十二話 三品恋頼 『各々の贅沢』

―― 四月二日(金) 佐々木家の地下室 ――



「――三品さん、起きてますか?」



 声を掛けられたことで部屋に入ってきたのが笹島だとわかった。


 これが茅ちゃんなら寝ていようが起きていようがお構いなしだ。甲高いホイッスルを鳴らされたり、お腹を踏みつけられたり、水をぶっかけられたり……あるいは呼吸できなくなるまで全身をくすぐられたりする。



「これから山内さんを連れてきます。彼女に許してもらえたらこの状況ともおさらばです。ようやくですよ、三品さん」



(……ああ、ってことは私これから山内にぶっ殺されるんだ)


 笹島にそう言われた時、私は直感的にそう解釈した。

 茅ちゃんに対するこの復讐心……それと同等の感情を抱いているであろう人物がここへやってくるから許しを請えと、笹島はそう言ったのだ。


 目隠しを外されるとそこにはいつも通りの笹島がいた。

 山内が私を許すはずがない。わかりきっているくせに――恨みがましい気持ちを込めて睨んでみるものの、笹島は涼しい表情を崩さない。

 相変わらずだ。紳士な態度を装って、縛られた女を見下ろすその姿勢……本当に最低の男だ。



「……睨まなくてもいいじゃないですか。これで終わりにしようと言ってるんですから」



 ――と、そう思っていたのは数日前までのこと。今の私にとって笹島という男はマラソンでいうところの給水ポイントに近い存在であった。


 そう。最初はこの男が元凶なのだと思っていた。

 なぜなら男だから。

 それに茅ちゃんとは仲がいいと思っていたから。


 でも違った。

 私の考えは間違っていた。


 笹島なんて茅ちゃんに比べたらただの人間だ。言葉の通じる人間の雄……それも紳士的な雄だ。決して鬼ではない。


 逆に茅ちゃんは……本当にあの佐々木茅と同一人物なのかと、そう疑ってしまうほどの鬼畜ぶりであった。


 だからこの部屋に入ってきたのが笹島だとホッとする。

 彼が来ると目隠しを外してくれる。

 猿轡を取ってくれる。

 楽な体勢に変えてくれる。

 それに笹島がいると茅ちゃんもおとなしくなる。


 まさにお助けキャラだ。決して逃がしてはくれないし明らかに味方ではないのだが、茅ちゃんとのギャップでいい人に見えるのだから不思議だ。



「あんな幼稚園児みたいな佐々木さんを見るのは久しぶりですよ……嫌われましたかね、さすがに」



 そんな笹島のちょっとした違和感……いつものどことなく自信をにじませている態度ではない。元気がないというか、しょげているような感じがした。


 どうやら茅ちゃんと何かあったらしい。じゃあ山内を連れてくる前にそっちを解決してくれよ……機嫌が悪いと何されるかわからないんだから。



「……というわけで、僕も覚悟を決めたんですから。三品さんも腹を括ってください」



 腹括れって……覚悟なんてしようがしまいが山内を連れてこられたらどのみち死ぬんだが?

 ……と、反抗的になったところで仕方がない。どうせ逃げられないのだ。今の私を人間扱いしてくれるだけマシだと思って心の安寧を保つしかない。



「それと、もし山内さんに許してもらえたなら、三品さんも佐々木さんのことを許してあげてください」



 お願いしますと言いながら笹島は頭を下げた。私は虚ろな目でその様子を見た。


 無理だと思った。

 まず間違いなく、笹島の考えるようにはならない。


 理由は二つある。

 一つは茅ちゃんに対する私の気持ちが整理できないこと。

 もう一つは私が山内に許されるはずがないということ。


 この二つの障壁を超えることはできない。

 笹島はそんな簡単なこともわからないらしい。



「今の彼女はちょっと……なんというか、三品さんが解放されれば元に戻るといいますか……とにかく、根っからの悪人ではないんです。環境がそうさせているだけなんです」



 言葉には思考が乗っていて、声音には動揺が表れている……なんとも歯切れの悪い感じだった。



「というか、言おうと思っていたんですが……僕が考えるにいじめの発端はとても些細なことです。具体的には年度初めのホームルーム、自己紹介の時、山内さんの声の小ささや震えを笑いのネタにした担任の教師……アレが元凶ですよ。場を支配する権力者がクスクスと笑う生徒たちをまったく咎めず、嗤われる役割を山内さんに与えてしまった。先生にとっては場を和ませるための些細なジョークだったのかもしれませんけど、そのせいでクラス中に侮る雰囲気が蔓延はびこってしまったんです」



