舟入あかりの今の実家 3
爽太は、母の名前を口にした。
リビングの空気が、張り詰める。
「俺の母さんの名前です」
あかりが、熱したフライパンにハンバーグを焼き始めた。肉が焼けるいい音が響く。
「……そう、そういうこと」
真弓は、再び話し始めた。
「三刀屋さんの車に乗っていたのね」
爽太はうなずく。
「三刀屋さんの車から剣道の道具が出てきたことは、知っているわ。あと、病院に搬送されて生き延びたことも。あんなことがあったのに、剣道続けていたのね」
「うん」
まさか爽太が自分から事故のことを打ち明けるとは思わなかった。俺なんて、このまま事故のことなど話題にもせず、お昼を食べて、あかりが家族に恵まれているところを確認して帰るつもりだったのに。
「よく生きていたわ。でもどういうこと? 剣道をやめるって。あれからずっと続けてきたんでしょう」
爽太は、俺の目を見つめる。話すよ、と暗に伝えてきた。
「兄さんも、剣道すごかったんだ。九州の高校に行って、全国大会で優勝するくらいに」
「全国大会で優勝? それはすごい」
晴也がつぶやく。
「うん。本当にすごかった。俺も福岡まで見に行ったから。でも事故があったせいで、兄さん、九州の高校をやめて、こっちに戻ってきたんだ。俺のために、剣道やめた」
爽太の言葉は間違っている。俺は剣道をやめていない。ただ、強豪の大学で剣道を続けて、大会で活躍し続けることはできなくなっただけだ。
「それが、申し訳ないの?」
真弓の言葉に、爽太はうなずいた。
「身勝手な気がして」
爽太にとって、この夫婦は初対面だけれど、話しやすいのだろう。事故で親を失ったあかりを引き取ったという点で、才治や綾乃と似ているから。しかも、この人たちには自分を養ってもらっているという引け目もない。
「それで、好きなことをしたらいけないと、そういうことかしら?」
爽太はうなずいた。
「そのお兄さん、すぐ隣にいるよ」
真弓が、俺を見つめてくる。
「爽太君が大好きな剣道を続けるのが身勝手だとか、そんなこと、聞こうと思えば簡単に聞けるんじゃないの?」
爽太にかける言葉なんて、決まっている。
「俺は、爽太が剣道を続けているのを見て嬉しいよ。お前が好きなことをしているのが身勝手だなんてありえない。そもそも剣道だって、俺はやめてないだろう」
響いた感じは、なかった。
俺がこう言ってくるのを見越していたように、爽太は作り笑いを浮かべた。
「ごめん、そうだったよね。兄さん、剣道教えているし。俺、勘違いしてた」
そのまま食事を終えて、俺と爽太が洗いものをして、あかりがコーヒーを淹れてくれて(爽太だけカフェオレだったが)、もう昼を過ぎた。ゆっくりしたいが、夕方には稽古があって、そろそろ戻らなければならない。
「ここまで来るのも大変だったのに、帰った後も稽古だなんて、大変ね」
空になったカップを前にして、真弓は言う。
「大丈夫です。電車に乗るだけだし」
爽太は、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ、私もそろそろ出るね」
あかりも立ち上がった。
「ああ、あかり、待って」
真弓さんが引き留めた。すたすたと別の部屋に向かって、すぐに戻ってくる。赤いリボンでラッピングされた、赤い布袋。
「まだ誕生日プレゼント渡せてないよね。だいぶ遅くなったけど、おめでとう」
「わあ、何が入ってるの?」
あかりは大喜びで、その箱を受け取った。
「あかりが前々から欲しがっていたミルよ」
「ありがとう。コーヒー豆挽く道具、新しいのほしかったんだ。向こうでも大事に使うね」
もう十九歳だというのに、幼い子供みたいだ。
そしてあかりは、また自分の両親の写真に向かった。
「じゃあ、出るね」
俺たち三人は、そのまま玄関へと向かった。真弓や晴也もついてくる。
「じゃああかり、向こうでも体調に気をつけるんだよ」
「うん、叔父さん、いろいろありがとう」
あかりが叔父に向かって軽く手を振る。
「井口さんも、頑張ってくださいね」
玄関まで迎えに来てくれた真弓さんが、俺を労ってくる。ついさっきまでは初対面の他人同士だったのに、親戚の人みたいでこそばゆい。
「はい。あの、いろいろとごちそうさまでした」
俺は言いながら、戸惑う。
結局、この人たちには俺と爽太の問題を打ち明けるだけだった。
「じゃあ、爽太君も元気でね」
真弓は、爽太の頭を撫でる。
「はい」
爽太は、きちんと返事をした。
「また来てくれたら嬉しいな。お話ししたいこと、たくさんできたし」
爽太は、間を空ける。
「そうだね」
「お兄さんも、今後もあかりのこと、よろしくお願いします。うちの娘のこと、大事にしてくださいね」
「? はい」
真弓の言葉は気になったが、俺は玄関を出た。
そのまま、あかりの叔父叔母夫婦の家を離れて、駅へと向かう。みんな、黙っていた。
お昼を食べて、コーヒーを飲んだおかげで、寒い中でも体は温かい。
でも、話をする気分にはなれなかった。
