二月の大会 5

 試合の準備のため、竹刀を振りながら、俺は去年の年末のことを思う。颯に言われた言葉だ。

 ――煉瓦珈琲で店員をしている、同じ大学の後輩に告白された。

 年越しの大祓の夜、遅れて帰ってきた颯は、こっそりと俺に教えてくれた。

 誰なのか、俺にはすぐにぴんときた。舟入あかり。年越しの大祓が終わって、近隣の人たちもみんな帰っていく中で、一人遅れて楠神社に現れたあの人しかなかった。

 俺はその話を聞いて喜んだ。

 そしてすぐに、がっかりした。

 告白は断った、と颯が言ってきたからだ。

 別に、ちょっと時間を置いて考えてもよかったじゃないか。どうしてその場で即答するんだよ。

 文句をぶつけたかったが、兄の前で黙っていることしかできなかった。

 子供である自分を恨んだのは、あの夜だ。

 だから、直後の初詣、あかりがいる前で俺は叫んでやった。この姉さん、俺の兄さんに告白したぞ、と。

 兄さんは、自分のジャンパーをあかりに貸しっぱなしにしていた。あかりは必ず初詣で楠神社に現れると予測して。

 素直に空気を読むだけでは、俺は永遠に兄に庇われる子供のままだから。

「早く大人になりたいよ」

 俺はつぶやいて、竹刀を振り下ろす。

「何? 独り言?」

「うわあ!」

 いきなり背後から話しかけられて、俺はびっくりした。

「彩夏、いきなり話しかけんなよ」

 俺は振り返り、文句をぶつける。彩夏はもう準備万端という様子で、面までかぶっていた。

「独り言なんて珍しいね。緊張しすぎてるんじゃないの?」

「ちょっと真剣なだけだよ」

 彩夏は、ひとつため息をついた。そして俺の肩を優しく撫でる。

「今日、爽太にとって大事な試合の日だもんね」

 彩夏の珍しく優しげな目つきに、俺は釘付けになる。

 なんだか、見透かされているみたいだ。俺が兄さんとの間でこっそりと交わした、大会で優勝したときの約束を。

「どんな試合も手は抜かないよ」

「それ、爽太らしい」

 彩夏は言って、先に歩いていく。

 話しかけられたからかもしれない。剣道を始めたばかりの頃は重たいとしか思えなかった剣道着が、防具が、体の一部のように軽い。竹刀を、早く振りたくてたまらない。

「じゃあ、お互い頑張ろうね」

「ああ」

 俺と彩夏は、互いに手を叩いた。戦友を見送ると、俺はこれから戦うことになる試合会場に体を向ける。

 相手も、試合会場に着いていた。爽太よりも図体が大きい。背は審判をしてくれる大人たちと変わらないくらいだ。中学生が間違ってこの会場に現れたみたい。

 でも怖くない。

 颯を相手に、本気で竹刀をぶつけた、あのときと比べたら。

やがて審判の大人三人も、試合会場に入ってくる。

 合図を受けて、一礼し、会場の白線を跨ぐ。

 腰を降ろして蹲踞の姿勢をとり、「始め」の合図が響く。

 相手は間を詰めて、面打ちを仕掛けてきた。俺は竹刀で受け止める。

 力任せだから、竹刀を通じて俺の手に痺れが走る。

 でも怖くない。

 俺は落ち着いて間合いを取る。案の定、相手は俺と距離を詰めてきた。次の攻撃を積極的に狙ってきている。

 相手が叫んだ。同じ小学生なのに、中学生みたいに低くてドスの効いた声。

 逃げるな、と威圧していた。

 怖くない。怖くない。怖くない。

 相手が竹刀を振り上げ、足を大きく踏み込んできた。飛び込み胴がくる。勢いがすごい。俺の右胴に、岩のような竹刀が迫ってきた。

 怖くない、だから受けられる!

 俺は竹刀を握る左手を上げた。剣先が床を向き、相手の胴打ちを受け止める。手に痺れが走ったのは一瞬。俺は足を前に出し、竹刀をまわし、がら空きになった相手の面を打った。

 物打ちが相手の面をしっかりと捉える。俺の竹刀がしなり、会場に乾いた音が響いた。

 胴返し面が決まり、審判員の三人が旗を上げる。

 俺はゆっくりと、開始線に戻っていく。再び竹刀を構えた。

「始め!」

 審判員の声が響く。相手はまたしても、足を大きく踏み出してきた、胴打ちを仕掛けてくる。

 さっきのと同じ技だ。もう少しであの技は決まっていたとばかりに。

 だから怖くない。

 兄さんがあの庭で仕掛けてきた胴打ちと比べたら。

 もう一度胴返し面を決めてやろうと足を踏み出す。

 さすがに相手も読んでいたらしい。俺に胴打ちを止められると、すぐに面の前に竹刀を構えて俺の竹刀を防いだ。

 今度は相手が下がる。

 俺は追いすがり、攻撃を続けた。

 ――体が軽い。

 今日のこれまでにたくさんの試合を重ねてきたけれど、疲れを感じない。

 あの日、兄さんが庭で本気を出してきたときのことを思うと、いくらでも体が動く気がする。

 ――ずっと、兄さんを縛り続ける自分が嫌だった。

 お前は一人じゃない、と三年前に兄さんが言ったとき、俺は無邪気に喜んだ。家族が一緒にいることに、勝手に温もりを感じていた。

 兄さんは今でも、それでいいと言うだろう。甘えてもいい。お前は子供で、母さんを失っただけでもつらい。我慢し続けるなんて間違っていると。

 でも、もう甘えるだけの子供なんかでいたくない。

 そろそろ、兄さんも好き勝手に生きてもいいはずだから。

 俺は前に踏み込んだ。斜めに竹刀を振り下ろし、上段に竹刀を構えていた相手の胴を打つ。

 痺れを伴うしっかりとした手ごたえがあった。残心も決めている。視界の隅で、審判員が旗を上げるのが見える。

「勝負あり!」

 だが遅れて、相手も竹刀を横振りしてきた。俺の右腕を打つ。

 小手で覆われていない場所だ。鈍い痛みが走った。

 三年前の情景が頭をよぎった。

 病院で目を覚ましたとき、最初に感じたのが右腕の痛みだった。そして右腕には、ギプスがはめられていた。

 母と二人きりで車に乗って、他愛のないことを話していたはずなのに、気がついたら薬のにおいがする白い部屋で横になっていて、しかも体が動かず、右腕が痛い。わけがわからないまま、俺は近くにいた白衣を着た人に竹刀と剣道着はどこにあるのか尋ねて……

 あのときと同じ痛み……

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