 結果、精神が幼稚な三品さんたちが真に受けてしまったと、たぶんそういうカラクリです――そう言い残し、笹島は部屋を出て行った。


 私をフォローすると見せかけて止めを刺してくる感じが何とも笹島らしい。


 アレは年上女性の〝何歳くらいに見える?〟という質問に対して的確な数字を答えるタイプか、もしくはぽっちゃり体型の女の子のBMI指数を本気で推定し、言い当ててしまうタイプの人間だ。


 差別もないし、贔屓もない。

 空気も読まない。

 遠慮なく図星を狙ってくる。


 ……


 ……さて、人は何もすることが無いと考え事をしてしまう生き物らしい。


 山内が私を許せないであろう理由は語るまでもないとして、茅ちゃんに対する私の気持ちというのは……まあ難しい。とにかく難しいのだ。


 まず私の思考の出発点は笹島との会話である。

 あの時私は〝山内を嫌っているからいじめた〟という答えを出した。ぶっきらぼうな答え方ではあったけれど、噓偽りない私の本心だった。


 では茅ちゃんが私に暴力を振るう理由は?


 私と同じで〝嫌いだから〟だろうか……たぶんそれは違う。

 というのも、私は茅ちゃんから憎悪や嫌悪の感情を向けられたことは一度もない。彼女が鬼畜になる前にも後にもない。わかりやすい罵倒というものを受けたことがない。



『――理想的なサンドバッグか、美術品か、あるいはオモチャかな――』



 彼女が言うそれらは嫌悪の対象になるだろうか……と、考える。


 一般的なものの見方として、毎日のように叩き、観賞し、あるいは遊び道具にしているモノを嫌う? ……そんなことはないだろう。少なくとも、モノとしての私は嫌われていなかった……それどころか、好かれていたとさえ言える。

 なにより、監禁される直前までは本当に仲が良かったのだ。それを信じたいという気持ちもまだ残っている。

 だけど、その上で蓄積される復讐心もあるわけで……



『――うん、ばっちり。写真撮るから動かないでね? ……すごい、芸術的な画。綺麗だよ、三品。そのままそのまま――』



 ……いや、これは復讐心なんだろうか?


 というのも……というか……これ以上考えたくない……ここへは踏み込みたくない……



『――あーあ、動くなって言ったのに。やっぱりいくら言葉が通じても人間って動物だね。ちゃんと躾けないと駄目みたい――』



 ……のだが、もう駄目だ。

 無視できない。

 ここにメスを入れないと一生自分を見失うことになる気がする。


 ……


 ……私は自分の直感を信じて、心のブラックボックスを開けた。



 ――



 この復讐心……勘違いというか、見当違いという可能性はないだろうか?


 難しいのだが、私の思考には『苦痛を与えられたのだから、復讐心を抱くのは当然で、むしろそうでなければおかしい』という土台が先にあって、それを元に感情を作り上げたというか? 


 だから要するに、茅ちゃんに対する憎悪なんてないにもかかわらず復讐心を構築していったというか?


 そもそも悪いことをした自分がいて、そのことで罰を受けている……そんな状況を認めている自分がいるというか……。


 でもそんな状態になっている自分が恥ずかしくて、その恥ずかしさを怒りの感情で紛らわせているというか……。


 ……やっぱりうまくまとまっていないような気がする。


 いや、つまり何が言いたいのかというと、茅ちゃんの暴力は〝いじめ〟とは全く性質の異なるものだったということであって……痛みはあっても苦ではなかったというか……うん、なんかこれは違う。

 苦痛は苦痛なんだけど……なんて言ったらいいの? 嫌われてないなら何されても別にいいやって、そう思ってしまえたというか……。


 ……うーん、わからん。わからんですよ私なんかには。


 もう自分で自分がわかんない。まとまらない。結局は私がマゾかどうかって話になるとか……ならない……とか……


 ……



『――よしよし、いい子いい子、怖くない怖くない……なんていうか、本当に可愛くなっちゃったね、三品――』



 ……


 ……いや、ちょっと待った。


 やっぱり無し。


 今の、全部、無し!


