりか?」

「ああ」


 そう言葉を返すと、カルナタは眉をひそめて俺を睨む。


「たかが数回、勝っただけでずいぶんな増長だな。僕はお前よりもずっと多く勝っている。図に乗るんじゃない」

「今までどれだけ勝ったかなんて、明日の勝敗には関係ない。わざわざそんなことを言いに来るなんて、俺に勝てる自信が無いからじゃないのか?」


 勝てないかもしれないという不安を紛らわすために俺を侮りに来た。

 そんなところだろう。


「ふ、ふざけるなっ! 僕がお前に勝てないだと? 調子に乗るなっ!」

「調子に乗っているだけなのかどうかは、明日になればわかる」

「ふんっ! お前なんぞオランデムス記念に出走できたことが奇跡なんだっ! せいぜい最下位から僕の優勝を眺めて苦渋を舐めるがいいさっ!」


 大声でそう吐き捨てると、カルナタは俺に背を向けて去って行く。




 ……次の日の早朝、オランデムス記念のレース会場へ向かうため厩舎へディアドラを迎えに行くと、


「ディアドラ?」


 具合が悪そうに寝藁へ蹲っているディアドラが目に入る。


「ど、どうしたんだ?」


 昨日までは元気だったのに一体どうしたのか?


 心配もあるが、今日のレースに出られるのかという不安もあった。


「なんかお腹が痛いみたい」


 隣から歩いて来たスピララの言葉にディアドラは頷く。


「腹痛い。動くの無理」

「そ、そんな……」


 動けない。

 それはもちろんレースに出走することができないということだった。


「……わかった。レースの出走は諦める。とりあえず医者を呼ばなきゃな」

「いいの? オランデムス記念とかいうのに出て勝つためにずっとがんばってきたんじゃないの?」

「具合の悪いディアドラを無理に走らすことはできない。残念だけどオランデムス記念は諦めるしかないよ」


 これまで十分にやった。

 オランデムス記念に勝たなくたって、皆は俺を見直すだろう。


 医者を呼びに行こうと歩き出したとき、


「マ、マナリーク様っ!」


 厩舎の厩務員がやって来て俺の前に跪く。


「申し訳ありませんっ! ディアドラの具合が悪いのは私のせいなんですっ!」

「な、なに? どういうことだ?」

「は、はい。実はカルナタ様の命令でディアドラに毒草を食べさせて殺すように言われたのです」

「なんだとっ!?」


 俺は思わず厩務員の胸倉を掴んでしまう。


 彼が悪くないのはわかっている。

 カシュノア家に雇われているのだから、雇い主の息子に逆らえないのは当然だ。


 それがわかっていても、俺は怒りをぶつけずにはいられなかった。


「も、申し訳ありません。しかし私も馬が好きなのでこのような仕事をしている身です。殺すなんてとてもできませんでした。ですから少し腹を下す程度の草を飼葉に混ぜたのです」

「そ、そうか」


 俺は厩務員の彼から手を離す。


 ディアドラの命に危険が無いことを知ってひとまずは安堵した。しかしいずれにせよレースには出られない。


「カルナタめ……っ」


 卑劣な上に、馬の命を軽んじる最低な奴。

 オランデムス記念に出走できず、奴の思い通りになるのが悔しかった。


「カルナタって、すっごいざこだね」


 フンスフンスと鼻息荒くスピララが言う。


「おにいちゃんに勝てないからって毒を食べさせて出走できないようにするってさ、すんごいざこ野郎じゃん。そんな奴はスピララが懲らしめてやる必要があるね」

「スピララが懲らしめるって、なにをする気だ?」

「わからない? ほんとマナリークはざこなんだから。あのざこ野郎を懲らしめるって言ったら、マナリークがスピララに乗ってオランデムス記念に出走して優勝するってことに決まってるじゃん」

