決勝 3

 試合中に竹刀を落とした。

 やっちまったな。

 俺、井口爽太は、そんなことを思いながら、自分が落とした竹刀に手を伸ばした。  

 集中しきれていない。こんな反則、初めてだ。

 竹刀を拾い、開始線に向かおうとしたとき、審判に呼び止められた。

「君、しばらく試合を中断するから、ちょっと呼吸を落ち着けなさい」

 審判にも心配されているよ、俺。

 だめだな、と思いながら、息を吐いたときのことだった。

「爽太! もういい!」

 ちょっとざわついた会場内に、大きな声が響いた。これは、颯の声だ。何だ?と俺は声がしたほうを見る。

「もう俺に縛られるな! 自分の剣道をしろ!」

 颯はまたしても叫ぶ。中断されているとはいえ、試合中だ。すぐに、隣にいる義友に止められた。

 俺は、気づく。

 ――バッカみたい。

 あんな事故に遭って、やめたいとすら思った剣道を今まで続けてきた。九州の高校をやめて、将来を犠牲にして俺のそばにいてくれた颯が浮かばれないから。

 ……でも、それだけではない。

 事故の直前、稽古に向かっていたときの、母との会話。

 ――剣道をやっている爽太は私の自慢だわ。

 ハンドルを握りながら、母はそう言っていた。

 ――たくましくなっていく爽太を見るのが楽しみなの。だから稽古、頑張って。

 母の最期の言葉だ。

 だから、その言葉で剣道をやめたいという怯えを押し殺して、リハビリに励んだ。看護師の人たちに止められても、やめなかった。怪我なんか早く治して、早く剣道をやりたいと颯や、才治や綾乃にせがんだ。

 乗っている最中にまたトラックが突っ込んでくるのではないかという不安も押し殺して、バスに乗って剣道クラブの稽古場である体育館にも向かった。

 そして、彩夏たちのような友達に恵まれた。一緒に稽古で竹刀を交えて、声を出し合って、合間にじゃれたり学校や稽古が休みの日には遊んで、試合になると一本を決めるたびに拍手してくれて、勝ったらすげえすげえと繰り返しながら囲って称えてくれる、そんな友達に。

 稽古でしっかりと体を動かして、颯と一緒に家に帰って、血が繋がっていないだけの家族に迎えられて、温かいごはんを食べて、寝る。

 三年前の事故の直後は、そんな未来は望めないと病室のベッドで泣いたのに。

 それが、

 嬉しかったんだ。

 気がつけば、右腕の痛みが楽になっていた。何かに軽くつねられているくらいだ。

 ちょっと竹刀で打たれただけで、どうして怯えていたのだろう。

「もう大丈夫です。続けてください」

 俺は審判に告げた。

 再び竹刀を構える。剣先はまっすぐに、相手の面を捉えている。

 審判の合図を待つ数秒程度の間が惜しい。

「始め」

 声を聞いた直後には、俺は足を踏み出していた。反撃なんて恐れない。

 狙うのは相手の面のみ。

 相手は見切って、俺の竹刀を受け止めた。剣筋が逸れて、相手の竹刀の鍔を打つ。

 鍔迫り合いの状態で、俺は叫び、前に踏み込んだ。

 至近距離の面の向こうに、相手の顔が見えた。

 かすかに歯を見せて笑っていた。試合を楽しんでいる。

 ――ごめんな。

 不甲斐ないことばっかりやって、心配させてしまった。

 これからは本気だ。

 俺は力強く竹刀を押し込んだ。相手と間合いを取る。

 試合会場の隅の線に片足をかけて、相手は反撃とばかりに竹刀を振り上げる。

 その右小手に、俺は竹刀を打ち込んだ。

 審判の旗が、一斉に上がる。

「一本、小手あり」

 やっと追いついた。あともう一本取れば、勝つ。

 剣道は人間形成の場だと、颯や義友、その他いろんな剣道関係者の大人たちから言われてきた。勝ち負けに執着するだけの武道ではないし、そう捉えてしまうのは浅はかだと、繰り返し繰り返し。