 そんなことは微塵も思っていない!

 一切ない! あり得ない!

 いやいや、何を考えてるんだ私は……!


 ……


 ……いや、やっぱり私に限ってそれはない。認められない。

 ……うん、今のは全部気の迷いだ。絶対にない。

 私にそういう趣味はない。


 これはあれだ……そう、茅ちゃんに洗脳されてるんだろうきっと。何日も縛られて酷いことをされて、たまに優しくされていたからそういう発想になってしまうんだきっと。


 うん、なんだ、典型的な飴と鞭じゃん。

 それを知ってて支配される感覚に酔っちゃうやつとかいるわけないじゃんね?


……ああ、そうだ、自己防衛の意識だ、きっと。そうだわ。そうに違いない。


 そうそう、笹島も言ってたじゃん。『環境がそうさせる』って。茅ちゃんのドSな面に当てられて感覚が麻痺しているだけだきっと。役割分担的に私がそう・・なってしまったんだ。

 間違いない。

 私のせいじゃない。


 ……うん、きっとそういうことだ。

 そういうことに違いないんだ。きっと。


 この……なんというか……茅ちゃんに対する……ある種の……なんというか……なに? なんというか、その……この、変な、感覚は。


 ……


 ……いやいや、いーや、ない! 

 ないない!

 違う違う!

 絶対に違う!



『――覆しようのない感覚です――』



 うるせぇんだよこのクソ馬鹿変態コミュ障野郎が!

 違うっつってんだろ。黙ってろよお前は。


 仮にあったとしても私の本性じゃないし。

 いやホント、絶対に違うから。


 これはあれだ、病気だ、病気。しかもすぐに直せるタイプの病気だ。

 精神的な病気に違いない。いや、そうに決まってる。

 むしろおかしくならなきゃ乗り切れなかったんだ。苦痛を別のものに変換しないとやってられなかった……うん、そう考えたら自然じゃん?

 だからこんなの本当の自分じゃないんだって、本当に。


 よかったよかった。これで大丈夫。私のアイデンティティは保たれた。



 と、理屈を展開し終わったところで急速に心が冷える。

 ブラウン管の電源が落ちたように頭の中からプッツリと色が消え、真っ黒な不安が脳内を占めた。


 理由はおそらく疲労だ。

 暢気な思考とは裏腹に体と心は極限まで疲弊しており、もはや難しいことを考える気力も体力も残っていなかった。



 山内が来る。どうしよう。

 ……どうしようもない。

 山内が来る。どうしよう。

 ……どうしようもない。

 山内が来る。どうしよう。

 ……どうしようもない。



 それはこれから起こることを反芻するだけの思考回路だった。

 極度のストレスで心拍数は上がり、ただただ緊張感を増幅するだけの時間が流れた。



   ***



 それから数時間後、茅ちゃんに案内されて山内がここにやってきた。

 私の心は巡り巡って、何周も回って、もはや虚無だった。


 前触れなく髪の毛を鷲掴みにされ、引きずられ、山内の足元に転がされる。

 痛みを感じると同時に恐怖した。この状況を見て山内は何を思っているだろうか……考えれば考えるほど怖くなった。


 腹部を何度も蹴られ、私の惨めな姿が山内の眼前に晒される。

 茅ちゃんはわざと山内の復讐心を煽るような態度をとっており、対して私はただのサンドバッグであることに徹した。


 そして山内の表情を確認した時、自分の未来を悟った。



(殺される)



