思いやり

Jack Torrance

家族

何が今年の漢字一文字が【戦】よ。


【戦】なんて主婦にとっちゃー今年に限った事じゃないわよ。


主婦にとっては毎日が戦争なのよ。


バカじゃないの。


主婦はいつも闘っているわよ。


仕事、家事、育児。


生き残りを賭けて+競合するスーパーでの価格比較。


バーゲンで揉みくちゃになってのサイズと色の熾烈な奪い合い。


19時前に貼られた傍からすぐに消えてなくなる惣菜店の半額シールを貼られた弁当の取り合い。


毎日、毎日、神経すり減らしてんのよ。


何、気取って清水寺の、あの坊主偉そうに『今年の漢字一文字』なんて書いてんだよ。


てめえ、いいギャラ貰ってんだろうが、エー、この生草がッ!


地元、直方のおかきの老舗工場でパートとして働いている睦美はセブンスターを吹かしながら『情報ライブ ミヤネ屋』を見ていた。


おい、宮根、おめえさんも庶民目線で物言ってんじゃねえよ。


あんたもいいギャラ貰ってんだろ。


あの、坂上 忍もそうだ。


あんたらみたいな高給取りが庶民目線で言っても、あたいには何も伝わってこないんだよ。


節約の為に薄めに淹れたネスカフェ ゴールドブレンドを飲みながら何処にぶつけたらいいのか分らないストレスを睦美は溜め込んでいた。


煙草の本数も以前は1日10本吸っていたのを今は3本に減らしている。


今、睦美が吸っている1本は、その3本の中の貴重な1本だ。


指が熱くなってもフィルターの根元まで、きっちり吸って睦美は灰皿で吸いさしを揉み消す。


あたいの兄ちゃんは全盲で障碍者年金で暮らしている。


年収でいったら150万以下だ。


たまには贅沢と称してスーパーの惣菜店でから揚げや握り寿司を買っているみたいだが、主食はカップラーメンと袋ラーメン、それに、納豆に春雨、冷凍うどんだ。


空腹を紛らわすには兄ちゃん曰く、もやしも価格の優等生で重宝しているそうだ。


兄ちゃんは言う。


「おい、睦美、ヒガシマルのうどんスープは中中イケるんだぜ」


あたしは、兄ちゃんのこの一言を聞いたら涙がチョチョギレてくる。


「おい、睦美【ヒガシマル】はちょっと雑炊も美味いんだぜ」


兄ちゃんは貧乏ライフを満喫しているかのように明るくあたいに言うけど、ほんとは空威張りで我慢してる事をあたいは知ってる。


兄ちゃんは少ない障碍者年金を切り詰めて切り詰めてお金を捻出し、あたいに毎月1万円くれる。


「おい、睦美、佑真の養育費やら住宅ローンなんか大変だろ。ほら、これ、持って行け」


兄ちゃんは、そう言いながらしわくちゃの1万円札をあたいに握らせる。


兄ちゃん、もう、それ以上言わないでいいよ。


己の亭主と自分に甲斐性があったら兄にこんな不憫な想いをさせないで済むのにと耳を覆いたくなる睦美。


睦美の夫、敬一は居酒屋【横恋慕】という店を切り盛りしていたがコロナ渦での時短要請や酒類の販売時間短縮などで売り上げは激減していた。


国からの支援金が出たところでテナント料、光熱費、仕入れで結局は手出しする額の方が多くなり微々たる貯蓄も減る一方だった。


そこに来て、原油高、円安と負の連鎖で光熱費は高騰し物価も高くなった。


仕入れ値は挙がり物価上昇分を価格に上乗せすると客が離れるという負のスパイラル。


ウィズコロナだか何だか知らないが、そんな話は何処吹く風。


敬一の店はコロナ前の50,60%くらいの客足しか戻っていなかった。


収入は減る一方だ。


睦美は夫に廃業してサラリーマンになってくれと懇願するが夫は「俺から包丁取って何が残るっていうんだよ」の一点張りだ。


なので、兄から貰う1万円は睦美にとっては有り難かった。


ほんとは自分も煙草と酒を断って改心しなければとも思ってはいるが中中止め切れない己の弱さにほとほと嫌気が差している。


ストレスの捌け口が、それくらいしかないのだ。


睦美は減る一方の貯蓄の事や夫の事を考えていたら気がめいってきて胃が痛くなったのでコーヒーを飲んでいたマグカップを濯いでポットの白湯を呑んだ。


「かあちゃん、ただいま」


玄関の方から息子の声がした。


気を取り直して明るく息子の帰りを迎える睦美。


「お帰り、佑真。手洗って嗽しておいで」


「はーい」


佑真はランドセルを自分の部屋に置き洗面台でハンドソープで手を洗いプラスチックのマグカップに水を汲み嗽した。


睦美は佑真のおやつに冷凍の豚まんを温めてやる。


キッチンに駆け足でやって来る佑真。


佑真は今年、小学3年生になった。


少しは聞き分けもよくなり睦美の手伝いもよくする。


洗濯ものを畳んだり、部屋のモップ掛けなんかもしてくれる。


週5でパートに出ている睦美にとって息子の存在と兄の思いやりは切り詰めた生活の中で支えとなっていた。


佑真は叔父である弘道の所へもおかずを持って行ってやったり、全盲の叔父の手を引いて車通りの少ない道を通って公園に散歩に連れて行ってやったりもしていた。


睦美と弘道にとって佑真は掛け替えのない存在であった。


佑真が一枚のプリントを大事そうに握っている。


電子レンジから豚まんを出してテーブルに置くと睦美は佑真にお茶を淹れてやった。


椅子に座り佑真が元気よく言う。


「いっただきまーす」


腹ペコの佑真はプリントをテーブルに置き、美味しそうに豚まんにかぶりつく。


食べ盛りの佑真には腹いっぱい食べさせてやりたいのが睦美の心情だが我が家の家計ではそうもいかないのが苦しい現状だ。


睦美は歯軋りしたくなるほどの歯痒さともどかしさで一杯になる。


睦美はお茶の入ったマグカップを佑真の前に差し出し尋ねる。


「佑真、あんた、そのプリント何?」


「かあちゃん、今日、僕、国語のテストで92点取ったんだ」


満面の笑みを浮かべて答える佑真。


睦美にとって92点という点数は源泉が自分の自宅の庭から降って湧いたような驚天動地の点数だった。


いつも40,50点台しか取って来ない佑真が…


睦美が、今まで見た最高点は66点だった。


あの佑真が92点だって…


睦美は耳を疑った。


「きゅ、92点」


睦美はプリントを引っ掴み点数を凝視した。


確かに、プリントの右上方部には赤い色鉛筆で【92】と書かれてあった。


「あんた、まぁ~、どうしたんだい?こんな良い点取って来て」


佑真が豚まんをモグモグさせながら答える。


「僕、この前、弘道おじちゃんと公園に散歩に行った時に約束したんだ。今度の国語のテストで良い点取ったらグローブを買ってくれる約束をしてたんだ。だから、僕、一生懸命勉強して良い点を取れたんだよ。かあちゃん、これ、食べたら弘道おじちゃんのうちに行っていい?」


