二話 笹島茶介 『神秘的なもの』
―― 高一 七月七日(金) 昼休み ――
「お昼ご飯の前にちょっとだけ時間くださーい」
四時限目が終わり、これから昼食というタイミングで学級委員長の佐々木さんが声を上げた。クラスメイトの多くは昼食を準備する手を止めて彼女に注目している。
僕は箸箱から箸を取り出し、弁当箱の蓋を開けた。
今日のおかずは冷凍食品のハンバーグ、冷凍食品のクリームコロッケ、冷凍食品のきんぴらごぼう、冷凍食品のおひたし、そしてプチトマトだ。
「十月十九日から二日間に渡って文化祭が行われます。クラスの出し物を決めたいので、今から配る紙にやりたい事を三つ書いて提出してください。提出期限は来週金曜日の昼休みまでです」
いわゆる〝良い人〟の語りには、聞き手にとって心地よい要素が多分に含まれている。
聞き取りやすい発音とテンポ、よく通る声、他人を気遣う言葉選び、わかりやすい説明、物怖じしない態度、ルックスの良さ、そして笑顔。
人はこれらの要素をひっくるめて『話術』と呼び、セールスや詐欺の技術として広く活用している。
佐々木さんのスピーチにも良い人特有のそれがあった。
「質問があれば遠慮なく聞いてください」
僕は右手で箸を使い弁当を食べ、左手でスマホを操作しニュースを追う。学校の教師を見るときと何一つ変わらない眼差しで文字を読んでいく。
たとえ相手が動物であっても、芸能人であっても、アニメのキャラクターであっても、凄惨な事件の犯人であっても、それを見定める姿勢は変わらない。
その姿勢を貫く理由は、情報を受信する側の心構えひとつでどんな存在も良い教師となり得るということを自分に言い聞かせてきたからだ。
「三つも書くの?」
「思いつかなければ一つでオッケーです」
そんなことを考えているような人間はいつだって自分の心や人格について考察しているし、その脆さをよく知っている。周囲の環境が変化するたびに壊され、その都度強固に作り直されるということもよくわかっている。
「茅ちゃん、予算は?」
「各クラス六万円くらいかな」
「六万! 意外と出るじゃん!」
端的に言って、人の心や人格は五感の奴隷だ。
そして大衆は自分自身が奴隷であるということに無自覚なまま日々を送っている。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。人は皆、肉体のある限り五感の影響から逸脱することはできない。
たった五つの感覚を頼りに環境を把握し、自己を確立する。何を見て、聞いて、嗅いで、触れて、味わったのか。その結果どんな感情が想起されたのか。そのように蓄積された情報と経験の差によってアイデンティティが生じる。
「演劇とかは? 候補に入れていいの?」
「もちろん。あ、演劇をやりたい人は劇の中身も書いといてください」
「タイトルでいい? 『桃太郎』とか『一寸法師』とか」
「そうそう、そんな感じでお願いします」
例えば、次のような反論はどうだろうか。
『人格形成は五感によって牛耳られているといった論説は、体格や性別、身長、顔立ち、声音など、先天的な要素がまったく考慮されていない』
確かに体格や性別などは、五感から得た情報によって変動するわけではない。
例えば生まれつきの性別によって、男性は男性らしく、女性は女性らしくといった人格形成がなされる。それは五感から得た情報以上に人格に対して強い影響を与える――などと言う人は話が少しかみ合っていない。
僕が言っているのは先天的な要素すらも五感によって支配された情報の一つにすぎないということ。
視覚があるからルックスが気になる。
聴覚があるから声音が評価される。
嗅覚があるから体臭がコンプレックスになる。
触覚があるから股間と胸のふくらみがわかる。
そもそも、自身の外見や性別が人格に影響を与えるためには二つの段階を経る必要がある。第一段階は他人に自分を評価されること。第二段階は他人の評価が自己評価の材料になること。
つまりは情報の取得と蓄積、そして価値観の形成が先行する。その後でようやく外見的な要素が人格形成に影響を与えるに至る。
そうであるならば、自分の肉体や性別すら〝環境〟と呼んでいい。
そして環境によって自己評価は大きく変わる。人格形成にも影響する。これは紛れもない事実である。
「他のクラスと被ったらどうなんの?」
「……決め直しってことにはならないと思うけど。念のため確認しておきます」
しかし、環境の変化は必ずしも人格に影響を与えるわけではない。
というのも、環境に対する感度と耐性はトレードオフの関係になっているからだ。
人は年を取るごとに取得した情報に対する感度を鈍らせていく……つまりは環境の変化に対して耐性を付ける。これは見方によっては成長であり、順応であり、最適化であり、また別の見方をすれば硬化である。
