舟入あかりの今の実家 4

 車内放送が、間もなく今暮らしている町の駅に着くことを告げる。

 ――やっと、戻れた。

 小一時間程度の電車旅が、やっと終わる。

「爽太、もうすぐ着くよ」

 あかりが声をかけている。

「ん? ああ」

 爽太はすぐに起きた。ひとつ背伸びをする。

 俺はその手を引っ張って、立ち上がっていた。

「うわっ! 何?」

 俺に無理やり立たされた爽太が慌てた声を出す。

「降りるぞ」

「わかってるって乱暴すんなよ」

 電車のドアが開くと同時に、俺は爽太の手を握ったまま降りた。爽太はよろめきながらも、俺についてくる。

「何だよ、兄さん。転ぶだろ。自分で歩けるって」

「ちょっと、急ぎたくなってきた」

「はあ?」

「あの、先輩ったら、急ぎすぎ」

 後からついてくるあかりも声を飛ばしてくるが、俺は振り返らない。

 そのまま改札を抜けた。

 住み慣れた町を駆け抜けて、今の自分たちの家へと向かう。

 そのまま家に着いた。そこで、俺は爽太の手を放す。

「まったく何だったんだよ。そんなに急いで。まだ稽古まで時間あるのに」

 爽太は、俺に握られていた手をさすりながら文句を言っていた。

「ちょっと変でしたよ、先輩」

 あかりも声をかける。確か彼女の住むアパートは、俺たちの家とは逆方向だったはずだ。

「舟入さん、結局ついてきたのか?」

「気づかなかったんですか! 先輩の様子が変だからついてきたのに」

 彼女もぶーぶー言っていた。

 ついてきたのなら、それでいい。

 俺は門を開けた。

「爽太、ちょっと庭で待ってろ。舟入さんも見ていきたかったらここにいたらいい」

 返事を待たずして、俺は家の中に入る。

「ただいま」

「ああ、おかえり」

 綾乃が玄関に顔を出して迎える。だが俺は、その横を素通りしていた。

「どうしたの? 爽太は?」

 尋ねられるが、俺は答えなかった。そのまま急いで、二階の自室へと向かう。

 爽太と二人で使っている部屋には、もちろん普段の稽古で使っている竹刀も置かれている。俺は自分の竹刀と、爽太の小学生用の竹刀を掴んだ。

 そのまま一階へと降りていく。

「もう、そんなに急いでどうしたの?」

「ちょっと庭先に出るだけだから」

 俺は再び綾乃の脇をすり抜けた。

 靴を履き、寒い外に出る。

 爽太は、あかりの隣で待っていた。

「兄さん、竹刀なんて持って出て何のつもりだよ」

 怪訝そうな弟に、俺は竹刀の柄を突き出した。

「持って、こっちにこい」

「はあ?」

「いいから」

 俺は爽太に竹刀を押し付けると、芝生が張られた庭の中央へと向かう。

 だが爽太は、竹刀を持ったままきょとんとしていた。

 ――何をぐずぐずしている。

「いいから早く来い!」

「わ、わかったよ」

 爽太は、やっと歩き出した。俺と互いに竹刀を構えれば、互いの剣先が触れるくらいの距離で立ち止まる。

 剣道をやっていれば、自然と覚える間合いだ。遠すぎず、かといって、相手が竹刀で襲いかかっても対応できる間合い。

 俺は爽太に向かって一礼した。試合の前の、欠かしてはならない作法。

「兄さん、何のつもりだよ?」

「構えろ」

 言うと同時に、俺も竹刀を構えた。剣先を爽太の顔に向ける。

「え? なんで?」

「いいから」

「ここ庭だよ。防具も着けてないのに」

「なら勝手に始めてやる」

 俺は竹刀を振り上げた。立ち尽くしている爽太の脳天に容赦なく振り下ろす。

 これくらい俺の弟ならば容易に捌けると信じて。

 バチン、という乾いた音が響いた。

 爽太も竹刀を繰り出していて、俺の竹刀を受け止めたのだ。もう、棒立ちではなく足を前後に出して構えていた。

 爽太の目が変わる。遠慮がちな子供の目から剣士の目へ。

 冷静で、なおかつ本能に従った、闘志に満ちた目。

 爽太が攻撃を仕掛けてきた。足を踏み出して芝をえぐり、俺の横腹を竹刀で薙ぎ払ってくる。俺は竹刀を振り下ろして止めた。

 竹同士のぶつかる音がもう一度響く。

 ――いい。

 もう一合、二合と、俺と爽太は竹刀を交える。互いが足を踏み出すたびに芝と土が宙を舞い、乾いた音が町に響き渡る。重たい防具を身に着けてない分、軽やかに動ける。

 攻撃的になった爽太は、俺から目を離さない。竹刀を振り下ろし、突きを繰り出しながら、黒く鋭く光る目で俺の隙を探っている。

 少しでも意識を逸らしたら、やられる。間合いを探り、二人で庭をすり足で動きながら、攻撃の糸口を探る。

 もう、俺は爽太以外が見えない。竹刀のぶつかる音しか聞こえない。

「……止めないでください」

 例外として、あかりの声が聞こえた。だが誰に何を止めないよう頼んでいるのかわからないし、考える余裕もない。