睦美は胸が熱くなった。


佑真にやる気を出させる為に自分の欲しい物を我慢してグローブをプレゼントしてくれる兄のやさしさに。


「佑真、おじちゃんに今日は、うちで晩御飯食べて泊まって帰るように伝えておじちゃんをうちに連れて来なさい。分ったね」


佑真の表情が陽が差したようにパッと明るくなった。


「弘道おじちゃん、今日お泊りなの、やったー」


佑真は父の敬一よりも弘道に懐いていた。


敬一はいつも家にはおらず、店の店休日も遊真と遊んでやる事は皆無に等しく、いつも寝て過ごしていた。


どうせ、あの人は23時まで店して店仕舞いしてから帰るのは25時前だ。


弘道は中中、睦美の家には寄り付かなかった。


それは、義弟に気兼ねしてという側面もあったが義弟の方が弘道よりも5つ歳上であったというのが要因であった。


弘道と睦美は3つ違いの兄弟で敬一は睦美よりも8つ歳上だった。


睦美と敬一の馴れ初めは睦美の友人、友香が敬一の弟と同級生で、よく敬一の店に飲みに行っていたのが切っ掛けだった。


「友香、兄貴のヤロー、いつまでも鰥夫だからよ。誰か良い娘いたら紹介してやってくれよ」


こうして、友香が紹介したのが睦美だった。


睦美と敬一は1年半の交際期間を経て結婚した。


睦美と弘道の両親は弘道が26、睦美が23の時に交通事故で他界していた。


それ以来、弘道は睦美の事を妹としてだけではなく父親目線で見守ってやっていた。


兄一人、妹一人。


弘道は先天的な全盲で幼少期から盲人として生きる術の素養は身に付けていた。


だが、全盲という障碍は弘道に大きく立ちはだかる時もある。


それを補ってやるのが睦美の宿命であった。


互いが互いを支え合い睦美と弘道は仲睦まじい兄妹であった。


「御馳走様です。かあちゃん、じゃあ、僕おじちゃんちに行って来るね」


「佑真、車に気を付けて行くんだよ。後、おじちゃんが転ばないように段差とかちゃんと教えてあげるんだよ」


「分ってるよ、かあちゃん。じゃあ、行って来まーす」


佑真は玄関でズックを履き駆け足で弘道のアパートに向かった。


よし。


睦美は兄の好物、肉じゃがと豚汁を拵える準備を始める。


手際が良い睦美は下ごしらえをさっさと済まし、てきぱきと料理を拵えて行く。


兄の晩酌用に金麦のショート缶を2本、冷蔵庫に冷やしておくのも忘れない様に。


普段は飲まない弘道だが、祝いの席では多少は酒を嗜む。


今日は佑真が92点取ったお祝いだ。


兄にとっても、さぞかし美味い祝杯になるだろう。


佑真が弘道を迎えに行って1時間半が経過した。


おっそいなぁ~、あの子ったら、一体、何処で油を売っているんだろうかねぇ~。


弘道のアパートまでは徒歩で12,3分くらいだ。


兄が泊まる準備に手間を取り時間が掛かっていると考慮しても、もう帰って来ていてもおかしくない。


事故にでも遭ってなければいいんだけど…


睦美は心配になって弘道の携帯に電話した。


5コールくらいで弘道が出た。


「あっ、兄ちゃん、あたいだけど、佑真、そっち行ってる?」


「あっ、済まん済まん、佑真は俺と一緒にいるよ。佑真、かあちゃんからだ。何でも佑真が国語で92点取って今日はお祝いだそうじゃないか。お招き頂き光栄に存ずるぜ。悪い、遅くなったのは風呂に入ってたからなんだよ。睦美の家と自分のアパートじゃ勝手が違うからな。佑真、家まで後どれくらいだ?」


