十話 三品恋頼 『奇麗な抜け殻』
―― 高一 七月二十二日(土) 深夜 ――
シーツの質感、スプリングの硬さ、軋む音、枕の高さ、柔らかさ、厚さ、匂い……そして自分が何を考えているのかに至るまで。ベッドに寝転がった時、気になる点は人それぞれだし、どう気になるのかも人それぞれだと思う。
その点、私が一番気にするのは寝る姿勢だったりする。仰向け、うつ伏せ、右向き、左向き、両腕の対称性、両足首の角度、揃い方……どうしても気になってゴソゴソと動いてしまう。
快適な姿勢を探して寝返りを打つなんてごくごく一般的な話だけど、私の場合はもう一つ気にしなければならないポイントがある。
それは蹴られたり、踏まれたり、拘束されたり、そういうことが思い出されるような姿勢では寝られないということ。
例えば両手両足を大の字に広げて仰向けに寝転がる姿勢……ゾッとする。まな板の鯉だ。好きにしてくれ、殺してくれと言っているに等しい。妙な緊張感で頭が冴えてしまうから、いくら快適であっても寝つけないのだ。
そもそも仰向けというのが良くない。遠慮なくお腹を踏み抜かれるし、表情も隠せないから嗜虐心を刺激してしまう。非常によろしくない。
ではうつ伏せならどうか……これも駄目だ。背中を踏まれるのも痛いが、それよりもわき腹を蹴られる方がヤバい。これが本当に痛い。蹴られた衝撃が肋骨の裏側で反響して内臓を揺らし、一発で呼吸が狂う。非常によろしくない。
では横向き……これも良くはない。良くはないが、蹴られたときに体を転がして衝撃を吸収できると考えればまだマシだ。
ただ、今度は背中側が気になる。なんというか、スースーと冷たい空気が通り抜けるような感じがする。結局はマシというだけで有効な手段にはならない。
仰向けも駄目、うつ伏せも駄目、右も左も駄目……ではどうするのか。
答えは実にシンプルだ。
とにかく何かに抱き着いて寝るのである。
仰向けだろうがうつ伏せだろうが、蹴られないように布団やら枕やらぬいぐるみやらでお腹の辺りを守っておくこと。
私の一押しは大きなクマのぬいぐるみだ。あれに抱き着くとぬいぐるみの両足がちょうどわき腹のあたりを守ってくれる。
その上で
できるだけ束縛感のない体勢を保持する。
ここまでしてようやくトラウマに邪魔されず眠ることができる。
***
――って、馬鹿かお前は?
誰がそんなんで寝られるか!?
私は実体のない布団を天井裏まで蹴っ飛ばし、感触のないぬいぐるみを窓の外へ放り投げた。
何故って、理由は明白だ。
今は七月……つまりは夏ぞ。
「あー……あっぢぃって……マジで……」
とにかく暑い。
暑すぎる……ぬいぐるみだの分厚い布団だの、むしろ拷問でしょ。考えるだけで苦しいわ。
相も変わらず扇風機の風は変なところを撫でる。当ててほしいところに当たってくれない。当たったら当たったで、その風は熱を含んでいる。
部屋の空気は重たい愛情を注ぐ恋人のようにベタベタしている。
本当に鬱陶しい。
苦しい。
何もかもが邪魔くさい。
掛け布団が邪魔なのはもちろん、敷布団すら邪魔であり、なんなら自分の髪の毛すらも邪魔である。エトセトラエトセトラ……これはもう床の上で大の字になって寝たくもなる。寝苦しすぎる。
というかもう一回シャワー浴びたいまである。
「これだから夏は……」
寝られない。
何より私は就寝時のエアコンが好きじゃない。
冷房にしろ暖房にしろ、つけっぱなしで寝たくない。
朝起きてこいつがゴーゴーと音を立てて動いているのを見ると気分が滅入る。
寝入る時にもうるさければ目が覚めても動いている。
そんな無機質で心無い同室者が私にとってのエアコンだ。
つまりは何事にも風情が無くてはいけないと、私はそう思うわけだよ。エアコン君。
それにアンタも徹夜で働きたくないでしょ?
夜はぐっすり寝たいよね?
だがしかし……これは困った。夏は嫌いじゃないのだが、寝苦しいのは玉に瑕だ。
スマホで時間を確認すると、すでに零時を回っている。私がベッドに入ってから一時間が経過しようとしていた。
もう本当にこれだから夏は……いや、嫌いではない。嫌いではないが、それよりも冬の方が好きだし、春の方が好きだし、絶対的に秋が好きだ。
決して夏が嫌いということはない。
少なくともエアコン君よりは好きだ。
だからそんなに怒らないでほしい。
落ち着いてほしい。
熱くならないでほしい……もう十分暑いから。
このままだとエアコン君と夏の順位が変動しちゃうって……マジで。
もしそうなったらあれと一緒だ……浮気……浮気だ、浮気。
『私、あの人の暑苦しいところについていけなくて……エアコン君のことが好きになっちゃったの』
『ピッ。冷房、27度で運転します』
『キャ~ステキ! その
『ピッ。快適エコ自動運転を開始します』
『キャ~高機能~』
――ってね。
でもその冷たい態度と雰囲気……本当に心無い奴だよ、エアコン君は。
どうせ我儘で安っぽい女だなって、冷めた目で見てるんでしょ?
……
……うん、やっぱりダメだ。寝れないわ。バカみたいな想像したせいで余計に目が覚めちゃった。
私はベッドから飛び起きるとスマホとイヤホンを持って自室を抜け出し、その勢いで家からも飛び出した。
寝られないのなら、寝なければいいのである。
***
夏の長所を一つ挙げるならば、それは水辺の価値を上げてくれるところだろう。
私は堤防沿いにある公園のベンチに座って川を見ていた。
好きなアルバムを繰り返し聴きながら、夏の抜け殻に体を潜ませる。
スマホで時刻を確認すると、ちょうど二時を回ったところだった。
音楽を聴くためだけの時間というのはとても贅沢だ。普段は適当に聞き流している曲の良さを再確認できたりする。
〝良さ〟というのはリズム的な価値にとどまらない。
今まで何を言っているのかわからなかった歌詞が唐突にわかったりして……その感動はきっとこの時間軸上の将来へ長く延び、何十年も持続する……そんな気分にさせてくれる。
耳にタコができるほど聞いたアルバムをかけながら他事に思いを巡らせるのも良い。それはそれで新しい発見があったりする。
例えば季節を感じたり、変なことが気になって調べてみようと思ったり、他人の気持ちを考えてみようと思ったり……あるいは自分の思考を分解してその愚かしさや浅ましさを見つけたり、さらには大切な友人を再発見するということもある。
『でもどうなるかな、私たち。さすがにやり過ぎちゃったみたいだからさ――』
何度だって思い出す。誰に言ったかわからない茅ちゃんの言葉。
弱々しく、迷いのある声音で、それでいて開き直ったような口調。
適切ではない距離感。
そして表情には僅かな諦めと眠気。
他人のことを知りたいと思う真摯な気持ちが私の中で芽生えた瞬間、していたことが音楽鑑賞で、目の前にいたのが佐々木茅という少女だったのだ。
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