第3話 ズレた世界
ルナは浴室に良く響く口笛を奏でていた。バスタブに浮かぶ汚れを見ては、満足げな笑みを浮かべている。彼女の手は、血とお湯が混じり合っており、浴槽の縁に触れていた。その指先には、血塊がまとわりついていたが、彼女にとってはそれがむしろ良いことのようだ。
汚れが彼女の欲望をかきたて、喜びを与えているように見える。
彼女は浴槽に浸かり、汚れた水を泥のように塗りたくると、新しいおもちゃを手にした子供のような無邪気さで身体をゆすった。
蒸気に包まれた浴室の中で、彼女はシャワーを浴びた。その流れる水滴は、白い肌にぴたりと張り付いていた。金色の髪は、水しぶきとともに揺れ動き、彼女の美しい背中を包み込んでいた。流れ落ちる雫は、彼女の形の良い胸を優しく包んで、軽く揺れ動いていた。
湯気とともに立ち込める熱気が、彼女の身体を包み込み、柔らかな表情を浮かべ、指先から身体の奥深くまで熱くたぎらせる。ホースに繋がる蛇口を回し、水温を低めに調整していく。流水は血清を溶血させ、螺旋状となり排水溝に向かって吸い込まれていく。
やがて詰まるだろうと考えながら、彼女は鼻歌に合わせて腰をくねらせた。色気づいた身体の上を踊らせるように手を滑らせていく。指は腕から肩を伝い、乳房へと這っていく。
汚れを落とし、露になった乳白色の肌。しかし、その皮膚の下にはそそがれぬ穢れがあった。理性では抗えない、低俗な本能が彼女の肉体を動かしていた。彼女は自身の鼻歌が甘美な吐息に屈服するまで、焦らしあえがせ、肉欲を貪り続けた。
脳液を揺さぶる波が引いていくなか、彼女は思った。
(この穢れはいつそそがれるんだろう。誰かそそいでくれるんだろうか。どうして出て行ってくれないの。
……違うわ。穢れが足りないんだ。小さすぎるから浮いたままなんだ。もっともっと、大きくしなきゃ)
その
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東雲は髪を乾かし、薄暗い部屋でくつろいでいた。ルナが勧めたとおりに入浴したが、不快感だけが尾を引いていた。調子を取り戻すように、煙草に火をともし、肺の隅まで煙をくぐらせた。
東雲は目を閉じ、深呼吸をする。頭の中は荒れ小屋のように散らかっており、前世の記憶がばらばらに飛び交っていた。
「あの人は……あの人は誰だったか」
東雲は頭をかきながら、思い出を探す。しかし、そのたびに、記憶がすぐに飛んでしまう。東雲は諦めかけたが、そんな時、至福の一服から、思い出すことができた。
「あ、あの人は……」
東雲は思い出した人物の名前を呟きながら、微笑んだ。しかし、すぐにその記憶も消え去ってしまう。東雲は頭を抱えながら、自分が転生してから過ごした22年の年月を改めて実感した。
「あの世界に帰りたいんだ」
東雲は深くため息をつきながら、目を開けた。しかし、目の前には見慣れた窓辺が広がっていた。東雲は自分がここにいることを受け入れながら、次の行動を考えることにした。
(次は……なんだったか。転生したのに、前世でやりたかったことも思い出せないなんて、情けないやつだ。これじゃあ宝の持ち腐れ、異世界転生の持ち腐れさ、まぬけめ)
気取った自己陶酔に、彼はみずから引きつり笑いを誘った。自虐を犯してなお、その言葉にはある種の安堵を感じていた。自分には何も期待しない。そうすれば、失望することもない。しかし、自分の存在そのものには、なんとなく愛着を持っていた。貶める考えに取り憑かれながらも、退廃的な愛情を感じていた。
春風が心地よく吹き抜ける昼前の路地。二人は喫茶店でティータイムを共にしていた。店の通りは自然の清々しさを切り抜き、街並みと調和のとれた景観をしている。周囲には活気あふれる建造物が広がっているが、そこにはなぜか妙な静寂が漂い、どこか憂いを帯びた不穏な雰囲気が立ちこめていた。
「改めて、ルナ。気持ちに変わりはないか?なにも君が手伝わなくったって、私だけでも何とかするつもりだが」
「私にはその言葉、ずいぶん弱気に聞こえるわ、シノン。見てわかるでしょう?お断りをたたきつけにきた女の子じゃないってことは」
彼女は胸元をトンとたたき、パチリと片目を閉じてみせた。その仕草は東雲の硬い表情をゆるませた。
「助かる。人は多いほうがいい。こんな世の中じゃ、仲間一人見つけるのも難しい」
「そうね。みんな自分の才能を伸ばすのでいっぱいいっぱいなのよ。私にしたって、剣技を磨きたい、この街がずっと続いてほしいって気持ちが半分ずつだもの。その内、剣の道しか見えなくなるのかしら」
そう言いながら手元のカップへ視線を落とした。まぶたをふせながら、薄ら笑いを浮かべる彼女に、東雲はつぶやいた。
「成長と月の満ち欠けは少し似たところがあるね」
気分をかえるような弾むトーンで語りかけた。
「満月から新月に移行する過程で月の光が段階的に減るし、新月から満月へと移行する過程では段階的に増える。才能も時間と共に成長するし、継続的な努力や学びが大切だね。そう考えてみると太陽は私たち人の」
「シノン」
彼女は不意に呼びかけ、カールがかったまつ毛の間から好奇な瞳をのぞかせた。
「月は月よ、満ちも欠けもしないわ。雲の邪魔立てさえなければ、どんな夜だって照らしてくれるわ」
「……そうだったな」
彼のその声には、何か狂気的なものを感じさせる。
「おかしな人。でも、月が欠けるなんて面白そうね。誰も考えもしないわ、そんなこと」
彼はかすかな違和感を幾千と繰り返し経験してきた。
(似ているようで、違う)
断片的にしか前世の記憶を思い出せないが、そのどれもがわずかにかみ合わない。上歯と下歯の嚙み合わせが段違いになっているような、強烈な不快感を抱いていた。
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