魔女、聖女の元へゆく

第二十話 飛び降りてビックリ

「これが、大渓谷……」


 太陽が中天にさしかかった頃。ジュリエットと黒猫のネロ、執事のアデス。それにリアンを加えた一行は、大渓谷を臨んでいた。


 大渓谷の広大さに目を丸くするリアンに、老執事が声をかける。


「坊っちゃまは大渓谷を見るのは初めてでいらっしゃいますから、爺が説明いたしましょう」


 大渓谷は別名を『神の亀裂』と言う。


 太古の昔、規律の神オーカスが天上の主神アルガスに反旗を翻した。

 オーカスは古オルフェリア王国に住まう人間のほとんどをバケモノに変貌させ、その手勢とした。


 想像もできないほどの長きに渡った戦いは、主神アルガスがオーカスを冥界に叩き落としたことで終わりを告げる。

 しかし、苛烈に過ぎる戦いにおいて疲弊した主神アルガスには、バケモノと化したオルフェリアの民を人間に戻す力が残っていなかった。


 主神はわずかに残った人間たちを大陸の東部に逃し、バケモノの脅威から守るために大地を割った。これが『神の亀裂』であり、目の前にある大渓谷だ。


「雑に説明をすると、このような話ですな。ちなみに、オーラントやブロンゲリアを含む東部諸国は元々、魔境として封印された古オルフェリア王国の一地方ということになります」


 老執事のアデスは、初めて大渓谷を見るリアンにそう説明した。


「ささ、坊っちゃま、あまり前に出られると危のうございますぞ」


「アデスさん、坊っちゃまはめてください。僕は孤児で平民なんですから」


 今朝から坊っちゃまと呼ばれる度にむず痒くなり反論するが、この老執事は一向に聞き入れてくれない。


「いいえ、お嬢様が坊っちゃまをお身内に加えた以上、私めにとっては坊っちゃまなのです。故に坊っちゃまは、坊っちゃまなのです」


 何だかよくわからない論法を振りかざす老執事に、リアンは説得を諦めた。ちなみにアデスは爺呼びを希望しているが、少年は頑なに拒否している。

 ジュリエットはそんな二人のやり取りを面白そうに眺めているだけだ。


 リアンは大渓谷に目を戻す。


「驚いた? リアン。ここから向こうまでは十キドル(約十キロメートル)というところかしら。深さもかなりあるわね」


「想像してたのと、全然違う!」


 初めて見る大渓谷に興奮を隠し得ないリアンだが、思い描いていた景色とは違っていた。


 唐突に大地がなくなっている、そう表現せざるを得ない渓谷は、伝説の通り大地を“割った”のだろう。

 不自然なほど垂直に切り立った崖が神の御業(みわざ)でないとするなら、それこそ説明がつかない。


 遠くには、陽光に照らされて赤銅色の崖が見える。その上空には、飛行生物が群体を成して飛んでいた。近くで見ればどのくらい大きいのだろうか。


「ねえジュリエット、空を飛ぶ魔物はこっちに来ないの?」


 少年らしい素直な疑問をぶつけられて、ジュリエットは丁寧に答える。ちなみに「さん付け禁止」とのことだ。


「神の亀裂には神力が働いていて、決して上昇できないようになっているわ。すでに飛んでいるものは谷底に落とされてしまうの──こんな風に」


 ジュリエットは右手を広げ、渓谷に向かって黒い魔力の弾を撃った。

 それは中空をまっ直ぐに飛んだが、まるで見えない手によって押さえつけられたかの如く、急に落下した。


「見ての通り、魔境の向こうからバケモノの類が飛んでくる心配はないわ」


 そうすると、次の疑問が浮かんでくる。ジュリエットは西に行くと言っていた。つまり魔境が目的地となる。

 目の前の大渓谷をどうやって越えるのだろうか。


 うむむ、と悩む少年の横顔を見つめて、ジュリエットは思わず頬が緩んでしまう。

 まだ出会ったばかりなのに、リアンと居ると胸が暖かくなる。不思議だ──こんな穏やかな気持ちになるのは。


 だから、少し意地悪をしてみたくなる。


「リアン、手を繋ぎましょう。ほら」


 暖かくて、柔らかくて、か細い手に触れて、リアンの顔が沸騰したように真っ赤になった。

 ジュリエットは赤面した少年の顔を見ていたい、という衝動を強引に抑え込む。


 今は意地悪いたずらが優先だ。ビックリした顔が見たい。


「さあ、行きましょう」


 リアンの手を引いた貴婦人ジュリエットが崖に向かって──


 跳んだ。


 少年の思考が遅滞する。


 ひらけた景色。


 空。


 地面。


 足元に──地面がない。


 さっきまであった地面がない!


「うっ、わあああああああああああああ!」


 落ちる、落ちる、落ちる!


 リアンはジュリエットに抱きしめられながら、自由落下中だ。


 眼下を見ると、地面は緩やかに迫ってくる。しかし崖を見ると、下から上へと物凄い勢いで景色が過ぎてゆく。

 このまま谷底に激突すれば、哀れ、潰れたトマトと化すのは必至だ。


「にゃーん!」


 黒猫ネロは楽しそうにスイスイと空をかきながら、同じく落下中だ。視界の端でアデスがため息をついた気がした。


 ジュリエットが人差し指を立て、円を描く。


「あああああああああああ───あれ?」


 気づけば落下の速度が変わっていた。まるで真綿が空を舞うように、ゆっくりと落ちてゆく。


「ふふ、ビックリした?」


 空のベッドに沈んでいるような、何とも形容し難い感覚だ。リアンの顔は驚きに満ちている。

 ジュリエットは少年に望んだ顔が見られてご満悦のようだ。

 老執事は緩やかに落下しながら、主人のいたずらに眉間を摘んでやれやれと嘆息した。


 目をキラキラさせて、口を閉じるのも忘れて、リアンはひたすらに感動している。


「すごいすごい! これは何て言う魔術なの!?」


「いいえ、魔法よ」


 リアンの赤い金髪を撫でながら、ジュリエットは短く答える。すると、魔法という言葉を聞き慣れていない少年はさらに質問を重ねた。


「魔法? 魔術とは違うの?」


「魔法は、想像を現実に変える力。魔術はそれを真似しているだけ、かな? 私は魔女だから、使うのは魔法なの」


「ふ〜ん、よくわかんないや!」


 少年がコロコロと笑った。その笑顔が眩しくて、ジュリエットは顔を逸らしてしまう。


「どうしたの? 顔が赤いよ?」


「な、なんでもないわ」


 リアンが初めて見せる笑顔を直視できない。なんともったいないことか。


「えーっ、すごく赤いよ?」


「〜〜〜っ! なんでもないってば!」


 それから暫くして、一行は谷底に降り立った。



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