つまりは自分というものを決め打ちするようになる。
もうこれ以上は考慮しない、考えたくない、めんどくさい……自分は自分、他人は他人……これはこういうもの……と、共感しがたいものに蓋をしていくということ。
理解できないものを排除してしまうということ。
物事の評価をパターン化してしまうということ。
僕はそういう人を見るたび、自分の感覚に対する疑念を抱き続けなくてはいけないと思わされる。
『環境が変わっても、変わらない人は変わらない。人格者は人格者のままだし、どうしようもない奴はどうしようもないまま。結局は幼少期の環境が大事』などと、悟ったようなことを言う人がいる。
本当にどうしようもない。
悟ったつもりが、ただただ冷めきって堅くなっている。
こういう人ほど手の施しようがない。きっと彼らは細かな環境の変化に気づけないのだろうし、たとえ環境が大きく変わっても頑なに変わろうとしないだろう。
鈍感で怠惰な人間。
〝ブレない何か〟を持っていると錯覚した人間。
良いものと好きなものを履き違えた人間。
その上で、自分のことが好きな人間。
僕はそういう人たちを目の当たりにすると共感性羞恥に苛まれる。
そして、こうはなりたくないと思って立てたスローガンこそ〝情報を受信する側の心構えひとつでどんな存在も良い教師となり得る〟であった。
しかし、不安はある。
自分は本当に柔軟に物事を見れているのだろうか……いつだって僕はそんな不安の上に思考を立てている。
「まだわからないことがあれば、私か小野寺君のところへ個別に来てください。よろしくお願いします」
さて、〝わからないこと〟〝不安〟と来れば条件反射的に神の存在について考えたくなるものだ。
本来、人間が何かを信じるためには納得するだけの理屈や証拠が必要になる。それを前提としたとき、宗教や信仰といったものは確実に揺らぐ。
なぜなら、いかに絶対的な存在であってもその力を証明しなければ人間の信用を得ることはないからだ。
今日では不思議な現象から神の奇跡が見出されることはほとんどない。そのすべてに科学的な説明をつけようとする。
人が神様を安易に信じなくなった理由はそこにあるのだと容易に想像がつく。
では、神は存在しないのか――それに対する答えは否だ。
先ほど考えたように、人間は五感――とりわけ視覚の奴隷である。
神に祈りを捧げつつも、誰もそれを見たことがないという事実に堪えられないわけだ。その情報不足は我々の不信感を煽り、不安にさせ、あるいは好奇心を揺さぶる。
人間は神の存在を説明するため学問に励み、結果として神に期待していたような奇跡を起こすことに成功した。数や文字を使い、可能な限り客観的な方法で神の創ったこの世界を理解しようとした。
つまりは神に触れようとした……いや、既にその一端に触れていると言っても過言ではない。
なぜなら、神とはすなわち不明な物事の総称だからである。
〝わからないもの〟が〝わかるもの〟に変わったとき、人間は神の一端に触れている。よって神の力が凄まじいものであることは科学的に証明されている。
神の存在について〝信じる〟〝信じない〟をするだけの議論は不毛だ。
仮に『神の存在を信じるか?』と聞かれたならば『存在するが、盲信できない』とと僕は答える。不明な現象のすべてが学問の世界に溶けて消えるまで、そう答え続けるだろう――
「――はい、アンケート用紙」
「……どうも」
前の席からわら半紙が回ってきたことでとりとめのない思考が中断された。
先ほどまで考えていたことは全て頭上へ溶けてなくなり、経過した時間だけが残る。
無駄な考え事に時間を使ってしまうのは僕の悪い癖だ。
加えて話を全く聞いていない。あるいは聞いたそばから忘れていく。
おかげで何のために用紙が配られたのか全く理解していない。
疑問を抱きながらも回ってきたわら半紙を受け取る。
「ねぇ笹島君」
「……」
「ちゃんと話聞いてた?」
運の悪いことに、僕の正面の席に座るのは委員長の佐々木さんだ。僕が受け取るプリントのほとんどは彼女から手渡される。
僕はバツの悪さをかみ殺し、平静を装いつつアンケートの趣旨を聞いた。
「アンケートって、何のですか?」
「あれを無視できるとか見方によっては才能だね」
「どうも」
「けっこう大声で話したつもりだったのにね」
「そうですか。全く聞こえませんでした」
「耳鼻科で診てもらったら?」
「これ病気じゃなくて才能らしいですよ」
「見方によっては、ね」
彼女の笑顔は見る人によって印象が変わる騙し絵のようだ。
親しみ深くも慈悲深くも見える表情は、角度によってはとげとげしくも見える。
それを正面から見せられているクラスメイト達は彼女のことをただの良い人だと思っている。
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