爽太はすぐ隣を歩いているのに、遠くにいるように感じる。話しかけることが、なかなかできない。
俺は、爽太に気持ちを伝えたつもりだ。
でも、伝わったととても思えない。
爽太も、俺に話しづらいのだろう。行きでは初めて来た町にはしゃいでいたのに、今はじっと前を見て歩いている。
あかりもあかりで、黙っていた。
そうしているうちに、駅に着く。改札を通って、電車に乗り込んだ。
三人で、空いているボックス席に座る。
電車が駅を出発して、車窓が住宅街から田園風景に変わってからも、俺たちは誰もしゃべろうとしなかった。
そのうちに、爽太は俺にもたれかかってきた。
「爽太、寝ましたね」
あかりが言うとおり、爽太は目を閉じていた。寝息をたてている。
また、あかりと実質二人きりだ。
「どうでした? 私の家族」
誕生日プレゼントが入った布袋を抱えながら、あかりは尋ねてくる。
「いい人たちだったな。俺の叔父や叔母にそっくりだった」
「ですよね。私も先輩の家に行ったとき、同じことを思ったんですよ」
あかりは、自慢げに笑ってくる。
だがその笑みは、すぐに消えた。
「迷惑でしたか? いきなり来てほしいって言って。稽古もあるのに」
「いや、そんなことはないよ。本当に日中は暇だったから。逆にありがとう。お昼とコーヒー」
「誘ったのは私ですから当然です」
「いい家族だったな。舟入さんがいつも楽しそうにしている理由、わかった気がする」
「でしょう? 自慢の家族です」
あかりはふふ、と笑う。
三年前の事故で両親を失い、つらい思いをしてきたのではないかと心配してきたのが馬鹿らしくなるほど、屈託がない。
「でもどうしてここに?」
理由なんてわかっているが、俺は尋ねていた。
「ただ、見てほしかっただけです。この間なんて、私が自分勝手なことを言ったせいで、爽太もつらそうにしていたから」
予想していたとおりの答えが、戻ってきた。
「こいつ、これからどうすると思う?」
俺は、俺の体にもたれかかったままの爽太を見下ろす。
「剣道やめて、町を出ていくの、取りやめてくれるかな?」
告白してきたのを振った女の子に、俺は頼っている。
もう、誰に頼るか考える余裕もない。
焦りが、募る。
結局、さっきの家で、爽太の思いに応えることができなかった。それらしい言葉ではぐらかしただけだ。
「私だって、そんなことあってほしくないですけど。でも、爽太だって、本当はそんなこと望んでません。もし本気なら、あのまま何も話さなかったはずです」
ぐらつく。
「舟入さんは、どうしてそこまでしてくれるんだ?」
俺が尋ねると、あかりはちょっとばかり顔を染めた。
「……まだ、好きなままですから。先輩のこと」
「本当に、俺でいいのか?」
「当然です」
俺と三年前の事故の関係を知ったのに、気持ちが変わらない。あかりは芯が強い。
「俺は、爽太のそばを離れるわけにはいかない。たぶんこいつのためだったら、舟入さんのことも放り出すかもしれない。それでもか?」
酷だという自覚はある。でもこればかりは言う必要があった。
俺に縛られるな、と爽太は泣きじゃくりながら言った。
でも爽太はまだ小学生だ。母を失って、つらい思いをしているのに、見捨てるわけにはいかない。いくら才治や綾乃がいるとはいっても、俺がいないとだめだ。
「そういうところも含めて好きなんです」
あかりは臆さずに言った。
「だから、爽太のことも含めて頼ってもらってもいいんですよ」
よかった、と思えた。
自分だけでは爽太と向き合いきれない。この数日で、はっきりしたから。
「爽太、このままだと本当にいなくなりそうだ」
爽太のために、俺は自分のことを犠牲にしたつもりはない。
さっき爽太に言葉にして伝えたつもりだが、聞こえたようには見えなかった。
「爽太も、わかってますよ」
「そうか?」
「ただ、もうちょっとぶつかってほしいんですよ。お兄さんに」
ぶつかってほしい、か。
そういえば最近、爽太と本気で竹刀を交えることがなくなった気がする。
爽太が病院を退院し、才治と綾乃の家に引っ越してきてからの一、二年は、剣道の面倒をつきっきりで見ていた。一緒に竹刀を振り、技を教え、うまくできたときは頭を撫でて褒めてやった。
でも最近は、剣道で爽太に構うことは少なくなっていたと思う。剣道クラブで、俺は新しく入った子の指導で手一杯になっていたし、爽太も爽太で、稽古も友人関係もうまくいっているから、問題ないと思っていた。
爽太の肉親は俺だけだと自らを縛っておきながら、中途半端に信頼して、大丈夫だと突き放していた。肝心なところで寄り添いきれていない。
そのせいで爽太を困惑させて、今回の事態に至らせてしまった。
結局、爽太と真正面からぶつかるしかない、ということか。
「ありがとう、どうしたらいいかわかった気がする」
俺はあかりにそう言っていた。
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