二月の大会 6
旗を上げていた審判員の一人が、近づいてきた。俺と相手の間に割り込む。
「君、勝負ありだ。離れなさい」
審判の注意に、相手は応じもしない。ただ無言のまま後ろに下がっていく。
俺も開始線に戻っていった。
審判が旗を上げ、勝負がついた直後の一撃だ。一本を取ろうとしたというよりは、負けたやけくそで打ってきたとしか思えない。
でも、試合は試合だ。相手の悪意に振りまわされて、礼儀を疎かにするわけにはいかない。
俺はいつもどおりに蹲踞の姿勢をとる。納刀したとき、右肘に重い痛みが走ったが、そのまま立ち上がった。数歩下がり、相手に対して一礼して、試合会場を後にする。
遅れて、拍手が響いた。
「爽太!」
見守っていた彩夏が、俺に駆けよってくる。
「右腕、打たれたよね。大丈夫だった?」
右腕の打たれた場所は、じんじんと痛み続けている。
三年前の事故で骨を折った箇所だ。あのときは、一生腕が使いものにならないんじゃないかと怖くなった……。
「そんなでもないよ。こんなこといつものことだし」
俺はとっさに強がる。
「本当?」
「そんな痛くもないし」
本当は痛いけど、嘘をついた。彩夏を不安がらせたくない。
こいつ意外と心配性だから。
彩夏は恨みがましく、試合会場の向こう側を見やる。
「あれ、絶対わざとでしょ。ひどい子だよね」
さっきの相手は、所属道場の師範に詰め寄られていた。遠目に見ても、叱られているのがわかる。一本も取れずに負けたのではなく、負けたことでやけになって乱暴を働いたことを。
「怒られていい気味ね」
「もうどうでもいいよ。竹刀、持って」
俺は竹刀を彩夏に預けると、面を外した。
「爽太、お疲れ」
颯が歩み寄ってきた。手にはタオルとスポドリを持っている。
「汗だくだな」
颯は言いながら、タオルを渡してきた。
「うん、ありがと」
俺は右手でタオルを受け取る。
「腕は大丈夫か?」
「防具で覆われているところだったから平気だって。痛くない」
彩夏に嘘をついた手前だ。俺は何でもないふりを続ける。
顔を拭うために右手を動かすと痛みが走る。
「ところで、どうだった? 俺の試合」
俺は兄の顔を見上げる。
「いい試合だった」
「とうとう、あと一勝だよ」
「だな」
「あの約束、まさか破ったりしないよな」
「わかっているよ」
恥ずかしそうな顔をしていて、おもしろい。
俺の知る兄は、真面目すぎるくらいだ。本当に、あかりに好きと言ってくれるだろう。
「約束って? 私、あかりさんに煉瓦珈琲でランチごちそうしてもらうことになっているんだ。さっき約束した。それと同じ感じ? 何するの?」
颯、余計なことをしゃべらないでくれと言いたげに俺を見つめてきた。
「いろいろとね」
はぐらかした。
「いろいろって?」
「内緒。話したくない」
「なんではぐらかすの?」
「男同士の秘密に女の子が踏み込んでくるな」
「もう。お兄さんは、爽太が優勝したら何するんですか?」
俺がはぐらかすから、兄に聞いている。
「こいつのわがままを聞くだけだ。そんな大げさなことじゃないよ」
「わけがわからないですよ」
彩夏、ますます拗ねている。
――これでいいだろ、兄さん。
俺は颯と目を合わせる。
あかりに告白する、という約束をばらすべきではないだろう。彩夏に聞かれて、話が他の子にまで広まったら、言いづらくなるから。
初詣のときだって、兄さんは公衆の面前で恥ずかしがって無言だったし、あかりは逃げてしまったし。
……でも。
右腕の痛みが、なかなか引いてくれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます