第11章 二月の大会 1

 私は、自宅近くの駅の改札前にいた。朝の冷たい風が駅舎を通り抜けて寒い。

 待っているのは、はやて爽太そうただ。前に晴也はるや真弓まゆみの家にあの兄弟と一緒に行ったとき、二人を待たせてしまったから、早く出た。でも、ちょっと早く着きすぎてしまったみたいだ。

 今日は、爽太が優勝すると宣言した大会の、当日だ。会場は、隣町の大きな体育館。これから電車で向かうことになる。

 思えば爽太の稽古をするところは何度も見たけれど、試合しているところを見たことはない。優勝したときのことはともかく、ちょっと楽しみだ。

 それに、彩夏さやかも大会に参加するし。

「お、あかりがいた」

 爽太の声がした。

 駅舎の外から、爽太がこっちに向かっていた。いつも稽古に向かうときと同じ、黒のジャンパーをまとい、剣道着や防具が入った大きなリュックを背負って、鹿島神宮の朱色のお守りがついた竹刀袋を持っている。

 一方で、子供たちの引率しかない颯は、鞄ひとつだけという最低限の荷物だった。

「爽太、おはよう」

 私は手を振って、爽太を迎える。

「先輩も、おはようございます」

「待たせたよ」

「いえ、さっき着いたばかりですから」

「また一緒に電車に乗るなんてな」

 爽太が照れたように言う。

「爽太のいいところ、私期待しているからね」

 私たちは改札を通った。ホームで少しの間待って、到着した電車に乗り込む。すぐに、ドアが閉まって走り出した。

 私たちはボックス席を確保する。

「爽太、リュック貸して。上げるから」

 私は声をかける。

「いいの?」

「荷物棚、高いし、大変でしょ」

「わかった。ありがとう」

 爽太は背負っているリュックを降ろして、私に渡してきた。私の手にずっしりとした負荷がかかる。床に落としてしまいそうになるのを、かろうじてこらえた。

「お、重たいわね。これ」

「当たり前だろ。防具まで入っているんだから」

 爽太は当たり前の顔をして背負っているし、剣道着や防具といっても子供用だから軽いだろうと思って、油断していた。

「舟入さん、何なら俺が上げようか」

「大丈夫です、これくらい」

 私は颯の提案を断ると、力一杯リュックを持ち上げて、荷物棚に置いた。

「ふう、爽太、あんな重たいのを身に着けてよく動きまわれるわね」

 私は座席に腰かけて一息つく。

「身に着けたら意外と気にならなくなるよ。夏はすぐ汗だくになって大変だけど」

「やっぱり爽太って、ストイックだよね」

 私なら夏場の暑い中で汗だくになって動きまわることはできない。絶対倒れてしまいそうだ。

「そう? 兄さんのほうがすごいよ。九州の高校にいた頃なんて、掛かり稽古一時間とかざらだったっていうし」

「掛かり稽古って何?」

 剣道素人の私には、用語なんてちっともわからない。

「要するに相手と竹刀で打ち合うってこと。九州の高校の先生は厳しすぎて、何度も打ち込まれたよ。痣もたくさん作ったし」

 私は、颯と爽太が家の庭で打ち合ったときのことを思い出した。あれと同じことを、一時間。

「うへえ、きつそう」

 やっぱり全国大会で優勝するほどなのだ。それなりにきつい稽古をたくさんこなしてきたのだろう。

 この兄弟、ストイックすぎる。

 爽太が優勝して、約束どおり颯と付き合うことになったとして、ついていけるか不安になった。私、我慢弱いし、高校の頃の体育なんて五段階で三が当たり前だったのに。

「そんなきつそうな稽古ずっとやっているんだから、爽太が強いのも納得だね」

 庭で颯と竹刀を打ち合っていたときの爽太、別人みたいだった。

「褒めてくれてありがと。ところで、あかり、こんなに早く来てよかったの?」

「爽太がそんなことを聞くなんてね。好都合なんじゃないの?」

 少なくとも、私が大会会場にいないよりはずっとましなはずだ。

「そ、それはそうだけど、早く来ても待つだけなのに。開会式も退屈なだけだよ。俺の叔父さんと叔母さんだって、試合開始の少し前くらいに来るって言っていたし」

 爽太の言うとおり、ちょっと長く待つことになるだろう。

「私、決めているから。爽太のこと、最初から最後まで応援するって」

 言ったとたん、爽太は笑顔を浮かべた。

「へへ、まさか俺にファンがつくなんてな。サイン考えないと」

「そういう意味で言ってないから」

 私は指で爽太のおでこを押した。

「だから触るなってのに」

 文句を言ってくる。前よりも強く拒絶しなくなったような気がした。悲鳴を上げてぎゃーぎゃー言ってくると思ったのに。

「緊張感がないな、調子に乗って」

 颯も呆れ顔だ。

「いいだろ今くらい。ちょっとはしゃいでも罰は当たらないって」

「大会前だ。油断していると痛い目を見る」

「わかってるってば。ちゃんと切り替えるって」

 言い争う兄弟を見ていると、私はほっこりする。やっぱり、この二人は一緒のほうがいい。

 離ればなれになるのは、まだ先で結構だ。

「で、兄さん、覚えてるよな。あのこと」

 どこまでもひょうきんだった爽太が、急に真面目な顔になる。

「覚えているよ。舟入さんも、構わないのか」

 颯の黒い瞳が、まっすぐに私を捉えてくる。

 つい、考え込んでしまった。

 もし爽太が今日の大会で優勝したら、颯は私に好きと言う。爽太からの一方的な約束だ。

「構いません。だから私、こうしてついてきているんですよ」

 何かの景品にされているみたいだけれど、別に不満はなかった。最初に颯に好きと伝えたのは私なのだし、切実だった爽太を見ると、嫌だと言うのも気が引ける。

 むしろ気になるのは……

「颯先輩も、本当にいいんですね?」

 私が尋ねると、爽太もとっさに兄の顔を見つめる。

「今さら断れるか?」

 颯は答えた。

 弟のわがままを楽しんでいるみたいだ。

「よかった。これで俺、本気出せる。兄さんは試合のことよりも、告白の言葉を考えとけよ。つまらないこと言ったら許さないから」

 また、ひょうきんな爽太に戻った。

「だから緊張感のないことを言うな」

 電車は走り続けて、大会の会場がある隣町にさしかかった。車内放送で間もなく駅に着くことを告げられる。

 私は立ち上がって、爽太の大きなリュックを降ろした。爽太に渡す。

「どうも」

 爽太が背負うと、私たちは電車のドア付近に移動した。電車がホームに滑り込み、完全に止まって、ドアが開く。

 私は颯に続いて、ホームに降り立った。

「爽太、忘れ物は……」

 後ろを振り返って、爽太を見たとき、声を失った。相手はただの子供なのに、威圧されたのだ。

「どうしたの、あかり? 忘れ物はないけど」

 爽太が電車から降りながら、首をかしげてくる。

「んん、何でもない」

 途中で口をつぐんでしまったのは、ちょっとびっくりしたからだ。

 爽太が、戦うときの目になっていた。

 家の庭で颯と竹刀を持って対峙していたときと、同じ目をしている。

「時間は余裕あるけど、遅れないように行こうか」

 颯が声をかけてくる。

「はい」

 私は彼に続いて、ホームの階段を降りていった。

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