「えええっ!?」


 確かにカルナタを懲らしめるにはあいつをオランデムス記念で負かすのがもっとも効果的だとは思う。けど、


「オランデムス記念は国中の名騎手が名馬に騎乗して行われるレースなんだぞ? トレーニングもレースの経験も無いお前が出て勝てるはずはない」

「トレーニングならしてたし。おにいちゃんと一緒に走ってたからね」

「う、うーん……」


 ディアドラのトレーニングに付き合ってスピララも走っていたのは事実だ。現にスピララの身体つきは半年前とくらべてかなりがっしりと力強く鍛え上げられており、競走馬のガタイとなっていた。


「けどやっぱりお前にはレース経験が無い。トレーニングで身体はできあがっていても、まったくレースの経験が無いのにいきなりオランデムス記念に出走するなんて無謀だよ」

「レース経験は背中に乗ってるマナリークが補ってくれればいいよ。スピララがちゃんと従って走ってあげるからさ」

「お、俺がレース経験の無さを補うのか……」


 これまでのレースはほぼディアドラに任せきりで、俺は騎手としての役目をあまり果たせていなかったように思う。


 ディアドラは競走馬として天才だ。俺の助けなど必要としないでも、レースでは1着を取れる。

 しかしスピララはどうだろう?


 小柄な牝馬だ。

 ディアドラのように豪快な走りで他を圧倒するなどできそうにない。


 俺がスピララを助けてオランデムス記念に勝てるか?

 前世の記憶に頼っても、勝つのは難しい……。


「おふっ?」


 不意にスピララの鼻が俺の額を突く。


「なんか弱気なこと考えてるじゃん。ほんとざこ」

「け、けど、やっぱり無謀だ。勝てるはずはない」

「あーもういい。こんな弱気なざこざこ男を乗せたら勝てるもんも勝てなくなっちゃうからさ。レースにはスピララだけで出るから、マナリークはここでおにいちゃんの看病でもしてたらいいじゃん」

「スピララだけでって……騎手がいないとレースには出られないぞ」

「そんなの関係無い。一緒に走って勝っちゃえばいいだけだもんね」

「だめだそんなこと」

「弱虫ざこ男の声なんて聞こえなーい」


 止める俺からそっぽを向いてスピララは厩舎を出て行こうとする。


「スピララっ!」


 前に立ち塞がると、スピララはキッと俺を睨む。


「なにさっ! スピララはおにいちゃんを殺されかけたんだからねっ! あいつを懲らしめてやらないと気が済まないのっ! どいてっ!」

「き、気持ちはわかる。俺だって怒ってるんだ。けど……やっぱり」


 無理だ。勝てない。

 ディアドラでなくてはカルナタには勝てないんだ。


 そんな卑屈な思いが俺を支配していた。


「やっぱりマナリークは落ちこぼれのざこだから逃げる? そうだよね。今までのレースだってどうせおにいちゃんに頼りっきりでなにもできていなかったんでしょ? ただ背中に乗ってるだけで勝ってそれで満足してたんだ?」

「そ、そんなことは……」


 俺はスピララの言葉を聞いて歯噛みする。。


 両親や弟、俺を侮蔑する皆を見返すためにオランデムス記念での勝利を目指してきたのに、今まのでレースはずっとディアドラに頼りきりだった。


 俺はほとんどなにもしていない。

 これで見返したことになるのか? いや……。


「俺は……」

「どいて。落ちこぼれのざこに用は無いから」


 そう言って先へ進もうとするスピララの鼻先に俺は手をかざす。


「待て」

「待たない」

「俺も行く」

「うん? なにしに? ついて来たって、スピララは止められないから」

「走るのを止めはしない。ただ、俺を乗せてくれないか?」

「……」


 スピララがじっと俺を見つめる。


「さっきよりは良い顔してる。わかった。けど、弱気になったら振り落とすから」

「ああ」


 オランデムス記念に勝てるかはわからない。

 けど、このままじゃ俺は落ちこぼれのままだ。皆を見返すには、ディアドラに頼らず俺自身の能力も発揮してレースに勝つ必要があった。

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