舟入あかりの今の実家 2

 一時間ほどで、電車はあかりの今の実家があるという町の駅に着く。俺たちは電車を降りて、改札を抜けた。

 俺たちが暮らしている町よりも栄えている町だ。立派な駅ビルがあって、駅の周辺も大型ショッピングモールやホテルが並んでいる。

 だが十分も歩くと、周辺は静かな住宅地になった。

「ここ、きれいな家が多いな。あれなんか、煉瓦珈琲みたい」

 爽太が指差した家は、確かに暖色の煉瓦の外装に煉瓦珈琲レンガコーヒーの面影があった。初めて来た町が物珍しいのだろう。爽太の視線が落ち着かない。

「そうだよね。私も帰るたびにそんなことを思うよ。おしゃれな店も多いし、静かだし、でも駅に近くて便利だから、暮らしやすいの」

「あかりの故郷、いい町だな」

「暮らし始めたのは、事故があってからだけどね。本当の故郷はまた別の町」

 それで、爽太が立ち止まった。

「ごめん……」

「いいよ。爽太の言うとおり、いい町だし、気に入っているの」

 そう言いながら軽い足取りで歩き続けるあかりは、確かにこの町の景色になじんでいた。

 なんだろう。

 事故があってから、大学に入学するまでの数年程度しか、あかりはこの町で暮らしていないはず。それなのに、ずっとこの町で暮らしてきたように見えてしまう。

「見えてきたよ。私の今の実家、あの家なの」

 あかりが指差した先にあるのは、赤い屋根にベージュの壁の目に優しい家だった。俺が暮らしている家よりは小さいけれど、見ているだけで温かい気分になる。

 あそこに、あかりの叔父と叔母がいる。

 表札に書かれているのは「舟入」ではなく、「坂口」だ。

 だがあかりは、呼び鈴も鳴らさずに門を開けた。

「来てください。遠慮しなくていいですよ。爽太も」

 あかりが門の向こうから呼んでくる。俺と爽太が門を通り抜けると、あかりはそのまま玄関の戸も開けてしまう。

「ただいま」

 ――本当にこの家が、あかりにとって今の実家なんだな。

 遠慮する様子もないあかりの姿に、俺がそんなことを思っていると……

「おかえりなさい、あかり」

「よく帰ってきた」

 家の中から、男女の声がした。あかりの体の向こう、玄関口に、夫婦が姿を現す。

「連絡したとおり、お客さんも来てるよ」

 あかりが、脇にどける。

 俺はとりあえず、頭を下げた。

「こんにちは。井口颯です」

 隣の爽太も、ぺこりと頭を下げる。

「爽太です」

「ようこそ、よく来たわ。さあさあ、外は寒いし、中に入って」

 俺と爽太も、玄関に入った。

「お邪魔します」

 爽太、初めて入る家に緊張している。靴を脱いでそろえる動作もよそよそしい。

「あかりから聞いていたけど、礼儀正しい子ね」

 女の人が、にこりと爽太に笑いかける。「はあ」と爽太はちょっと顔を赤くした。

 俺と爽太は、そのままリビングに通された。

 俺や爽太が暮らしている家よりも、少し狭い。でも中央には大きなテーブルがあって、俺や爽太が座るための椅子も用意されていた。

「ちょっとごめんなさい」

 あかりは、このリビングの片隅の本棚に向かった。何だろう、と俺は思うが、その本棚の上には、花が生けられた一輪挿しと、一組の男女の写真が置かれていた。男の人の真っ黒な瞳と、女の人の栗色の髪の毛が、あかりとそっくりだ。それで確信する。