 でも今は、勝ちたい。

 勝って笑顔で、颯やあかりや、みんなの元に胸を張って戻る。

 そして母さんの写真に優勝したことを伝えたいんだ。

 俺は開始線に戻る。竹刀を構えた。

 相手の竹刀の先から向けられてくる気迫で、全身の筋肉が張り詰める。

 いい。

 戦っているという感じがしてくる。

「始め!」

 俺は剣先で、相手の竹刀の剣先に触れる。

 相手も、竹刀の先を揺さぶって、隙を引き出そうとしていた。

 視線が相手の剣先にいきそうになるのを我慢して、ただ相手の面を見つめる。

 面の向こうの、相手の目も、俺をじっと見つめてぶれない。

 先に動いたのは、俺だった。面を打とうと、相手の竹刀を横に振り払う。

 だが、相手も簡単にやられなかった。相手は意図を察したように、竹刀を大きく振り上げた。受け止められる。

 反撃に切り返しで胴を打ってきた。俺は竹刀を振り下ろして防ぐ。

 拍手の音が、ずっと響いていた。

 さっきは広い会場内で独りぼっちにさせられたみたいだったけど、今は俺も後押ししてくれている。

 あかりも、拍手を送ってくれているだろう。才治や綾乃や、彩夏たち剣道クラブで一緒に竹刀を振ってきた友達も、もちろん颯も。

 相手に集中し、相手の動きを見ていなければならない中でも、わかる。

 俺は一人で戦っているわけじゃない。

 ――ああ、やっぱり。

 剣道を続けることにして、よかった。

 俺は次々と竹刀を繰り出して、相手を試合会場の隅まで追い詰めていく。相手はとうとう、試合会場の線を後ろ足で踏んだ。

 もう下がるわけにはいかない相手は、竹刀を振り上げた。間合いを一気に詰めてくる。

 迫ってくる相手に、俺は竹刀を振り下ろす。見ているのは、相手の面だけ。

 相手も俺の体を両断する勢いで、竹刀を振り下ろしてくる。でも臆さない。ためらったりしない。攻撃されても構わない。

 決めるのは今。

 乾いた音が、会場全体に響いた。

 それは、コンマ数秒の差だった。

 俺の面打ちは、剣筋正しく相手の面を捉えた。

 だがこちらが決めるよりも先に……

 相手のほうが、一瞬だけ早く俺の面を打っていた。

 試合は、決まった。

 審判二人が、相手の旗を上げる。残りの一人が迷い、判定を棄権した。

「一本、面あり」

 主審が声を上げる。アリーナ内にいる人たちから、拍手が起きた。

 負けた。あと一歩、竹刀の太さ程度の差が、勝負を分けてしまった。

 呆然としている場合ではない。俺はまっすぐに、開始線に戻っていく。相手と動きを合わせて、蹲踞の姿勢をとり、納刀する。

 後退して、礼をして、会場を出ていく。今までの動きどおりに。

 会場内では、拍手が続いていた。向けられているのは、優勝した相手だ。

 試合会場の線を越えたあたりから、感情が昂ってきた。ついこの間まで十分幸せだからと流してこなかった、でも最近流したものが込み上げてきそうで、でもだめだと我慢する。たくさんの人が見ているんだから。あかりだって見ている。みっともないところをさらすわけにはいかない。

「おい、爽太」

 声をかけられた。

 颯が、タオルを持って近づいてきていた。

「兄さん、馬鹿かよ。試合中に大声出して。ガキみたい」

 俺は強がる。本当は嬉しかったのに。

「ああ、馬鹿だ。だからあんなときにしか言えなかった」

 颯は、俺のすぐ目の前に立った。面の紐をほどいて、外す。

 素顔をさらすと、周囲の音がよく聞こえるようになった。

 ちょうど、拍手の音が大きくなった。どうやら、隣で行われている女子の部の決勝で、試合に動きがあったらしい。

 でも、彩夏の試合の結果にまで意識が向かない。

 今の俺じゃ、あいつにも顔向けできないから。

「汗がすごいな」

 言いながら、俺の顔にタオルを押し当ててくる。

 もう、我慢する必要なんてない。

 颯の体にしがみついて、俺は泣き始めた。大丈夫だ。みっともなく泣いても、まわりの人たちはただ、颯が俺の汗を拭っているだけにしか見えない。

「……負けたよ」

 声を絞り出した。

「あかりに好きって言わせてやるって偉そうなことを言ったのに、かっこ悪いな。俺、ただの見栄っ張りだ」

 颯は、俺の背中に手をまわす。タオルを顔に押し当てたまま、抱きしめてくる。

「あかり、お前のこと見ているぞ」

 颯は、彼女のことを下の名前で呼んだ。俺は、はっとする。

「爽太ー、すごかったよ!!」

 声が飛んできた。俺は颯のタオルをどけて、声がしたほうを見る。

 あかりが観客席から手を振っていた。

「かっこよかったー!」

 周囲の拍手の音に負けない勢いで、そんなことまで叫んでいる。なんで、そんなことを言われているんだろう。

「俺、負けたのに。みっともないとか思わないのかよ」

「みっともなくないし、見栄っ張りじゃない」

 足音が、もう一つ聞こえてきた。

「爽太!」

 彩夏だった。女子の部決勝の試合が終わったらしい。

彩夏はそのまま、俺の手を引っ張ってくる。彩夏と至近距離から見つめ合うことになった。

「彩夏、試合どうだった」

「勝ったよ」

「優勝したんだ。すごいや。……俺は負けた」

 はっきりと、負けを認めることができた。

 彩夏の瞳が暗くなっていくけど、こうなったのは俺のせいだから仕方がない。

「主将失格だな」

 彩夏は、首を横に振った。

「ううん、違う。みんな、爽太のこと見てるよ。すごい試合をしたんだね」

 言われて、俺は周囲を見る。

 観客席の人たちの視線が、俺に向けられていた。あかりだけではない。才治も綾乃も、他の人たちも、俺に向けて拍手を続けている。

 それで、気づく。

 試合が決まったときからずっと続いている拍手が、俺にも向けられていることに。

 そして、剣道クラブの友達も駆け寄っていた。俺を囲む。

「おい爽太、ナイスファイト」

「すごかったよ」

「自信持てよ」

「さすが主将」

 みんなで俺の頭をもみくちゃにしてくる。

「ちょっ、お前ら。撫ですぎ」

 でも、心地よかった。

 なんだ、俺。

 こんなにたくさんの人に囲まれて剣道やってきたんだ。

 颯が、ぽんと背中を叩く。

「だからお前は堂々としろ。胸を張って表彰台に上がれ」

 そうだよな。

「おう、次を頑張ればいいんだしな」

やっぱり、この大会を最後にしなくてよかった。

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