 ――ああ、楽しい。

 爽太が再び縦に竹刀を繰り出してきた。

 俺は受け止めながら、口元を歪ませていた。爽太と竹刀を交えるたびに、竹刀を通じて手に力強い痺れが走って心地いい。

 爽太は、強い。

 並みの攻撃では、押し崩せない。

 高校時代、福岡であった全国大会決勝を思い出した。握っているのは竹刀なのに、真剣を持って、実際に命のやりとりをしているかのような感覚がしていた。

 今も同じだ。

 爽太がこんなにも、成長していたとは。

 今度は爽太が、攻撃を仕掛けるようになる。俺は後ろに下がっていく。どんどん、庭の隅に追い詰められていく。

 爽太を押し返すことが、できない。

 そうして攻撃を受け止めているうちに、姿勢が崩れた。竹刀の剣先が、変な方向を向く。

 爽太が叫び、ひときわ強く足を踏み込んで、竹刀を横に繰り出してきた。構えが崩れていた俺は受け止めきれず、竹刀が流される。

 がら空きになった俺の頭めがけて、爽太は容赦なく竹刀を振り下ろしてくる。

 ……だが、衝撃はなかった。

 爽太が、俺の額の前で竹刀を止めていたからだ。

「一本ありだな」

 俺は負けを認める。爽太は、竹刀を引っ込めた。構えたまま俺から間合いをとって、納刀の構えをし、一礼してきた。

「……ったく、びっくりしたよ」

 爽太が呆れてくる。目にたぎっていた闘志はなりを潜め、元の子供の目に戻っていた。

「本気でやりあったのは久しぶりだな。別に止めなくてもよかったんだぞ」

「寸止めぐらいできるって。そもそも防具着けてないのに本気で打ったらケガするよ」

「まったくだ。颯も大学生だというのに」

 他の男の声が聞こえて、俺は玄関のほうを見る。才治だった。隣には綾乃さんと、あかりもいる。

「いきなり庭から大きな音がしたと思ったら、こんなに暴れて。舟入さんも止めないよう言ってくるし」

 俺と爽太が竹刀を持って暴れた。そのせいで、冬枯れた芝はあちこち剥げて、どす黒い土が露出していた。大きい剥げ目と、小さい剥げ目。

 楽しくて、俺はついやり過ぎてしまった。もう立派な大学生なのに、子供みたいだ。

「す、すみません……」

 俺は謝るが、才治も綾乃も怒ったりしなかった。

「まあ、剣道好きなお前たちが家に来た時点で、いつかこうなると思っていたからな。二人とも遠慮して芝生の上では竹刀を振らなかったが」

「まあどちらにしても、春にはまた生えるでしょうし。ところで、二人とも土まみれよ?」

 綾乃さんに言われて、俺は改めて爽太を見る。頬に土が付いていた。それに服、特にズボンの裾は、芝の葉と土で汚れている。

「すっかりと汚れたな。稽古の前に着替えないと」

 俺は言いながら、爽太の頬の土を拭いとった。

「そう言う兄さんも、山とかで遊びまわった子供みたいだぞ」

 爽太も、ぱんぱんと俺の土と芝まみれになった服をはたく。

「子供が生意気言うな」

 俺は胸元に立つ爽太の頭を撫でた。

「子供みたいに本気出してたくせに。でも、楽しかった」

 爽太は俺を見上げてくる。すっきりした顔だ。春からのことを打ち明けたときと違って、その目はしっかりと輝いている。

「俺も楽しかった。お前、こんなに強くなったんだな」

「誉めるなよ。照れる」

 事故があって、俺は爽太のために、強豪といわれる九州の高校をやめた。あのまま続けていれば、東京の大学で今とまったく違う日々を過ごしていただろう。

 でも、今の爽太を見れば、後悔はない。

「剣道、ほんとおもしろいよな。くそ、ちょっと悔しくなってきた」

 爽太の笑顔に、未練が混じる。

「続けたいだろ」

「そうだよ。やめたいなんて言ったの、嘘だよ」

 やっと、俺の弟が本音をぶつけてきた。

「町を出ていきたいとか、剣道クラブもやめたいなんて、それも全部嘘。俺、ずっとここにいたいよ。勉強だって、やろうと思えば両立できるし」

「ああ、俺だっていくらでも相手をしてやる」

 だから爽太には、ここからいなくなってほしくない。

「あの、そのことで、いいですか?」

 あかりが話しかけてきた。

「どうした?」

 俺は爽太の頭に手を載せたまま尋ねる。

「私だって、爽太にこの町からいなくなってほしくないんです」

 あかりはそうやって、自分も味方だと言い張る。

「爽太には振りまわされたけど、嫌いじゃない。その子のおかげで、友達だって増えたから」

「あかり、言い過ぎ。照れる」

 爽太は嫌がるが、顔は笑っていた。消えてほしくないと思っている人がまだいることに、ほっとした様子だ。

 あかりは続ける。

「だから、明日、おじいさんが来たときなんですが、私も一緒にいてもいいですか」

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