 写真の人たちは、あかりの亡くなった両親。

「二人とも、無事帰ってきました」

 あかりはその写真に話しかけた。

 俺や爽太が外から帰って、父や母の写真に声をかけるように。

「さあさあ、座って。お客さんなんて久しぶりだわ」

 女の人は、嬉しそうだ。俺は言われるまま、椅子の一つに腰かけた。爽太も、隣の椅子に座らせる。

 その向かいに、夫婦が腰かけた。あかりだけが、台所に向かっていた。

「私、お昼作るから。食材は?」

「冷蔵庫の中に入ってるよ。好きに使って」

 男の人が声を飛ばす。あかりは冷蔵庫を開けた。

「さてと、ちょっと自己紹介が遅くなったわ。改めまして、坂口真弓さかぐちまゆみです」

「夫の晴也はるやです」

 夫婦は、それぞれの名前を名乗る。

「お二人のことは、あかりから聞いているわ。お兄さんは子供たちに剣道を教えているんですね」

「はい。弟も、俺と一緒に稽古しています」

「すごいね。爽太君、だっけ。どれくらいやっているの?」

「小学生になってから、ずっとです」

「礼儀正しいのも納得。剣道が好きなんだ」

 爽太の瞳に暗いものがよぎる。だが次には、子供っぽく笑みを浮かべた。

「兄さんは技をたくさん教えてくれるし、友達もたくさんいるし、大好きです」

 また、爽太は空気を読んで、ノリで話した。

「頼もしい」

 真弓は、爽太の嘘に気づく様子もない。

「まったく、真弓は武道の話に興味津々だな」

 隣の晴也が呆れながら笑う。

「あら、ごめんなさい。学生時代、弓道をやっていたから、武道の話が出るとつい。あかりから剣道の話を聞いていて、もっと会いたくなっていたの」

 真弓もはぐらかすように笑う。

「その稽古の前に、煉瓦珈琲であかりとよく会ってくれるんでしょう? うちの子のコーヒー、味はどう?」

「とても飲みやすいです。それに、稽古の前に飲むと頭がすっきりします」

お世辞を言っているつもりはない。あかりの淹れるコーヒーは本当においしい。

 だが、俺が煉瓦珈琲によく通うようになった理由は、他にもある。

 去年の四月、新しくアルバイトとして働き始めた、俺と同じ大学に入学した後輩の名前が引っかかったから。

 舟入あかり。

 俺の母が亡くなることになった三年前の事故で、巻き込まれたもう一台の車に乗っていた夫婦の苗字は、舟入だった。あとは娘がいることしか知らない。保険会社の個人情報管理が厳しいのか、才治さいじ綾乃あやのも、もう一台の人たちについて詳しいことはわからないという。

 でも、煉瓦珈琲であかりの名前を知って、気になった。

 ひょっとしてこの人は、あのときの事故で亡くなった夫婦の娘ではないか。

 だとしたら、これまでどのように生きてきたのだろう?

 気にかけて、案じて、寂しくならないように彼女と話しているうちに、いつの間にか距離が縮みすぎていた。

「うちの子のコーヒー、褒めてもらって嬉しいわ」

 真弓は、自分が褒められたように笑っている。

「昔からそうだよ。あかりはコーヒーを淹れるのが得意なんだ」

 晴也も自慢げに話す。

「うちで暮らし始めたときに、味と香りだけでコーヒーの産地を言い当てたこともあったんだ。僕らもびっくりしたよ」

「うちで暮らし始めた……?」

 あかりの親がどうなったのか知っているのに、俺はつい晴也の言葉に食らいつく。

 その言葉の意味を同じく知る爽太は、顎を引いている。

「僕は、あかりの叔父なんだ。苗字が違うから、変に思ったかな?」

 そのあかりは、台所で黙々と玉ねぎを切って、下ごしらえをしている。

「いえ、そんなことはありません」

 平静を装う俺をよそに、晴也は続ける。

「コーヒーは父親の影響で、好きになったらしい。高校生の頃は、とても熱心にコーヒーの研究をしていたよ。父親にコーヒーの味を褒められると、嬉しそうにしていた」

「あかりの父さん、そんなにコーヒーが好きだったんですか?」

 爽太が尋ねる。

 爽太も、あかりの淹れるコーヒー――厳密にはカフェオレだが――が好きみたいだった。俺の誕生日に、あかりが自らブレンドしたコーヒー豆をプレゼントしてきたことがあって、爽太にカフェオレにしたものを飲ませるとおいしいおいしいと言っていたものだ。