佑真の大きな声が受話口の向こうから聞こえる。


「後3,4分くらいだよ」


「だそうだ。後、3分もしたら着くよ。もうちょっと待っててくれ」


「分った、兄ちゃん、気を付けて来てね」


電話を切って5分くらいすると玄関から佑真の元気な声が聞こえた。


「かあちゃん、ただいまー。弘道おじちゃん連れて来たよー」


睦美がエプロンで手を拭きながら弘道を出迎える。


「兄ちゃん、いらっしゃい。さぁ~、上って頂戴。兄ちゃん、湯冷めするからうちでお風呂に入ればいいのに」


弘道はユニクロのヒートテックの上下を中に着込み、しまむらで睦美が誕生日プレゼントで買ってあげたチャンピオンのグレーのナイロンジャージの上下、それと、これも去年の誕生日にしまむらで買って睦美がプレゼントしてあげたパープルのコンバースのダウンジャケットを羽織っていた。


「睦美、この前、お前がくれたこのナイロンジャージ温かいな。重宝してるよ」


「あっ、そう、それは良かった。さぁ、佑真も兄ちゃんも手洗いと嗽をして晩御飯食べようよ。今日は兄ちゃんの好きな肉じゃがと豚汁だからね。一杯、食べてね」


「おっ、そうか、そりゃ、涎が出てきそうだな。佑真、お前のお陰でおじちゃん、今日は御馳走にありつけたぜ。ありがとうな、佑真」


弘道と佑真がハイタッチする。


「ほらほら、兄ちゃんも佑真もそんなとこ突っ立てたら風邪ひいちゃうよ。玄関は寒いから早く手洗いと嗽して来てちょうだい」


「おっ、それもそうだな。佑真、さっさと手洗いと嗽を済ませて飯食おうぜ」


弘道と佑真が洗面台にむかう。


睦美はキッチンの暖房の設定温度を2度上げる。


普段は光熱費の節約の為にちょっと寒いけど24度で設定している。


佑真が弘道の手を引いてキッチンに入って来た。


「おっ、良い匂いがしてるな」


睦美が弘道と佑真の豚汁と肉じゃがをよそってやる。


「佑真、おじちゃんのビール冷えてるから、おじちゃんに出してあげてちょうだい」


「はーい」


佑真が冷蔵庫から金麦を出してやり弘道の前に置くと弘道の手を掴んで位置を教えてやる。


「おっ、ありがとな、佑真」


弘道がプルタブを引いて一口呷った。


「プハー、美味いな。。そこに来て佑真の92点。おじちゃんは嬉しくて涙がちょちょぎれそうだよ。今度の日曜にグローブ買いに行こうな、佑真。大人になってプロ野球の選手になったらかあちゃんとおじちゃんに家建ててくれよな」


「うん、いいよ」


佑真がジャーから茶碗にご飯をよそいながら言う。


三人分、茶碗によそうと睦美と弘道、自分の座る位置に茶碗を並べていく。


「弘道おじちゃん、僕、逆上がり出来るようになったんだ」


「おっ、そうなのか。おじちゃん、目が見えてたら佑真の逆上がり見たかったなぁ~」


「さあ、出来たわよ。みんなでいただきましょ」


睦美が肉じゃがと豚汁をよそった茶碗をみんなの前に並べて言う。


佑真が椅子に座って言う。


「いっただきまーす」


弘道が言う。


「おじちゃんもいただきまーす。睦美、今日はありがとな」


「何、言ってんのよ、兄ちゃん、こっちこそ、いつもありがとう」


睦美、弘道、佑真のささやかだが幸せに包まれた夕餉は楽しく始まった…

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