 山内の目は復讐という欲でグラグラと煮えていた。

 黒目はかさぶたのようにザラりとしていて、なんだか赤黒く見えた。


 この監禁生活の中で日に日に育まれた恐怖の感情が爆発的に膨らんでいく。

 同時に山内への罪悪感も増していき、心は自ずと命乞いを始めた。疲労、恐怖、羞恥、抵抗、罪悪感、そして少しの希望を乗せて山内の目を見つめ返した。


 しかし手ごたえはない。

 バツの悪さしかない。

 再度一周回って、私の心は虚無になった。



「そういうことだから。コレ、好きにしていいよ。私たちは上で待ってるから。飽きたら上がってきて」

「えっ、あっ……」

「……と、そうだ。念のために目隠しもしておこうかな。凄まれたら山内さん日和っちゃうもんね」



 茅ちゃんは私を蹴り転がすと、うつ伏せの状態にしてその背後から手際よく目隠しをした。


 呼吸がだんだん早く、苦しくなっていく。そして涙も出る。嫌な予感が凝縮されたような粘っこい液体がにじみ出て、黒い布地が視界を埋め尽くした。



「いやっ、あの……」

「ああ、ごめんごめん。これも渡しておかないと……って、わかるよね? これはこうやって使う」



 空気を割くような乾いた音を伴って、背中と腕、そして太ももの裏に鋭い痛みが走った。咄嗟の出来事に海老反りしながら悶絶してしまう。


 エアガンで撃つ……これは私たちが山内にやったことのひとつだった。


 どうしてこんな酷いことができるのか……そう問いかける対象は茅ちゃんであり、過去の自分であり、もしくは一緒になって山内をいじめていた仲間である。

 が、その疑問に対してまともに答えたのは茅ちゃんだけだ。

 あまりにも無慈悲でどうしようもない答えだった。



『――自由も尊厳も奪われて、限りなく人ではなくなったモノ。理想的なサンドバッグか、美術品か、あるいはオモチャかな……だからコミュニケーションの相手にはなり得ないわけ――』



 しかし仮に山内が私を撃つのであれば、それに関しては何の疑問もない。どうしてこんなこと――なんてナンセンスな質問はしないし、できない。


 私の中でそれは絶対にやめてほしいことであると同時に、十分納得感のある正当な復讐行為だった。


 私は罪に対して罰が与えられるという正しさを今さらながら認めていた。自分の罪を自覚し、罰を与えられることを全面的に認めていた――今さっき、山内の目を見たと同時にハッキリと認識した。


 だからこそ助けてほしいと思った。

 これ以上ないほど反省しているのに、どうしてまだ痛めつけられるのか……もういじめなんて、本当に、二度としないのに……解放してくれてもいいのに……と、独りよがりな自分もまだ生きていた。


 またさらにこうも思った。

 気が済むまでやってくれ、と。


 これはこの監禁生活の中で培われた開き直りと、茅ちゃんに対する復讐心のもつれ……つまり、山内が抱えている復讐心に対して共感する心理、そして本来の勝気な自分の表れだった。


 助けてほしいのか、それとも罰してほしいのか……どうなっているんだろうか、私は。


 思考がまとまっていない。

 猿轡があってよかったとさえ思い始めている。

 考えることのすべて……何もかもが矛盾しているような気がして、何一つとして言葉にしたくなかった。

 自分で自分がわからなくなっていた。


 部屋はしんと静まり返っている。

 私と山内だけ……絶対に二人きりにしてはいけないふたりがこの部屋の静寂を作っている。


 私は身じろぎをしないように努めた。

 何をきっかけに復讐が始まるのかわからなかったから……バカみたいだが、死んだふりをしていた。



「……」

「……」



 今これ、何の時間なんだろ……その意味を考えるのが怖い。


 目隠しをされる前に見た山内のあの目を思い出し、私は心の準備をした。

 エアガンの発砲音を今か今かと待ち、痛みに怯えていた。



「……私、四月からはちゃんと学校に行きます」



 ゴトンと何かが床に落ちる音がした。山内の足音は私に近づいてこない……行動が読めない。

 床に落ちたのはエアガンだろうか……それとも他のモノだろうか。


 何もわからない。

 目隠しをされると物音がするたびに悪い想像が膨らんでいく。


 そして次に聞こえてきたのはチャキチャキという音……ハサミの刃を開閉する音だった。



「友達が欲しいとか楽しく過ごしたいとか……そんな贅沢は言いません。これ以上、お母さんやお父さんの負担になりたくはないんです。心配かけたくないんです……ただそれだけなんです」



