第十四話 隠れんぼ

「くそっ、魔力オドの暴走か! 原因は……」


 研究者ゆえの癖なのだろうか。想定外の事態を前にして、思考の海に沈みかける。しかし、状況は待ってくれない。


「び、びっくりしたじゃない。 ──漏れちゃったわ、少しね」


 厚化粧の怪人が地面に伏すジョスランを見下ろす。魔力の衝撃波に襲われた際、咄嗟とっさに身体を強化したのだろう。魔獣ドゥーフェたちが壁になったのも功を奏した。


 ギネラは無傷だった。


「あ……」


 前方をよく見れば地面は抉れ、防御陣が壊れている。

 魔力暴走が引き起こした破壊は、防御陣に注がれたリアン自身の魔力と相殺する形となり、極めて限定的な規模だった。


 しかし自分ジョスランは大きく飛ばされたようだ。この場を凌ぐための道具は、視界の向こうで散乱している。


「あたしの子猫ちゃんたちは気絶してしまったけどぉ、問題ないわね」


 切り札グロン・シャローは失敗した。防御陣も破壊された。

 ギネラは膝を折ってしゃがむと、ジョスランの髪を掴んで顔を近づける。


「ひっ、や、やめ──」


 血走った目を限界まで開き、歯を剥き出しにした怪人ギネラは、ジョスランに死刑を宣告する。


「さああ! あなたを守るものはあ!! 何もないわあああ!!!」







 あの場でいち早く動いたのは意外にも、赤い金髪の少年だった。稲妻状の紋様が浮かぶ体は、問題ない。

 痛みはあるが、まるで遠くにあるような感覚だ。不思議と頭も冴えている。


(と、とにかく隠れないと!)


 この期に及んでなぜ、生にしがみついているのか。リアン自身もわからない。ただ、ジャンとエリー、そして馬車道で出会った女性のことが頭にあっただけだ。


 リアンは拠点アジトと呼ばれた建物に飛び込む。玄関ホールを素早く見渡し、開け放たれた左の扉に注目した。二階には上がらない。直感だ。


(夜目の魔術は切れているはずなのに、見える!)


 扉の向こうは十五メトリ約十五メートルほどの長い廊下となっており、左右にいくつかの部屋がある。音を立てないよう慎重に奥へと進みながら、リアンは左の扉から漂ってくる臭気に気づいた。


(このニオイはたぶん……)


 扉を開けるとまた短い廊下があり、奥で右に折れている。一歩進むごとに臭気は強くなる。少年は確信していた。きっとこの先にトイレがある。


 奥を曲がり、突き当たりの扉を開けた。


(思ったとおりだ)


 そこは大人五人が入っても余裕のある部屋だった。壁沿いには箱状の腰掛けが設置されていて、等間隔で丸い穴が開けられている。穴から漂ってくる臭気に、リアンは思わず顔を背ける。


(うっ、すごいニオイだ。でもここなら……)


 人糞から発する刺激臭によって、自分の痕跡を消せるのでは。少年は吐き気をもよおしながらも、部屋の隅っこで小さくうずくまった。


(ジョスラン様はどうなったんだろう)


 ──虫ケラのお前は、あの豚に売られたんだよ。


 ふと貴族魔術師ジョスランのことを思い出して、涙が込み上げてくる。彼は、初めから自分を殺すつもりだった。イヴェットもわかっていたのだろうか。


(僕、孤児院に帰れるのかな)


 夜はまだ明けそうもない。方角もわからないまま森に入るのは自殺行為だ。かと言って近くにはギネラと魔獣たちがいる。

 彼らも吹き飛ばされていたが、意識を取り戻すのは時間の問題に思えた。


(どうしよう。ジャン、エリー……)


 出発の朝を思い出す。ジャンは寂しいのを我慢して送り出してくれた。エリーはぐすぐすと泣いていた。二人とも家族同然に育った、大切な弟と妹だ。


 そして、あの女性──


 白磁器を連想させる、白くて透明な肌。澄み渡った空のような蒼玉サファイアの瞳。形の良い唇から紡がれる優しい声。

 一目見たら最後、魂ごと連れていかれそうなほどに美しい女性だった。


(また、逢いたいな)


 そう考え、我に帰る。自分は霧滔むとうの森の、楽団のアジトにいる。しかも人糞の臭いが漂うトイレに隠れているのだ。逢えるわけがない。

 自嘲気味なため息が漏れそうになり──


 遠くの声に気づく。


「ぼうや〜、どこにいるのぉ? 出てきてくれないかしらぁ? 美味しいお菓子をあげるわよおお」


(来た──!)


 魔力オドの暴走によって鋭敏になった感覚が、危機を告げていた。


「あれえ、おかしいわねえ。どこに行ったのかしらあ」


 じっと息を殺し、意識を耳に集中する。ギネラの声に隠れて聞こえる、かちりかちりと鳴る音。


 それが、だんだんと近づいてくる。


 ギィ──。


 蝶番ちょうつがいが小さく耳障りな音を立てる。廊下同士を隔てる扉がゆっくりと開けられた。


 かちり、かちり。


 硬い床に爪が当たる音。獣の歩く音がさらに大きくなる。


(魔獣だ!)


 硬質な音がトイレの前で止まり、代わりに低い唸り声が聞こえてくる。


「ごるるる」


 リアンは悲鳴をあげそうな口を押さえ、必死に我慢した。早鐘を打つ心臓の音は、向こうまで聞こえているんじゃないか。そう感じるほど五月蝿い。


(早く行け! 行ってくれ!)


 死の恐怖に晒されながら、永遠とも思える数瞬すうしゅんを耐える。厠から発する強烈な臭いを嫌ったのか、やがて唸り声は遠ざかっていった。


 魔獣の気配が消えたのを確認すると、リアンはどっと汗をかいた。心臓はまだ鼓動を早くしている。静かに、ゆっくりと息を吐き、いくらかの冷静さを取り戻す。


(ここも、すぐにバレるかもしれない)



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