第9章 鹿島神宮のお守り 1

 翌日。

 私は、はやての家のリビングにいた。テーブルを挟んだ向こう側には、颯と爽太そうたの兄弟がいて、二人とも下を向いている。

 私も私で、緊張しきっていた。

「あの、お茶、いただきます」

 私は綾乃あやのさんが用意してくれたお茶を一気に飲み干す。

 そのとき、呼び鈴が鳴った。「出てくる」と才治さいじがリビングから出ていく。玄関の戸が開けられた。

「お邪魔します」

 声が聞こえてきた。

 爽太を引き取ると告げた、年を召した男の声。

 私と向き合っている爽太の目が見開いた。

「大丈夫、私も何とかする」

 声をかけると、爽太はうなずいた。

 そしてリビングに、三刀屋みとやが姿を現す。私と目が合った。

「どうして、あなたがここに?」

 三刀屋が尋ねてくる。その手には鞄を持っていた。中身は、爽太の転居や転校に関する書類だろう。

「言ったはずです。私もこの件と関係があるって」

「他人の家の事情に介入しても、何もいいことはありませんよ。前回もお話があったでしょう。この件は爽太が自分の意思で……」

「本当に爽太の望みどおりでしょうか?」

 私は、落ち着いていた。

「私が、無理強いしていると話すのですか?」

 三刀屋の目に、厳しいものがよぎる。邪魔をするのならば、あらゆる手段を使ってでも排除すると暗に言ってきていた。

「颯先輩が通っていた、九州の高校。当時の同級生について、爽太は知っていました。あなたが、爽太に伝えたんでしょう?」

 三刀屋さんに向かって、私は問いを突きつける。

 颯や、綾乃や才治が、かつての颯の仲間たちの現在を話すはずがない。そんなことをすれば、爽太が苦しむかもしれないから。自分が泣きついたために、颯から同級生たちのように大学で活躍する機会を奪ったと。

 実際に爽太が見せてくれたスマホには、三刀屋からのメールが何件もあった。内容は、颯が福岡の全国大会で優勝したときのメンバーのその後についてだ。ある人は、世界選手権大会で日本代表に選ばれた。ある人は、剣道雑誌のインタビューに応じていた。ある人は、剣道の実業団から声をかけられていた……。

 雑誌の記事の写真や、ネット記事のリンクと一緒に。

「爽太、お前がこの人に……」

「今は私があなたに聞いているんです」

 私はとっさに遮る。

 この人に、爽太を振りまわさせるわけにはいかない。

「いかにも、そのとおりです。颯の同級生のことは、私が調べて話しました」

 認めた。

「そんなことをしたら、爽太がどうなるかわかっていたんですか?」

 この人が、爽太を誘導した。颯にとって自分は邪魔な存在だと吹き込んで、爽太をこの家にいられないようにした。

「爽太を苦しめてしまうことは、理解していました」

 中学受験のためなどではない。あくまで口実だ。

 この人はただ、だけだ。

「ではどうしてこんな真似を?」

「爽太が剣道を続けているのを見るのが、つらかった」

「どうしてつらいんですか?」

 孫が好きなことを見つけて頑張っているのだ。つらいなんて、おかしい。

「事故のとき、爽太はいつもどおり稽古に向かっていた。もし剣道なんてしていなかったら、私は自分の子を、爽太が母を失うことはなかった」

 当の爽太が胸の前で両手を握った。その小さな背中を、颯は両腕で抱える。

「それなのに、爽太は剣道を続けている。爽太の怪我が回復して、綾乃のところで普通に生活できるようになったとたんに、また剣道を始めた。私は耳を疑いました」

 間接的に、剣道が爽太から母親を奪ったから。

 もしも爽太が剣道なんてやっていなかったら、今も実の母親と一緒に暮らしていた。

「私の考えがおかしいことはわかっています。爽太も剣道も何ら悪くない。でも、なぜ爽太が剣道を続けているのか理解できなかった」

「だって、好きだから」

 重たい空気の中で、爽太の声が響く。

「兄さんと一緒に竹刀振るのが、楽しかったから。友達もたくさんできたし。たぶん、母さんも、続けたほうが喜ぶだろうし」

 そう言って、爽太は部屋の片隅の、もっと幼い頃の自分と母親の写真を見つめる。写真の爽太の母親は、息子の隣で微笑んでいる。

 さぞ、自慢に思っていたんだろうな。

「やめるって言っておいて、変だけどね」

「変なものか」

 颯が、弟をたしなめる。

 颯と爽太が、互いに見つめ合う。

「兄さん、本当に、自分のやりたいこととか犠牲にしてない? 俺のために」

「当然だ。強くなっていくお前を見るのが楽しかった。俺がこっちに戻ってきて、後悔したことは一度もない」

 兄の思いをきちんと知った爽太が、微笑む。

「よかった」

 これで、はっきりした。

 爽太がここから消えなければならない理由なんて、何一つない。

「もうひとつ、いいですか」

 私は、三刀屋さんに言う。

「何ですか?」

「爽太が剣道を始めたきっかけは、三刀屋さん、あなたですね? たぶん颯先輩も」

「えっ……?」

 三刀屋は驚き、私とまっすぐに目を合わせた。

 私は鎌をかけただけだ。でもこの反応である。図星らしい。

「それも、颯や爽太から聞いたのですか?」

「いえ、鹿島神宮のお守りを見て思ったんです。爽太の竹刀袋についている」

 この部屋に飾られている幼い爽太と、まだ生きていた母親の写真。

 撮られたのは、爽太が剣道を始めたばかりの頃だろう。身に着けている剣道着や防具も、竹刀袋も、兄に憧れて剣道を始めたいと言い出した爽太に、爽太の母親が用意したもの、なのかもしれない……。

 だが、写真にも写っている鹿島神宮のお守りに、私は引っかかった。

 茨城県にある鹿島神宮は、ここから行くならかなり時間と手間がかかる。まず新幹線か飛行機で東京に出て、そこから電車やバスで何時間もかかるような場所だ。

 颯と爽太の父親は、爽太が生まれてすぐに亡くなったという。

 母親は一人で二人の息子を育てていた。しかも兄の颯は、高校で全国大会に優勝するほどの実力だ。小さい頃から毎日のように稽古に明け暮れていて、母親もそんな颯を支えるために、多忙な日々を過ごしていたはずだ。遠くに旅行に行ける余裕があったとは、とても思えない。

 一方で、勤め先を定年退職して、時間に余裕がある三刀屋ならば……。

「いかにも、あのお守りは私が贈ったものです」

 はっきりと認めた。

「お守りだけではありません。爽太が使っている竹刀や剣道着、防具も、すべて私が用意しました。颯に剣道を始めさせたのも私です。こう見えても私、若い頃は大学や社会人の大会で何度も優勝するくらい、腕がありましてね」

 だったら、なおさら爽太から剣道を取り上げるのはおかしい。矛盾している。

 でも私には、とっくに答えがわかっていた。

「私が爽太から剣道を取り上げようとしたのは、単純に怖かったからに他なりません。私が剣道を始めさせたばかりに、あのようなことが起きましたから」

 結局、この場で最も悔いているのは三刀屋のほうだった。

 三刀屋にとって、爽太から母親を奪ったのは剣道ではない。その剣道を始めさせた、三刀屋自身だった。

 だから、この人に伝えたいことがある。

 むしろこのために、私は無理を言って颯の家に押しかけたのだ。

「三刀屋さん、コーヒーにしましょう」

 下を向いた三刀屋に、私は声をかける。

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