第8章 舟入あかりの今の実家 1

 俺、井口颯いのくちはやては、自宅近くの駅にいた。改札の前で、爽太そうたと一緒にあかりを待っている。

「早く来すぎちゃったかな」

 爽太は、あかりの姿を探しながら言う。

「いや、ちょうどいいくらいだろ」

「でもあかり……舟入ふないりさん、遅いよ」

 爽太は、彼女のことを呼び直した。あかりの正体を知って、下の名前で呼びづらくなったのだろう。

「遅れるなら、ちゃんと連絡してくる」

「舟入さん、本気かな? 叔父と叔母に会ってほしいって」

 水曜日の夜、いったん家の外に出たあかりは、外で爽太と何か話した後、引き返してきた。

 そして、彼女は自分の今の実家に行って、二人に会ってほしいと言ってきた。

 突然、俺たちにとって知らない人に会えと言われたのだ。爽太は嫌がるだろうと思っていた。

 だが、あのときの爽太はちょっと考え込んで……

 ――行くよ。

 そう言った。

「まさか爽太、気が変わって嫌になったのか?」

「そんなんじゃないよ。でもいきなりだったし、びっくりしたから。昨日まで稽古にも集中できなかったくらい」

「嘘をつくなよ。堂場どうばさんを相手に全力だっただろ」

 水曜日の夜の後の今日まで、爽太は普段と変わらなかった。小学校から帰ってきて、いつもどおりバスに乗って、体育館に向かった。稽古をこなして、空いた時間で友達とじゃれて、そして家に帰っている。

「手を抜くのはダメだから。大会があるんだし、それが、その、最後になるんだし」

 やっぱり、剣道をやめるのは本気なのだ。

「いつだって、取りやめていいんだぞ。じいさんに話したことだって、こだわらなくていい」

「冗談で呼び寄せるわけないだろ」

 爽太にはもう、俺の生半可な言葉など届かない。

 水曜日の夜の爽太は、泣きながら、俺に縛られるなと言った。

 爽太が俺の前で泣いたのは、小学生になってから四度目だ。今まで三度しか、俺に涙を見せたことなどなかったのに。

 一度目は、俺が九州の高校に進学することになったとき。俺に抱きついて、行かないでとわんわん泣いて、いつまでも離れなかったものだ。

 二度目は、三年前、事故の連絡を受けて、俺が九州から爽太が搬送された病院に駆けつけたとき。包帯まみれになった爽太は、俺の姿を見つけるなり顔を歪めて泣いた。

 三度目は、爽太が車椅子で外出できるほど回復したのを待って執り行った、母さんの葬式のとき。母さんの眠る棺にしがみついて、泣いた。

 才治と綾乃の家には、事故の前から爽太もよく行っていた。だが他人の家は他人の家だ。住み慣れた場所ではない。しかも養子縁組したことで、苗字も三刀屋から井口に変わっている。

 母が死んで、住む場所も学校も自分の名前も変わって……小さい子供にはつらすぎる状況だ。苛立ちを、才治や綾乃、それから俺にぶつけるだろうと思っていた。あの二人も、多少の駄々やわがままは承知の上で引き取ったと話してくれた。

 だが、爽太は決して弱音を吐かなかった。

 才治と綾乃の家が自分の生まれ育った家のように、よく笑い、家事を手伝って、そして剣道の稽古に出る。泣いたことも、母に会いたいとこぼしたことも、一度もない。

 母の死で、爽太はすべての涙を流しきってしまったのではないか。

 あまりに空気を読みすぎる爽太に、そんな不安を抱いたほどに。

 でも、水曜日の夜、爽太は涙を流した。俺を縛り続けた自分を責めながら。

「おっ、来たよ」

 爽太の声で、俺は我に返った。駅舎の外から、あかりが小走りにこちらに向かってきている。急いでいて、あかりの短い髪が揺れた。

「おはよう」

 俺は声をかける。

「ごめんなさい。待たせました?」

 あかりは言いながら、はあはあと息を切らしていた。

「あか、舟入さん、本当に叔父さんと叔母さんに会わせるの?」

「そうだよ。あと爽太、言い直さないで。前みたいにあかりって呼んだらいいから」

「……最初は嫌がってたくせに」

 俺の見ないところで、あかりと爽太は何を話したんだか。

「ところで先輩、そろそろ行きます? 電車来ますよ」

「ああ」

 俺たちは改札を通り抜けた。

「あかりの叔父さんと叔母さんって、どんな人?」

 ホームに続く地下通路を歩きながら、爽太は尋ねている。

 素直にあかりと呼んでいて、なぜかしら俺はほっとした。

「爽太の叔父さんと叔母さんと同じだよ。優しくていい人だから」

「会って何を話すの?」

「本当にただ会ってほしいだけだから。ご飯食べて、お茶して、それだけ」

「変なの。いきなり手を掴んで一緒に来てほしいって言うから、俺、緊張してたのに」

 そのまま俺たち三人は、ホームで電車を待つ。

 すぐに、電車の到着を知らせる自動案内が流れた。ホームに、国鉄時代に造られた黄色い古い電車が滑り込んでくる。


 電車に乗り込むと、ちょうど四人掛けのボックス席が空いていた。俺と爽太は隣同士で、向かいにあかりが座る。

 落ち着くと同時に、電車のドアが閉まった。電車はモーターをうならせながら走り出す。爽太は、あまり乗らない電車の車窓に興味津々という様子だが。

「舟入さん、そっちの実家に、俺たちのことを話したりしているのか?」

 俺は尋ねる。

「話しました」

「どれくらい?」

 隣の爽太も身構えて、あかりを見つめている。

「先輩がよく煉瓦珈琲に来てくださることと、神社のお手伝いをしていること、あと子供たちに剣道を教えていること、です。あとは、爽太も剣道をしていることくらい」

「この間のことは? 事故についても」

「話していません。連絡したのは、今日先輩や爽太と一緒に帰るってことだけです」

 ほっとするのが半分。

 でも、息苦しさも半分だった。

 なぜだろう。あかりが、事故のことや、爽太のこれからのことを叔父叔母に話してくれていたらよかったのにと思っている自分がいる。これから会うのは会ったこともない他人で、俺たちの問題を抱え込む義理なんてないのに。

「私の叔父さんと叔母さん、いつか井口先輩にも会いたいって話していたんです。もちろん爽太も」

「俺も?」

「うん。きっと頑張り屋さんなんでしょうね、って叔母さんが話していたよ」

「なあ、まさかと思うけど、それにかこつけて俺を引き留めようとしているんじゃないだろうな」

 爽太に言葉で説得するのは不可能。この三日で、俺は思い知っていた。

「言ったでしょう。本当にただ話してほしいだけだから」

「なんで連れていくんだよ」

「この間はシチュー、ごちそうになったし、おいしかったから、恩返しをね。ちなみに叔母さんには、ハンバーグの具材を用意してるって」

「ハンバーグ……おいしそう」

 肉料理が好きな爽太は、その言葉に涎を垂らしそうな顔になる。

 水曜日はあんなことを言った爽太だけれど、こういうところは子供のままだ。

「あのシチューを作ったの、綾乃さんだぞ。あの人は誘わないのか?」

 俺が突っ込みを入れると、あかりは少し顔を赤くした。

「こうして三人だけで行きたかったので。綾乃あやのさんにもちゃんとお礼しますから」

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