 山内の声は平坦かつ無機質で、それでいて力強く、神憑り的に室内を飛び回った。

 不思議な感覚だった。


 いつものオドオドした様子ではなく、しかし強気でもない。復讐心に飲まれているわけでもなければ、この状況に戸惑っているわけでもない。無様な私を前にして優越感もない。

 どちらかというと諦観や虚無、無力感が伝わってくる。



「はぁ……こんなこと、なんで私が……はぁ……」



 そう呟く山内の声は震えていた。


 耳元にハサミの刃が近づいてきた。私は目をつぶり、両手を強く握りしめ、両足の指にも力を入れる。

 耳を切られるんだと思った。


 心臓の音がうるさくて仕方がない。

 呼吸が上手くできない。

 逃げることもできない。

 構えることもできない。

 怖い。怖い。怖い。嫌だ。嫌だ。嫌だ――







 ――そして、聞こえてきたのは布が断ち切られる音。


 切られたのは猿轡だった。口元を塞いでいた布が外された後、口の中に詰め込まれた布の塊を引っ張り出される。続いて目隠しが外され、両手両足首を縛る縄も解かれた。



「……」

「……」



 山内の目を見た。

 それは未だに赤黒く、ザラザラしていて、痛々しいほど渇いていた。

 目隠しをされる前に見た時と変わらない……いや、もっと怖い目をしていた。目尻から涙を垂れ流しながら復讐という欲望を奥底へ貯め込んでいる――そんな目で私を見ていた。



「服、無いんですか」

「え、あ、いや、たぶん……茅ちゃんが持ってる……聞いてみないと……」

「……じゃあ毛布でも羽織ってください。痣だらけで、見てられないので」

「え、あ、はい……」



 言われるがまま毛布を羽織る……いろんな要素が絡み合って弱気になっていたというのもあるだろう。気付けば普段の自分では絶対にしないような受け答えをしている。

 しかもあの山内に対して。


 この時、私は人間としての山内に初めて遭遇したのだと思う。


 自分がモノに落とされてようやく山内を人間と認識することができた。

 冷静に目の前の人物を判断することができた。


 というのも、私は山内と一対一で向かい合ったことがなかった。

 いや、むしろそうだったからこそいじめが成立していたとも言える。いじめ・いじめられの関係性は基本的に多対一で育まれるからだ。


 そんな要素が絡み合った結果、私はどこか新鮮な気持ちで山内を見ていた。こんな風に喋る奴だったのかと、今さらながら認識していた。



「どういう状況かは笹島君から聞きました」

「……だから?」



 ここ数日で喋り方を忘れてしまったらしい。言葉が流暢に出てこない。



「とりあえず佐々木さんの所へ行きましょう」

「……いや、ちょっと待てよ」

「怖いんですか?」

「いやそうじゃなくて……」

「……」

「……そうじゃ……なくて……」



 私はその場にへたり込んでしまった。


 山内の言う通り、私は茅ちゃんが怖かった。


 許可なしに部屋を出ていいものか……後から酷い目にあわされるんじゃないか……そんな奴隷じみた考えが体に染みついていて身動きが取れない。



 三学期のはじめ、山内が不登校になったことを私は馬鹿にしていた。そんなだからいじめられるんだと本気で思っていて、仲間内で嗤っていた。

 軟弱者だと見下していた。


 じゃあ今の私はなんだ?

 山内を馬鹿にできるほど芯の強い人間だろうか?


 ……全然、そんなことはない。

 私は他人のことをとやかく言えるような人間じゃなかったのだ。



 それは今まで信じてきた〝自分〟というものがまるっきり間違っていたという気付きだった。



 過去にしてきたこと、言ったこと、あらゆるものが間違っていて、それが恥ずかしくて、悔しくて……とめどなくあふれる自己嫌悪に溺れてしまいそうだった。


 精神がボロボロと崩れる痛みが涙となって表れる。



「……ごめ……なさい……」

「……」



 溺れる者は藁をもつかむと言う。

 その謝罪に何の価値もないことを私は知っていた。



『――簡単に謝罪を受け入れてもらえるような、そんな贅沢は許されないよ』



 受け入れてもらえなくてもいい。

 それでも私は謝りたかった。


 許してほしいとか、過去を無かったことにしたいとかではなく、これ以上自分を嫌いになりたくなかった。



 結局、山内にはなにもされなかった。何も言われなかった。

 罪は清算されることなく私の心に重たく残った。


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