神社の絵馬 2
俺、井口爽太は、
ちなみにこの店に来たのは、あかりに会うためではない。逆に、あかりのシフトが入っていない時間を狙っていた。
俺は店のドアを開ける。案の定、店はがらがらだった。そして、
「ああ、いらっしゃい。井口君」
「おはようございます」
「最近一人で来ることが増えたね」
「まあ、稽古があるから、すぐ帰るけど」
大会に向けて、俺は剣道クラブの稽古以外にも、
「とりあえず、こちらの席にどうぞ」
秦之介は、カウンター席に案内してくれる。
「カフェオレ、お願いします」
俺は席につくと、注文する。さすがに何も頼まずに帰るのは失礼だろう。お小遣いだって、稽古が忙しくて使う暇がないから結構たまっているし。
「はい。カフェオレが一杯ね」
秦之介は俺の目の前で、ミルにコーヒー豆を入れて挽き始めた。
「それで、この店に来たのは? ただ宿題をしに来ただけではないんだろう?」
「ちょっとお礼を言いたくて。どうもありがとう、あかりのこと、高須先生に伝えてくれて」
初詣の日、付き合うことになったあかりに剣道クラブの見学に来るよう言ったとき……
正直びびっていた。
あかりに剣道クラブの見学に来る約束を(強引に)取りつけたのはいい。だが、あかりは剣道クラブにとって、完全な部外者だ。師範の義友が、遊び半分の見学なんて許してくれるかわからなかった。
でも、あの後こっそり楠神社に戻って、絵馬を書き、後日、義友が二人の仲を応援するような絵馬を掛けているのを見つけたとき、俺は確信した。
うまくいきそうだと。
「まさかあの人も、舟入さんと君のお兄さんの仲を応援しているなんてね」
「神社で師範の絵馬を見たとき、びっくりしたよ」
「ということは、高須さんに怒られなかったのかな?」
「うん。何も言われなかった。師範も陰で応援してるっぽい。でも俺があんなこと頼むの、気が引けるから」
「教え子の立場だと、確かに言いづらいよね」
だから俺は、秦之介に頼み込んだのだ。あかりは告白して振られたけれど、まだ俺の兄さんが好きで、これからも応援するという意味も込めて剣道クラブを見学したがっている。だからあかりに見学を許可するよう、義友に言ってほしい。もちろん兄さんには内緒で、と。
まあ、理由の半分は俺の愛嬌ということで。
「ちょうど初宮参りの相談があったしね。そのついでに話したら、高須さん、ものすごく上機嫌になったよ。もし来てくれるのなら歓迎しようってね」
「ほんとよかった」
この店を建てるとき、地鎮祭を執り行ったのが義友だ。俺の師範と秦之介は仲がいい。
しかもその秦之介のところに赤ちゃんが生まれて、ただでさえめでたいときだったのだ。断るなんてあり得なかった。
「君は本当に兄思いだね。あんな頼みごとをしてくるなんて。君を応援したくなった」
子供って、本当に便利な立場だ。こんなときに大人が笑って手助けしてくれる。
「兄さん、あかりを振って寂しそうにしてたから」
「舟入さんも、年明けから寂しそうにしていたからね。うちで頑張って働いてもらっているし、これくらいは喜んでやるよ」
コーヒー豆を挽き終えた秦之介は、粉をドリップに移した。お湯を注ぎ、抽出したコーヒーをカップに入れて、さらにミルクを加えると、俺の席に持ってきてくれる。
「はい、カフェオレお待たせ。熱いから気をつけて」
「いただきます」
最近よく飲むようになったこの店のカフェオレだけど、やっぱり飽きない。
「そういえば、
「上にいるよ。話したい?」
「うん」
「ちょっと待ってて」
そう言って、秦之介は店の奥に向かった。階段を上がっていく足音がして、秦之介が何かを話すくぐもった声が聞こえてくる。そして、二人分の足音が近づいてきた。
「爽太君、来ていたんだね」
春奈が現れる。腕には赤ちゃんを抱えていた。
「おはようございます。
「おかげさまでね。今は、このとおりぐっすりだけど」
春奈は、そのまま俺の隣に座る。葉月は、母親の腕の中で眠りについていた。
かわいい。
「お兄さんとあかりちゃん、うまくいっているってね。夫からちょっとだけ聞いたわ」
「本当にいいところまでいってる」
あかりが三年前の事故に関わっていることと、兄さんがあいつのことを何かと気にかけている理由を知ったときは、いけないことをしたみたいで怖くなったけど。
でも、あかりはまだ、兄さんのことが好きなままだ。だからこれでいい。
「よかったわ。あかりちゃん、入院中にお見舞いに来てくれたんだけど、振られて落ち込んでいたから。あの子やけに年越しの大祓のことを気にしていたけど、まさか告白していたなんてね。でも仲良くしてくれているならほっとしたわ」
だろ。
感謝しろあかり。俺が兄さんといい感じにしてやったんだから。
「それに、兄さんが約束してくれたんだ。今度の大会で俺が優勝したら、あかりに好きと言ってやるって」
くすっと春奈と秦之介の夫婦が笑う。
まあ、俺が無理やり交わした約束だけど、これも愛嬌ということで。
「なら、大会に向けて頑張らないとね」
秦之介は笑ったまま言う。
「そのせいで、兄さんの特訓が大変だけど。この後すぐに家に帰らないといけないんだ」
「もう帰るのかい?」
秦之介に聞かれて、俺は「ううん」と答えた。
「宿題やるし、もうちょっと、葉月ちゃん見ていきたいな」
「せっかくなら、抱っこしてみる?」
春奈は、葉月を俺に近づけてくる。
「え? いいの?」
赤ちゃんを抱えるなんて、生まれて初めてだ。
「いいの。はい」
春奈は葉月を渡してきて、俺は慎重に受け取る。葉月は、俺の腕の中でもすやすやと眠り続けていた。思ったより重くて、温かい。
「大きくなったら、一緒に遊びたい」
「そう言ってくれるなんて、嬉しいわ」
「剣道も教えたい」
「なら、元気に育てないとね」
「うん。何かあったら言ってよ。手伝えること、あると思うんだ」
俺に弟や妹はいないし、赤ちゃんの世話には興味がある。
「爽太君、あかりちゃんみたいなことを言うのね」
「んなっ!」
寝ている赤ちゃんのそばだ。かろうじて大声を出すのをこらえた。
「ちょっと、あんな女と一緒にすんなよ。おしとやかそうに見えて、隙があったら俺に触ろうとしてくるいたずらっぽい奴だぞ」
「でも、あかりちゃん、その子が生まれるときすごかったのよ。私も一緒に病院に行きますって聞かなくて、車の中でずっと私をさすってくれた。あそこまでしなくても大丈夫だったでしょうけど、助かったわ」
「あかりって向こう見ずだよね。それでコートもなしに外を出歩くなんて。風邪ひいたらどうするつもりだったんだか」
呆れてみせる俺の頭に、春奈が手を載せてきた。「おっと」と俺は声を漏らす。
「私も幸せ者ね。あかりちゃんといい爽太君といい、こんなに私たちのことを思ってくれるなんて」
「そう? 葉月がかわいいから言ってるだけなのに」
「でもこれから母親やっていくのに、ちょっと勇気が出たわ。ありがとう、爽太君」
小さい子供みたいに撫でられているけど、嫌ではなくなった。葉月を抱えていることもあって、体がもっと温かくなってくる。
なんだ。
俺、そういうこと言えたんだ。
俺の母さんなんて、もうこの世にいないのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます