過去回想編

一話 『クピディタス』 

―― 三月下旬 地下室 ――




「はーい。餌の時間ですよー。……ってうわ、ヨダレだらだらじゃん」



 数時間ぶりに猿轡を外され、口のなかに詰め込まれた布の塊を抜き取られた。


 私はその開放感に浸る間もなく全力で謝罪する。



「――っか、茅ちゃん!? ご、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい! もう……もう、いじめなんてしないから……だからもう許して……! こ、これ以上は、本当に死んじゃうから……や、山内にも、ちゃんと謝るし……さ、笹島にも何にもしないから……だからっ……ぃっ!?」

「うるさい。ご飯抜きにされたいの?」



 目隠しをされているせいで、一瞬何をされたのかわからなかった。

 頬がジンと痛む……平手打ちを食らったらしい。



 な、なんで……謝ったら解放してあげるって、さっきそう言ってたのに……だから猿轡が外れるのをずっと待ってたのに……



「ほら、あーんして?」

「あっ、いや、え……?」

「早くして?」



 私は従うしかなかった。


 静かに口を開けて食事が運ばれてくるのを待ち、飲み込んだらまた口を開ける……さしずめ私は親鳥から餌をもらう雛だ。

 素直に言うことを聞くということが今の私にとっての最善策であり、自分を守る術であった。



 ***



「あ、そうだ。これ知ってる?」



 何度目かの給餌を受けた後、何の脈絡もなく茅ちゃんが喋り始めた。



「えー、わたくしの大嫌いなサルトルが、『存在と無』の中で言っとりますけれども、えー、一番猥褻わいせつなモノは何かと言ってですな。一番猥褻なモノ、というのは縛られた女の体だと言ってるんです」



 明らかに誰かの真似とわかる態度で、将校のように力強く、それでいて民謡を歌うかのようにそう言った。


 なんで今そんなことを……と、私は意図がわからなくてポカンとしてしまう。



「なんか昔の偉い人がテレビの中で言ってたんだよね。面白いでしょ?」



 まったく、何も面白くはなかった。



「よし。餌もあげたし、お水も飲んだ。偉い偉い。今日は気分がいいから、最後にデザートをあげちゃおう」



 そんなことより早く解放して……と言いたかったが、グッとこらえて口を開ける。無駄口をたたけばまた叩かれると、私はここ数日でちゃんと学習していた。


 そしてデザートは布の塊だった。



「……っ!?」

「私はね、偉い人がそう言ったから正しいって言いたいわけじゃないの。ただ、気付いたら深々と頷いてたってだけ。その通りだなって、直感的にそう思っただけ」



 彼女がなにを言っているのか、私にはよくわからなかった。というより、わかりたくなかった。

 そんな風に脳が理解を拒んでいる間に再び猿轡が嵌められてしまう。



「その言葉が本質的かどうかなんて関係なくてさ。少なくとも私個人はそういう人間なんだって、胸にストンと落ちたんだよね」



 私の中で風船のように肥大化していた希望……これで解放されるという期待感にチクッと針を刺されたような、そんな気がした。



「私にとっては猥褻なモノ・・でしかないんだよ、今の三品は。自由も尊厳も奪われて、限りなく人ではなくなったモノ。理想的なサンドバッグか、美術品か、あるいはオモチャかな……だからコミュニケーションの相手にはなり得ないわけ。理解できたなら、身の程をわきまえてね?」



 そう言うと彼女は食べ物を消化し始めたであろう私の内臓に拳を食らわせた。



「それに、山内さんからもうやめてって言われたときも別にやめなかったでしょ? それなのに自分は謝っただけで解放してもらえるって? 甘いよね? ズルいよね? 簡単に謝罪を受け入れてもらえるような、そんな贅沢は許されないよ。三品には」



 怒気、羞恥、悲嘆、後悔、焦燥……感情を表現する権利さえ剝奪された私の叫び声は、口内にある布の塊に吸収され消沈してしまう。また涙の雫も目隠しの布切れに吸収され、外へこぼれることはなかった。





―― 参考 ――

(1)豊島圭介監督.三島由紀夫vs東大全共闘:50年目の真実.三島由紀夫出演.GAGA,2020.





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