「ああ、好きだったね。二人の写真に、たまにコーヒーをお供えすることがあります」

 そう言って、晴也は本棚の上の夫婦の写真を見つめた。

「亡くなりましたけどね。母親も」

「えっ……」

 爽太もわかっているのに、声を漏らした。

 俺も、ちょっとびっくりしていた。あっさりと、あかりの両親の死を話してしまうなんて。

 俺なんて、剣道クラブの子供たちには両親が亡くなっていることは伏せている。苗字も、養子縁組して三刀屋から井口に変えた。俺たちの家族のことを知っているのは、爽太の小学校の先生と、師範の義友、そして才治や綾乃が特に信頼している知人くらい。そうしないと、爽太が周囲から浮いてしまうから。

 それなのに晴也は、あかりの両親の死を隠そうともしなかった。

「あっ、ごめんなさい。暗い話を」

「いや、大丈夫。でも寂しくなったりしないかな?」

 あかりを気にしてか、爽太は小さな声で話す。

「それは、寂しかったよ」

 あかりは言って、卵を割った。

「でも、私はちゃんと大学に通えているし、コーヒーで仕事もできているし。不幸なんかじゃないよ」

 それは、俺や爽太にも当てはまる言葉だった。

 三年前の事故で母親を失った。女手ひとつで俺たちを育ててくれて、好きなこと、やっていることを何でも応援してくれる、優しい母だった。病院の霊安室で母を対面したとき、爽太と一緒にどう生きていけばいいのかわからず、不安に震えもした。

 でも今は、才治や綾乃という家族に恵まれた。大学にも通えている。大会で活躍することはなくても、剣道も続けていて、子供たちにも慕われている。三年前は、想像もできなかった。

 俺は、恵まれすぎているくらいだ。

「父さんは亡くなって、おいしいって言ってくれる人、いなくなったのに」

 爽太の声が大きくなる。

「そう? みんなおいしいって言ってくれるよ? 爽太も含めて」

 あかりが、爽太の言っていることは間違いだと告げてくる。

 俺は、あかりがこんなところに連れてきた理由がわかった。

 孤独ではないと、示そうとしたのだ。

 この間、あかりは俺の祖父の前で自分の両親の名前を明かした。自分も事故で両親を失った。だから爽太が剣道をやめる理由に、少しでもあの事故が関係するなら、自分も部外者ではない。そんなことを言い張るために。

 でも、一方で俺は心配した。爽太も同じだろう。

 両親を失って、あかりは不幸になっていないのかと。

 だからあかりは、自分も家族に恵まれていて、不幸ではないと伝えようとしている。

「もちろん井口先輩も、よくおいしいって言ってくださいましたけど」

 あかりはそう言って、俺を見つめる。

「あかりはすごいな。あんなことがあったのに、好きなこと続けていて。ポジティブでうらやましい。俺とは大違いだよ」

 今、爽太はぼそりと本音を漏らした。

 暗に、剣道が好きでなくなったと言った。

 怪我が治ったらまた稽古したい、って入院中によく言っていたのに。早く治すんだって、リハビリもたくさんやって、無理しすぎではと看護師に心配されたくせに。

 三年前に新しく通うようになった剣道クラブで、顔を輝かせながら竹刀を振っていたくせに。

「……本当は剣道、嫌いになってないんだろう。お前」

 俺はつい、隣の爽太に問いかけていた。

「何言ってるの!」

 爽太が慌てる。

 今の俺の言葉は、爽太がさっき真弓に言った言葉と明らかに矛盾するから。

「……剣道、嫌いなの?」

 真弓が問いかける。

 学校の先生に嘘がばれた生徒のように、爽太は下を向いた。

「あんなに楽しそうに話していたのに」

 爽太は、ひとつため息をついた。

「三刀屋あゆみって、知っています?」

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